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1974年[[4月4日]]に開幕し[[10月17日]]に全日程を終え、[[アメリカンリーグ]]は[[オークランド・アスレチックス]](西地区優勝)が3年連続12度目のリーグ優勝で、[[ナショナルリーグ]]は[[ロサンゼルス・ドジャース]](西地区優勝)が8年ぶり17度目のリーグ優勝であった。 |
1974年[[4月4日]]に開幕し[[10月17日]]に全日程を終え、[[アメリカンリーグ]]は[[オークランド・アスレチックス]](西地区優勝)が3年連続12度目のリーグ優勝で、[[ナショナルリーグ]]は[[ロサンゼルス・ドジャース]](西地区優勝)が8年ぶり17度目のリーグ優勝であった。 |
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[[ワールドシリーズ]]はオークランド・アスレチックスがロサンゼルス・ドジャースを4勝1敗で破り、3年連続8度目のワールドシリーズ制覇でシリーズ |
[[ワールドシリーズ]]はオークランド・アスレチックスがロサンゼルス・ドジャースを4勝1敗で破り、3年連続8度目のワールドシリーズ制覇でシリーズ3連覇となった。 |
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== できごと == |
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アメリカンリーグ |
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*東地区は、オリオールズが、久しぶりに優勝争いに加わったヤンキースを抑え、東地区優勝した。この年のオリオールズは3割打者皆無、本塁打20本以上打者も皆無で前年活躍した[[ジム・パーマー]] (7勝)も大不調だったが、[[マイク・クェイヤー]] (22勝)、 [[デーブ・マクナリー]] (16勝)、ロス・グリムズリー(18勝)ら投手陣が踏ん張り、1969年に東西地区制になってから6年間で5度目の地区優勝であった。西地区は、前年までリーグ2連覇・シリーズも2連覇したアスレチックスが強く、[[キャットフィッシュ・ハンター]](25勝)、[[ヴァイダ・ブルー]](20勝)、ケン・ホルツマン(19勝)、リリーフに[[ローリー・フィンガーズ]](9勝・13セーブ)、ダロルド・ノウルズの投手陣が強く、打線も前年リーグもシリーズもMVPだった[[レジー・ジャクソン]](打率.289・本塁打29本・打点93)、サル・バンドー(本塁打22本・打点103)、[[ジョー・ルディ]](打率.293・本塁打22本・打点99)、ビリー・ノース(盗塁54)、それに[[バート・キャンパネリス]](打率.290)らがいて攻守が固く、1971年から |
*東地区は、オリオールズが、久しぶりに優勝争いに加わったヤンキースを抑え、東地区優勝した。この年のオリオールズは3割打者皆無、本塁打20本以上打者も皆無で前年活躍した[[ジム・パーマー]] (7勝)も大不調だったが、[[マイク・クェイヤー]] (22勝)、 [[デーブ・マクナリー]] (16勝)、ロス・グリムズリー(18勝)ら投手陣が踏ん張り、1969年に東西地区制になってから6年間で5度目の地区優勝であった。西地区は、前年までリーグ2連覇・シリーズも2連覇したアスレチックスが強く、[[キャットフィッシュ・ハンター]](25勝)、[[ヴァイダ・ブルー]](20勝)、ケン・ホルツマン(19勝)、リリーフに[[ローリー・フィンガーズ]](9勝・13セーブ)、ダロルド・ノウルズの投手陣が強く、打線も前年リーグもシリーズもMVPだった[[レジー・ジャクソン]](打率.289・本塁打29本・打点93)、サル・バンドー(本塁打22本・打点103)、[[ジョー・ルディ]](打率.293・本塁打22本・打点99)、ビリー・ノース(盗塁54)、それに[[バート・キャンパネリス]](打率.290)らがいて攻守が固く、1971年から西地区4連覇であった。[[リーグチャンピオンシップシリーズ]]は、アスレチックスが断然強く、初戦はオリオールズだったが第2戦からホルツマン、ブルー、ハンターが先発して3連勝して、リーグ3連覇となった。 |
