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「京極高住」の版間の差分

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2007年2月26日 (月) 08:44時点における版

京極 高住きょうごく たかすみ)は、但馬豊岡藩の第2代藩主。

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時代 江戸時代前期から中期
生誕 万治3年8月10日1660年9月14日
死没 享保15年8月13日1730年9月24日
別名 土肥之助(幼名)、甲斐入道(剃髪後)
諡号 云奴
戒名 興国寺殿普明院大雲道端大居士
墓所 東京都墨田区向島の弘福寺
官位 従五位下、甲斐
但馬豊岡藩主
氏族 京極氏
父母 父:京極高直、母:水野忠善の娘
養父:京極高盛
兄弟 高盛、高住
正室:松平直矩の養女(東園基賢の娘)
側室:難波氏(寿林院)
京極高栄京極高正京極善興

万治3年(1660年)8月10日、丹後田辺藩主・京極高直の四男として江戸柳原邸で生まれる。延宝2年(1674年)3月18日、初代藩主で兄の高盛が隠居したため、その養子として後を継ぎ、従五位下、甲斐守に叙任する。

本家の宮津藩京極家が改易された後、豊岡藩京極氏が京極本家となったが、築城が認められなかったため、高住は不満を抱きながら寺社建設に尽力したと言われている。正徳4年(1714年)7月29日、長男の京極高栄に家督を譲って隠居した。その後、剃髪して甲斐入道と号した。

しかし享保6年(1721年)に高栄が早世し、その後を継いだ嫡孫の京極高寛も早世すると、豊岡藩京極家は無嗣断絶で改易となる。しかし高住が高寛の弟・京極高永の後継ぎを認めるよう幕府に運動したこともあって、高永に3万3000石から1万5000石に所領を削減することで家督を継ぐことが認められた。

享保15年(1730年)8月13日、武蔵足立郡渕江の別邸で死去。享年71。

先代
京極高盛
京極氏(豊岡藩2代)藩主
1674~1714
次代
京極高栄