「泥田坊」の版間の差分
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妖怪研究家・[[多田克己]]は、『今昔百鬼拾遺』の泥田坊は石燕が言葉遊びで創作したものであり、[[遊郭]]の[[吉原 (東京都)|新吉原]]を意味しているとの説を唱えている。江戸時代では「北国」とは吉原の異称であり、新吉原は田園に作られたために吉原田圃とも呼ばれていた。「泥」は放蕩の蕩(どろ)に通じ、「翁が死ぬ」は翁亡くす→置なくす、即ち質草を流すことに通じるというのである。また多田は「田を返せ」という台詞を「田を耕せ」という意味に解釈しているが、田を耕すとは性交を意味する隠語であり、「田を返せ」は客引きの台詞という意味にもとれる。このように言葉の意味を解いていくと、泥田坊は新吉原のことを妖怪の姿として描いたものと解釈することができる<ref>『妖怪事典』 244頁。</ref>。 |
妖怪研究家・[[多田克己]]は、『今昔百鬼拾遺』の泥田坊は石燕が言葉遊びで創作したものであり、[[遊郭]]の[[吉原 (東京都)|新吉原]]を意味しているとの説を唱えている。江戸時代では「北国」とは吉原の異称であり、新吉原は田園に作られたために吉原田圃とも呼ばれていた。「泥」は放蕩の蕩(どろ)に通じ、「翁が死ぬ」は翁亡くす→置なくす、即ち質草を流すことに通じるというのである。また多田は「田を返せ」という台詞を「田を耕せ」という意味に解釈しているが、田を耕すとは性交を意味する隠語であり、「田を返せ」は客引きの台詞という意味にもとれる。このように言葉の意味を解いていくと、泥田坊は新吉原のことを妖怪の姿として描いたものと解釈することができる<ref>『妖怪事典』 244頁。</ref>。 |
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また文学博士・阿部正路の説によれば、人間の5本指 |
また文学博士・阿部正路の説によれば、人間の手の5本指は2つの美徳と3つの悪徳を示し、瞋恚、貪婪、愚痴という3つの悪徳を知恵と慈悲の2つの美徳で抑えているので、3本指の泥田坊は悪徳のみで生きる卑しい存在としている<ref>『幻想世界の住人たち IV』 208頁。</ref>。 |
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== 脚注 == |
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2008年5月24日 (土) 07:34時点における版
泥田坊(どろたぼう)は、鳥山石燕による画集『今昔百鬼拾遺』にある妖怪。
概要
画図での泥田坊は顔が片目のみで手の指が3本しかなく、泥田から上半身のみを現した姿で描かれている。解説文によれば、北国に住む翁が、子孫のために買い込んだ田を遺して死んでしまい、その息子は農業を継ぐどころか酒ばかり飲んで遊びふけっており、夜な夜な田に一つ目の者が現れ「田を返せ、田を返せ」と罵ったとある。
このことから一般には、農業を営む老人が田を遺して死んだ末、放蕩息子を怨んで泥田坊という妖怪と化したものとされる。太平洋戦争の時期には、基地建設のために多くの農地が撤収され、農民は反対したために逮捕されたり、行き場を失って浮浪者となったり自殺したりと不遇な死を遂げたことから、昭和に入ってから彼らの怨念が泥田坊と化して祟りを起こしたとの説もある[1]。
妖怪研究家・多田克己は、『今昔百鬼拾遺』の泥田坊は石燕が言葉遊びで創作したものであり、遊郭の新吉原を意味しているとの説を唱えている。江戸時代では「北国」とは吉原の異称であり、新吉原は田園に作られたために吉原田圃とも呼ばれていた。「泥」は放蕩の蕩(どろ)に通じ、「翁が死ぬ」は翁亡くす→置なくす、即ち質草を流すことに通じるというのである。また多田は「田を返せ」という台詞を「田を耕せ」という意味に解釈しているが、田を耕すとは性交を意味する隠語であり、「田を返せ」は客引きの台詞という意味にもとれる。このように言葉の意味を解いていくと、泥田坊は新吉原のことを妖怪の姿として描いたものと解釈することができる[2]。
また文学博士・阿部正路の説によれば、人間の手の5本指は2つの美徳と3つの悪徳を示し、瞋恚、貪婪、愚痴という3つの悪徳を知恵と慈悲の2つの美徳で抑えているので、3本指の泥田坊は悪徳のみで生きる卑しい存在としている[3]。
脚注
関連項目
参考文献
- 多田克己『幻想世界の住人たち IV 日本編』新紀元社、1990年。ISBN 4-915-14644-8。
- 村上健司編著『妖怪事典』毎日新聞社、2000年。ISBN 4-620-31428-5。