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*個人タイトルは、ツインズの [[ロッド・カルー]] (打率.364)が3年連続4度目の首位打者、ホワイトソックスの[[ディック・アレン]] (本塁打32本)が2年ぶり2度目の本塁打王、レンジャーズの [[ジェフ・バロウズ]] (打点118)が初の打点王、優勝したアスレチックスのビリー・ノース(盗塁54)が初の盗塁王となった。アスレチックスの[[キャットフィッシュ・ハンター]](25勝・防御率2.49)が初の最多勝と最優秀防御率、レンジャーズの[[ファーガソン・ジェンキンス]] (25勝)が3年ぶり2度目の最多勝、エンゼルスの[[ノーラン・ライアン]] (22勝・奪三振 367)が3年連続3度目の最多奪三振であった。リーグMVPは打点王を取った [[ジェフ・バロウズ]] 、サイ・ヤング賞はアスレチックスの[[キャットフィッシュ・ハンター]]でこの年のシーズン終了後アスレチックスと契約事項の一部不履行を訴えて、翌年ヤンキースに移籍した。 |
*個人タイトルは、ツインズの [[ロッド・カルー]] (打率.364)が3年連続4度目の首位打者、ホワイトソックスの[[ディック・アレン]] (本塁打32本)が2年ぶり2度目の本塁打王、レンジャーズの [[ジェフ・バロウズ]] (打点118)が初の打点王、優勝したアスレチックスのビリー・ノース(盗塁54)が初の盗塁王となった。アスレチックスの[[キャットフィッシュ・ハンター]](25勝・防御率2.49)が初の最多勝と最優秀防御率、レンジャーズの[[ファーガソン・ジェンキンス]] (25勝)が3年ぶり2度目の最多勝、エンゼルスの[[ノーラン・ライアン]] (22勝・奪三振 367)が3年連続3度目の最多奪三振であった。リーグMVPは打点王を取った [[ジェフ・バロウズ]] 、サイ・ヤング賞はアスレチックスの[[キャットフィッシュ・ハンター]]でこの年のシーズン終了後アスレチックスと契約事項の一部不履行を訴えて、翌年ヤンキースに移籍した。 |
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ワールドシリーズ |
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*第1戦は、アスレチックスがケン・ホルツマン、[[ローリー・フィンガース]]、[[キャットフィッシュ・ハンター]]の豪華リレーで[[レジー・ジャクソン]]の本塁打もあり3-2でドジャースを下し、第2戦はドジャースが[[ドン・サットン]]、[[マイク・マーシャル (投手)|マイク・マーシャル]] で3-2でアスレチックスを下し、第3戦は[[キャットフィッシュ・ハンター]]、[[ローリー・フィンガース]]で3-2でアスレチックスが、第4戦はケン・ホルツマンと[[アンディ・メッサースミス]] との投げ合いは6回にメッサースミスが崩れアスレチックスが5-2で連勝し王手をかけた。第6戦は[[ドン・サットン]]が投げたがアスレチックスに2点先行され6回に追いついたが、リリーフに出た[[マイク・マーシャル (投手)|マイク・マーシャル]] に[[ジョー・ルディ]]が決勝本塁打を打ち3-2でアスレチックスが勝ち、これでシリーズ |
*第1戦は、アスレチックスがケン・ホルツマン、[[ローリー・フィンガース]]、[[キャットフィッシュ・ハンター]]の豪華リレーで[[レジー・ジャクソン]]の本塁打もあり3-2でドジャースを下し、第2戦はドジャースが[[ドン・サットン]]、[[マイク・マーシャル (投手)|マイク・マーシャル]] で3-2でアスレチックスを下し、第3戦は[[キャットフィッシュ・ハンター]]、[[ローリー・フィンガース]]で3-2でアスレチックスが、第4戦はケン・ホルツマンと[[アンディ・メッサースミス]] との投げ合いは6回にメッサースミスが崩れアスレチックスが5-2で連勝し王手をかけた。第6戦は[[ドン・サットン]]が投げたがアスレチックスに2点先行され6回に追いついたが、リリーフに出た[[マイク・マーシャル (投手)|マイク・マーシャル]] に[[ジョー・ルディ]]が決勝本塁打を打ち3-2でアスレチックスが勝ち、これでワールドシリーズ3連覇となった。5試合のうち4試合が3-2の接戦で、シリーズMVPは[[ローリー・フィンガース]]が選ばれた。 |
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=== ハンク・アーロンの715号本塁打=== |
