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[[File:Goujian sword and inscript detail.svg|thumb|right|120px|『[[越王勾践剣]]』。湖北省博物館所蔵。[[篆書体#鳥虫篆|鳥虫篆]]を用いた銘がある(上の4文字は「越王自作」)。]]
'''勾践'''<ref>『[[史記索隠]]』が引く『[[竹書紀年]]』によると、別[[諱]]は'''菼執'''。</ref><ref>前述の『越王勾践剣』によると、もうひとつの別諱は'''鳩浅'''。</ref>(こうせん、? - [[紀元前465年]])は、[[中国]][[春秋時代]]後期の[[越]]の王。[[范レイ|范蠡]]の補佐を得て当時華南で強勢を誇っていた[[呉 (春秋)|呉]]を滅ぼした。[[春秋五覇]]の一人に数えられることもある。'''句践'''とも表記される。越[[允常]]<ref>『[[春秋左氏伝]]』では'''公子倉'''と記されている。</ref>の子で、[[楚 (春秋)|楚]]の[[恵王 (楚)|恵王]]の[[外祖父]]。
'''勾践'''<ref>『[[史記索隠]]』が引く『[[竹書紀年]]』によると、別[[諱]]は'''菼執'''。</ref><ref>前述の『越王勾践剣』によると、もうひとつの別諱は'''鳩浅'''。</ref>(こうせん)は、[[中国]][[春秋時代]]後期の[[越]]の王。[[范蠡]]の補佐を得て当時華南で強勢を誇っていた[[呉 (春秋)|呉]]を滅ぼした。[[春秋五覇]]の一人に数えられることもある。'''句践'''とも表記される。越[[允常]]<ref>『[[春秋左氏伝]]』では'''公子倉'''と記されている。</ref>の子で、[[楚 (春秋)|楚]]の[[恵王 (楚)|恵王]]の[[外祖父]]にあたる


== 生涯 ==
== 生涯 ==
[[紀元前496年]]、越を強勢に築き上げた父の允常が逝去すると、太子勾践が後を継いだ。宿敵の允常の訃報を聞いた呉王[[闔閭]]喪中に服したを滅ぼすべく大軍を率いて攻め込んだ。しかし、[[スイ李|檇李]](現[[浙江省]][[嘉興市]])で、[[范レイ|范蠡]]の奇策によって呉軍は大敗し、越の武将[[霊姑孚]]が放った矢で片足を傷した闔閭はこれが原因で陣没する代わって太子の[[夫差]]が呉王として即位した。
[[紀元前496年]]、越を強勢に築き上げた父の允常が逝去すると、太子勾践が後を継いだ。の允常の訃報を契機として、呉王[[闔閭]]が、喪中大軍を率いて攻め込んだ。しかし、父の代より仕えていた[[范蠡]]の奇策により、呉軍を欈李(現在の[[浙江省]][[嘉興市]][[海寧市]])で大敗に追い込んだ。この戦で越の武将[[霊姑孚]]が放った矢で片足を傷した闔閭はこれが原因で[[破傷風]]に罹り陣没。勾践の即位とともに襲来した呉においても、父の陣没によって太子の[[夫差]]が即位。これ以降、勾践と呉王の夫差の対立がさらに深まった。


夫差は、[[伍子胥]]の補佐を得て呉を建て直し、越に攻め込んで今度は越を滅亡寸前までに追い詰めた。
越への復讐心を滾らせる夫差は、[[伍子胥]]の補佐を得て呉を建て直し、これを妨害せんと出撃してきた勾践を撃破。そのまま越に攻め込んで今度は越を滅亡寸前までに追い詰めた。


勾践は范蠡の進言に従って夫差に和を請い、夫差は伍子胥の猛烈な反対を押し切ってこれを受け入れた。勾践は呉に赴き夫差の召し使いとして仕えることになったが、范蠡の工作により程なくして越に戻ることになった。
勾践は范蠡の進言に従って夫差に和を請い、夫差は伍子胥の猛烈な反対を押し切ってこれを受け入れた。勾践は呉に赴き夫差の召し使いとして仕えることになったが、范蠡の工作により程なくして越に戻ることになった。
勾践はこのときの悔しさを忘れず、部屋に苦い肝を吊るして毎日のようにそれを舐めて呉に対する復讐を誓った。前述の夫差と合わせて[[臥薪嘗胆]]という故事の元となった逸話である。
勾践はこのときの悔しさを忘れず(これを「'''会稽の恥'''」と言う)、部屋に苦い肝を吊るして毎日のようにそれを舐めて呉に対する復讐を誓った。前述の夫差と合わせて[[臥薪嘗胆]]という故事の元となった逸話である。