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1952年に当時のボストン・ブレーブスと入団契約し、1954年にミルウォーキー・ブレーブスからメジャーデビューした[[ハンク・アーロン]]は、ここまで首位打者2回、本塁打王4回、打点王4回を獲得し、1955年以降は確実に毎年20本以上の本塁打を打ち、シーズン50本台に乗ったことは無かったが、最低でも24本、最高で47本打ってきた。前年1973年も40本を打ち、8度目の40本台に乗せて通算本塁打713本となった。1960年代に入った頃にもしベーブ・ルースの714本の本塁打記録を破る者がいたとしたらという予想で名前が挙がったのが[[ミッキー・マントル]]、[[エディ・マシューズ]]、[[ウィリー・メイズ]]だった。しかし1962年頃からはマントルもマシューズも下降線を辿り通算500本台に乗せるのがやっとであった。そしてメイズも60年代後半に入ると衰え始めて前年に通算660本で引退した。この時点でハンク・アーロンは714本に一番近い打者となった。堅実で派手さの無いプレースタイル、物静かな男であるが、アーロンの一番の武器はケガをしない丈夫な身体であった。打撃のみならず守備や走塁でも高いレベルにあったが、[[ウィリー・メイズ]]ほどの強いインパクトのある選手ではなく概して地味な選手であった。しかしマントルは後に自分たちの世代の中ではアーロンが最高の選手だったと述べている。前年秋からルースの記録を破る男として注目され、メディアの報道も過熱するとともに彼への嫌がらせや脅迫が多くなった。しかし彼は挫けなかった。この年のシンシナチでの開幕試合でついに714号を打つと、地元アトランタでの試合がある日に合わせるため監督は、アーロンを2戦目と3戦目を休ませる措置を取るとコミッショナーから出場命令が出て、3戦目は出場して本塁打は打たず?、迎えた4月8日のアトランタでの開幕戦の第2打席でドジャースのアル・ダウニング投手からレフトスタンドへ715号の本塁打を打った。テレビ実況したビン・スカリーは「何という素晴らしい瞬間でしょう」と述べた。ルースの不滅の記録を破ったことで[[ハンク・アーロン]]は人種間の壁を超えた存在になった。 |
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=== トミー・ジョンの手術=== |
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ドジャースの主戦投手[[トミー・ジョン]]は前年は16勝、この年も7月までにリーグ最多の13勝・防御率2.59と絶好調だった。しかし7月17日の対エクスポズ戦でシンカーを投げた際にヒジから何かが弾けるような音がした。「変な感覚だった」が痛みは無いのだが球はもう捕手まで届かなくなっていた。急ぎチームの医療スタッフだったフランク・ジョーブ博士の診察をしてX線検査も行い、ヒジの紐帯が断裂している可能性があると診断した。それは1974年当時では投手生命を絶たれたことを意味していた。そしてジョーブ博士は[[トミー・ジョン]]にある手術を提案した。損傷した左ヒジの腱の代わりに他の箇所(右手首)の腱を移植するものであった。ジョンは手術をする決意を固め、9月25日に手術が行われた。その後はリハビリに取り組んだ。このリハビリ期間は長く続いた。復活できる可能性は1%と言われ、移植した腱が動き紐帯として十分に機能するかどうかさえ分からない手探りの日々が続いた。 |
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=== 記録 === |
=== 記録 === |
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* 4月8日、[[ハンク・アーロン]]が[[ベーブ・ルース]]の通算本塁打記録714本を破る歴代最高の715本を記録した。 |
* 4月8日、[[ハンク・アーロン]]が[[ベーブ・ルース]]の通算本塁打記録714本を破る歴代最高の715本を記録した。 |
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* 『米大リーグ 輝ける1世紀~その歴史とスター選手~』≪1974年≫ 129P参照 週刊ベースボール 1978年6月25日増刊号 ベースボールマガジン社 |
* 『米大リーグ 輝ける1世紀~その歴史とスター選手~』≪1974年≫ 129P参照 週刊ベースボール 1978年6月25日増刊号 ベースボールマガジン社 |
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* 『メジャーリーグ ワールドシリーズ伝説』 1905-2000(1974年) 113P参照 上田龍 著 2001年10月発行 ベースボールマガジン社 |
* 『メジャーリーグ ワールドシリーズ伝説』 1905-2000(1974年) 113P参照 上田龍 著 2001年10月発行 ベースボールマガジン社 |
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* 『メジャー・リーグ球団史』≪ボルチモア・オリオールズ≫ 60P参照 出野哲也 著 2018年5月30日発行 言視社 |
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* 『メジャー・リーグ球団史』≪シンシナティ・レッズ≫ 160P参照 |
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* 『メジャー・リーグ球団史』≪ロサンゼルス・ドジャース≫ 297P参照 |
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* 『メジャー・リーグ球団史』≪オークランド・アスレチックス≫ 430P参照 |
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* 『メジャー・リーグ球団史』≪ピッツバーグ・パイレーツ≫ 481-482P参照 |
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* 『スラッガー 8月号増刊 MLB歴史を変えた100人」≪ハンク・アーロン≫ 12-13P参照 2017年8月発行 日本スポーツ企画出版社 |
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* 『スラッガー 8月号増刊 MLB歴史を変えた100人」≪トミー・ジョン≫ 24-25P参照 |
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== 関連項目 == |
== 関連項目 == |
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* [[1974年の野球]] |
* [[1974年の野球]] |
2019年2月16日 (土) 13:15時点における版
以下は、メジャーリーグベースボール(MLB)における1974年のできごとを記す。
1974年4月4日に開幕し10月17日に全日程を終え、アメリカンリーグはオークランド・アスレチックス(西地区優勝)が3年連続12度目のリーグ優勝で、ナショナルリーグはロサンゼルス・ドジャース(西地区優勝)が8年ぶり17度目のリーグ優勝であった。
ワールドシリーズはオークランド・アスレチックスがロサンゼルス・ドジャースを4勝1敗で破り、3年連続8度目のワールドシリーズ制覇でシリーズ3連覇となった。
できごと
アメリカンリーグ
- 東地区は、オリオールズが、久しぶりに優勝争いに加わったヤンキースを抑え、東地区優勝した。この年のオリオールズは3割打者皆無、本塁打20本以上打者も皆無で前年活躍したジム・パーマー (7勝)も大不調だったが、マイク・クェイヤー (22勝)、 デーブ・マクナリー (16勝)、ロス・グリムズリー(18勝)ら投手陣が踏ん張り、1969年に東西地区制になってから6年間で5度目の地区優勝であった。西地区は、前年までリーグ2連覇・シリーズも2連覇したアスレチックスが強く、キャットフィッシュ・ハンター(25勝)、ヴァイダ・ブルー(20勝)、ケン・ホルツマン(19勝)、リリーフにローリー・フィンガーズ(9勝・13セーブ)、ダロルド・ノウルズの投手陣が強く、打線も前年リーグもシリーズもMVPだったレジー・ジャクソン(打率.289・本塁打29本・打点93)、サル・バンドー(本塁打22本・打点103)、ジョー・ルディ(打率.293・本塁打22本・打点99)、ビリー・ノース(盗塁54)、それにバート・キャンパネリス(打率.290)らがいて攻守が固く、1971年から西地区4連覇であった。リーグチャンピオンシップシリーズは、アスレチックスが断然強く、初戦はオリオールズだったが第2戦からホルツマン、ブルー、ハンターが先発して3連勝して、リーグ3連覇となった。
- 個人タイトルは、ツインズの ロッド・カルー (打率.364)が3年連続4度目の首位打者、ホワイトソックスのディック・アレン (本塁打32本)が2年ぶり2度目の本塁打王、レンジャーズの ジェフ・バロウズ (打点118)が初の打点王、優勝したアスレチックスのビリー・ノース(盗塁54)が初の盗塁王となった。アスレチックスのキャットフィッシュ・ハンター(25勝・防御率2.49)が初の最多勝と最優秀防御率、レンジャーズのファーガソン・ジェンキンス (25勝)が3年ぶり2度目の最多勝、エンゼルスのノーラン・ライアン (22勝・奪三振 367)が3年連続3度目の最多奪三振であった。リーグMVPは打点王を取った ジェフ・バロウズ 、サイ・ヤング賞はアスレチックスのキャットフィッシュ・ハンターでこの年のシーズン終了後アスレチックスと契約事項の一部不履行を訴えて、翌年ヤンキースに移籍した。