越は着々と国力を蓄え、夫差が中原の会盟に出かけたときを狙って呉に攻め込んだ。呉の太子友は斬られ、夫差は慌てて呉へ引き返してきたが、これより4年後に呉は越に滅ぼされることになる。
越は着々と国力を蓄え、夫差が中原の会盟に出かけたときを狙って呉に攻め込んだ。呉の太子友は斬られ、夫差は慌てて呉へ引き返してきたが、これより4年後に呉は越に滅ぼされることになる。勾践は敗れた夫差を再起できぬように甬東([[舟山群島]])へ流罪に処そうとしたが夫差は恥じて自決した


呉を滅ぼした勾践は、越の都を現在の[[江蘇省]][[連雲港]]に遷し、更に諸侯を会盟して中原の覇者となった。
呉を滅ぼした勾践は、越の都を瑯琊(現在の[[江蘇省]][[連雲港市]][[海州区 (連雲港市)|海州区]]に遷し、更に諸侯を会盟して中原の覇者となった。


ただ、覇者となった勾践は讒言を信じるようになり腹心の范蠡が去り文種を自殺させたりと越を衰退させる結果となった。
ただ、覇者となった勾践は讒言を信じるようになり腹心の范蠡が去り文種を自殺させたりと越を衰退させる結果となった。


== 勾践の剣 ==
== 勾践の剣 ==
勾践は『越王勾践剣』と呼ばれる8本の名刀を作らせ保有していたと残されている。[[1965年]]、その1本であると言われる[[銅剣]]が[[湖北省]][[江陵県]]望山1号墓より出土した。保存状態はきわめて良好で[[さび]]が見つからなかった。原因を探るために[[X線]]回折法で分析したところ、表面[[硫化銅]]の皮膜で覆ってあったといわれている<ref>[http://www.tdk.co.jp/techmag/ninja/daa00480.htm 第56回「ナノテクノロジーと磁石」の巻|じしゃく忍法帳|TDK Techno Magazine]</ref>。なお、夫差同じ湖北省で見つかっている
勾践は『[[越王勾践剣]]』と呼ばれる8本の名刀を作らせ保有していたと残されている。[[1965年]]、その1本であると言われる[[銅剣]]が[[湖北省]][[荊州区|江陵県]]望山1号墓より出土した。保存状態はきわめて良好で[[さび]]が見つからなかった。原因を探るために[[X線]]回折法で分析したところ、表面[[硫化銅]]の皮膜で覆ってあったといわれている<ref>[http://www.tdk.co.jp/techmag/ninja/daa00480.htm 第56回「ナノテクノロジーと磁石」の巻|じしゃく忍法帳|TDK Techno Magazine]</ref>。[[1979年]]まに三振りの勾践の剣が発された<ref>越王勾践の剣を発見『朝日新聞』1979年(昭和54年)6月4日朝刊 13版 22面</ref>
なお、夫差の矛『[[呉王夫差矛]]』も同じ湖北省で見つかっている。


== 桜樹題詩 ==
== 桜樹題詩 ==
『[[太平記]]』巻第4「呉越闘事」(西源院本の事書)には、[[後醍醐天皇]]が隠岐に流される途上、臣下の[[児島高徳]]が美作・杉坂の宿の庭に立つ桜の樹に「天、勾践を空しゅうする莫れ 時に范蠡無きにしも非ず」という詩を書き付けてひそかに励ました物語がみえる。これは文部省唱歌「児島高徳」にも唄われた。
『[[太平記]]』巻第4「呉越闘事」(西源院本の事書)には、[[後醍醐天皇]]が隠岐に流される途上、臣下の[[児島高徳]]が美作・杉坂の宿の庭に立つ桜の樹に「天、勾践を空しゅうする莫れ 時に范蠡無きにしも非ず」という詩を書き付けてひそかに励ました物語がみえる。これは文部省唱歌「児島高徳」にも唄われた。


== 勾践を題材とした作品 ==
== 勾践が登場する作品 ==
;小説
*[[燃ゆる呉越]]([[中央電視台]](CCTV)製作の[[テレビドラマ]]、2006年、演:[[陳宝国|チェン・パオクオ]])
*『[[越女剣]]』([[金庸]])
*[[復讐の春秋 -臥薪嘗胆-]]([[中華人民共和国]]の[[テレビドラマ]]、2007年、演:[[チェン・ダオミン]]) - 勾践と夫差との22年間の戦いによる作品。
*[[三国争乱 春秋]]([[江蘇衛星テレビ]]、2008年、演:[[章賀]])
*『呉越春秋 湖底の([[宮城谷昌光]])
;テレビドラマ
*[[東周列国 春秋篇]](1996年、演:[[李洪濤]])
*{{仮リンク|燃ゆる呉越|zh|越王勾践 (电视剧)}}(2006年、演:[[陳宝国|チェン・パオクオ]])
*{{仮リンク|争覇-越王に仕えた男-|zh|爭霸}}(2006年、演:[[ダミアン・ラウ]])
*[[復讐の春秋 -臥薪嘗胆-]](2007年、演:[[陳道明|チェン・ダオミン]]) - 勾践と夫差との22年間の戦いによる作品。
*[[孫子兵法 (テレビドラマ)|孫子兵法]](2008年、演:[[趙浜]])
*[[三国争乱 春秋炎城]](2008年、演:[[章賀]])
*[[孫子《兵法》大伝]](2010年、演:{{仮リンク|張博|zh|张博 (1982年)|label=チャン・ボー}})
*{{仮リンク|女たちの孫子英雄伝|zh|英雄 (2013年電視劇)}}(2012年、演:[[マイケル・ツェー]])