ナショナルリーグ
- 東地区は、パイレーツが前年9月に団子状態だった東地区首位に立ったものの直後のメッツ戦で4連敗して結局3位に終わったが、この年も7月まで最下位に低迷していたけれども夏場から急浮上し、残り2試合でカージナルスと同率首位となり、カージナルスがエクスポズ戦でボブ・ギブソンを登板させて逆転負けし86勝で終わると、最終日のカブス戦の9回裏に振り逃げで同点に追いつき、10回裏サンギーエンのサヨナラ打で88勝となり、1970年から4度目の東地区優勝を決めた。西地区は、ドジャースが12年ぶり100勝の大台に乗せて初の西地区優勝となった。スティーブ・ガービー (打率.132・本塁打21本・打点111)、ジム・ウィン(本塁打32本・打点108)、ロープス(盗塁59)、そして投手ではアンディ・メッサースミス (20勝)、ドン・サットン(19勝)、リリーフの マイク・マーシャル (15勝・21セーブ・防御率2.42)らが活躍した。リーグチャンピオンシップシリーズは、ドジャースが第1戦はドン・サットンが完封、第2戦は同点にされた直後の8回に連続安打で快勝、第3戦は落としたが、第4戦でドン・サットンが好投しガービーが本塁打2本・打点4の活躍でドジャースが1966年以来7年ぶりのリーグチャンピオンとなった。
- 個人タイトルは、ブレーブスのラルフ・ガー (打率 .353)が初めての首位打者となり彼にとって唯一のタイトルとなった。フィリーズのマイク・シュミット (本塁打36本)が初の本塁打王で以降1986年まで本塁打王に8度輝きメジャーリーグを代表するホームランバッターとなった。レッズのジョニー・ベンチ (打率.280・本塁打33本・打点129)が3度目の打点王となり、以降タイトルには縁が無くなったが1970年代を代表するメジャーリーガーとして人気が高く、守備も捕手として評価は高い。そしてこの年にカージナルスの ルー・ブロック (盗塁118)が4年連続8度目の盗塁王となった。この118盗塁は1962年のモーリー・ウイルスが記録した104盗塁を超えて、メジャーリーグ新記録となった。投手では フィル・ニークロ(20勝) とアンディ・メッサースミス(20勝) が初の最多勝、ブレーブスのバズ・キャプラ(防御率 2.28)が最優秀防御率、フィリーズのスティーブ・カールトン (奪三振240)が2年ぶり2度目の最多奪三振であった。そしてリーグMVPはドジャースのスティーブ・ガービーが選ばれ、サイ・ヤング賞には同じドジャースの マイク・マーシャル がその成績とともに年間106試合登板したことでリリーフ投手として初めて選ばれた。この投手として年間106試合登板のメジャーリーグ記録は現在も破られていない。
ワールドシリーズ
- 第1戦は、アスレチックスがケン・ホルツマン、ローリー・フィンガース、キャットフィッシュ・ハンターの豪華リレーでレジー・ジャクソンの本塁打もあり3-2でドジャースを下し、第2戦はドジャースがドン・サットン、マイク・マーシャル で3-2でアスレチックスを下し、第3戦はキャットフィッシュ・ハンター、ローリー・フィンガースで3-2でアスレチックスが、第4戦はケン・ホルツマンとアンディ・メッサースミス との投げ合いは6回にメッサースミスが崩れアスレチックスが5-2で連勝し王手をかけた。第6戦はドン・サットンが投げたがアスレチックスに2点先行され6回に追いついたが、リリーフに出たマイク・マーシャル にジョー・ルディが決勝本塁打を打ち3-2でアスレチックスが勝ち、これでワールドシリーズ3連覇となった。5試合のうち4試合が3-2の接戦で、シリーズMVPはローリー・フィンガースが選ばれた。
ハンク・アーロンの715号本塁打
1952年に当時のボストン・ブレーブスと入団契約し、1954年にミルウォーキー・ブレーブスからメジャーデビューしたハンク・アーロンは、ここまで首位打者2回、本塁打王4回、打点王4回を獲得し、1955年以降は確実に毎年20本以上の本塁打を打ち、シーズン50本台に乗ったことは無かったが、最低でも24本、最高で47本打ってきた。前年1973年も40本を打ち、8度目の40本台に乗せて通算本塁打713本となった。1960年代に入った頃にもしベーブ・ルースの714本の本塁打記録を破る者がいたとしたらという予想で名前が挙がったのがミッキー・マントル、エディ・マシューズ、ウィリー・メイズだった。しかし1962年頃からはマントルもマシューズも下降線を辿り通算500本台に乗せるのがやっとであった。そしてメイズも60年代後半に入ると衰え始めて前年に通算660本で引退した。