== 脚注 ==
== 脚注 ==
<references />
<references />


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[[Category:中国の君主]]
[[Category:の君主]]
[[Category:春秋国時代の人物]]
[[Category:戦争中に捕虜になった君主]]
[[Category:紀元前465]]
[[Category:不明]]
[[Category:紀元前464年没]]

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勾践
在位期間 前496年 - 前464年
都城 会稽
生年 不詳
没年 勾践32年(前464年)11月
允常

勾践[1][2](こうせん)は、中国春秋時代後期のの王。范蠡の補佐を得て、当時華南で強勢を誇っていたを滅ぼした。春秋五覇の一人に数えられることもある。句践とも表記される。越侯允常[3]の子で、恵王外祖父にあたる。

生涯

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紀元前496年、越を強勢に築き上げた父の允常が逝去すると、太子勾践が後を継いだ。この允常の訃報を契機として、呉王の闔閭が、喪中の越へ大軍を率いて攻め込んだ。しかし、父の代より仕えていた范蠡の奇策により、呉軍を欈李(現在の浙江省嘉興市海寧市)で大敗に追い込んだ。この戦で越の武将霊姑孚が放った矢で片足を負傷した闔閭は、これが原因で破傷風に罹り陣没。勾践の即位とともに襲来した呉においても、父の陣没によって太子の夫差が即位。これ以降、勾践と呉王の夫差との対立がさらに深まった。

越への復讐心を滾らせる夫差は、伍子胥の補佐を得て呉を建て直し、これを妨害せんと出撃してきた勾践を撃破。そのまま越に攻め込んで今度は越を滅亡寸前までに追い詰めた。

勾践は范蠡の進言に従って夫差に和を請い、夫差は伍子胥の猛烈な反対を押し切ってこれを受け入れた。勾践は呉に赴き夫差の召し使いとして仕えることになったが、范蠡の工作により程なくして越に戻ることになった。 勾践はこのときの悔しさを忘れず(これを「会稽の恥」と言う)、部屋に苦い肝を吊るして毎日のようにそれを舐めて呉に対する復讐を誓った。前述の夫差と合わせて臥薪嘗胆という故事の元となった逸話である。

越は着々と国力を蓄え、夫差が中原の会盟に出かけたときを狙って呉に攻め込んだ。呉の太子友は斬られ、夫差は慌てて呉へ引き返してきたが、これより4年後に呉は越に滅ぼされることになる。勾践は敗れた夫差を再起できぬように甬東(舟山群島)へ流罪に処そうとしたが夫差は恥じて自決した。

呉を滅ぼした勾践は、越の都を瑯琊(現在の江蘇省連雲港市海州区)に遷し、更に諸侯を会盟して中原の覇者となった。

ただ、覇者となった勾践は讒言を信じるようになり腹心の范蠡が去り文種を自殺させたりと越を衰退させる結果となった。

勾践の剣

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勾践は『越王勾践剣』と呼ばれる8本の名刀を作らせ保有していたと残されている。1965年、その1本であると言われる銅剣湖北省江陵県望山1号墓より出土した。保存状態はきわめて良好でさびが見つからなかった。原因を探るためにX線回折法で分析したところ、表面を硫化銅の皮膜で覆ってあったといわれている[4]。その後も1979年までに三振りの勾践の剣が発見された[5]。 なお、夫差の矛『呉王夫差矛』も同じ湖北省で見つかっている。

桜樹題詩

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太平記』巻第4「呉越闘事」(西源院本の事書)には、後醍醐天皇が隠岐に流される途上、臣下の児島高徳が美作・杉坂の宿の庭に立つ桜の樹に「天、勾践を空しゅうする莫れ 時に范蠡無きにしも非ず」という詩を書き付けてひそかに励ました物語がみえる。これは文部省唱歌「児島高徳」にも唄われた。

勾践が登場する作品

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小説
テレビドラマ

脚注

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  1. ^ 史記索隠』が引く『竹書紀年』によると、別菼執
  2. ^ 前述の『越王勾践剣』によると、もうひとつの別諱は鳩浅
  3. ^ 春秋左氏伝』では公子倉と記されている。
  4. ^ 第56回「ナノテクノロジーと磁石」の巻|じしゃく忍法帳|TDK Techno Magazine
  5. ^ 越王勾践の剣を発見『朝日新聞』1979年(昭和54年)6月4日朝刊 13版 22面