この時点でハンク・アーロンは714本に一番近い打者となった。堅実で派手さの無いプレースタイル、物静かな男であるが、アーロンの一番の武器はケガをしない丈夫な身体であった。打撃のみならず守備や走塁でも高いレベルにあったが、ウィリー・メイズほどの強いインパクトのある選手ではなく概して地味な選手であった。しかしマントルは後に自分たちの世代の中ではアーロンが最高の選手だったと述べている。前年秋からルースの記録を破る男として注目され、メディアの報道も過熱するとともに彼への嫌がらせや脅迫が多くなった。しかし彼は挫けなかった。この年のシンシナチでの開幕試合でついに714号を打つと、地元アトランタでの試合がある日に合わせるため監督は、アーロンを2戦目と3戦目を休ませる措置を取るとコミッショナーから出場命令が出て、3戦目は出場して本塁打は打たず?、迎えた4月8日のアトランタでの開幕戦の第2打席でドジャースのアル・ダウニング投手からレフトスタンドへ715号の本塁打を打った。テレビ実況したビン・スカリーは「何という素晴らしい瞬間でしょう」と述べた。ルースの不滅の記録を破ったことでハンク・アーロンは人種間の壁を超えた存在になった。
トミー・ジョンの手術
ドジャースの主戦投手トミー・ジョンは前年は16勝、この年も7月までにリーグ最多の13勝・防御率2.59と絶好調だった。しかし7月17日の対エクスポズ戦でシンカーを投げた際にヒジから何かが弾けるような音がした。「変な感覚だった」が痛みは無いのだが球はもう捕手まで届かなくなっていた。急ぎチームの医療スタッフだったフランク・ジョーブ博士の診察をしてX線検査も行い、ヒジの紐帯が断裂している可能性があると診断した。それは1974年当時では投手生命を絶たれたことを意味していた。そしてジョーブ博士はトミー・ジョンにある手術を提案した。損傷した左ヒジの腱の代わりに他の箇所(右手首)の腱を移植するものであった。ジョンは手術をする決意を固め、9月25日に手術が行われた。その後はリハビリに取り組んだ。このリハビリ期間は長く続いた。復活できる可能性は1%と言われ、移植した腱が動き紐帯として十分に機能するかどうかさえ分からない手探りの日々が続いた。
記録
最終成績
レギュラーシーズン
アメリカンリーグ
|
ナショナルリーグ
|
オールスターゲーム
- アメリカンリーグ 2 - 7 ナショナルリーグ
- MVP:スティーブ・ガービー (LAD)
ポストシーズン
リーグチャンピオンシップシリーズ | ワールドシリーズ | |||||
アメリカンリーグ | ||||||
ボルチモア・オリオールズ | 1 | |||||
オークランド・アスレチックス | 3 | |||||
オークランド・アスレチックス | 4 | |||||
ロサンゼルス・ドジャース | 1 | |||||
ナショナルリーグ | ||||||
ピッツバーグ・パイレーツ | 1 | |||||
ロサンゼルス・ドジャース | 3 |
リーグチャンピオンシップシリーズ
アメリカンリーグ
|
ナショナルリーグ
|
ワールドシリーズ
- ドジャース 1 - 4 アスレチックス
10/13 – | アスレチックス | 3 | - | 2 | ドジャース | |
10/15 – | アスレチックス | 2 | - | 3 | ドジャース | |
10/15 – | ドジャース | 2 | - | 3 | アスレチックス | |
10/16 – | ドジャース | 2 | - | 5 | アスレチックス | |
10/17 – | ドジャース | 2 | - | 3 | アスレチックス |
- MVP:ローリー・フィンガーズ (OAK)
個人タイトル
アメリカンリーグ
打者成績
|
投手成績
|
ナショナルリーグ
打者成績
|
投手成績
|
表彰
全米野球記者協会(BBWAA)表彰
表彰 | アメリカンリーグ | ナショナルリーグ |
---|---|---|
MVP | ジェフ・バロウズ (TEX) | スティーブ・ガービー (LAD) |
サイヤング賞 | キャットフィッシュ・ハンター (OAK) | マイク・マーシャル (LAD) |
最優秀新人賞 | マイク・ハーグローヴ (TEX) | ベイク・マクブライド (STL) |
守備位置 | アメリカンリーグ | ナショナルリーグ |
---|---|---|
投手 | ジム・カート (CWS) | アンディ・メッサースミス (LAD) |
捕手 | サーマン・マンソン (NYY) | ジョニー・ベンチ (CIN) |
一塁手 | ジョージ・スコット (MIL) | スティーブ・ガービー (LAD) |
二塁手 | ボビー・グリッチ (BAL) | ジョー・モーガン (CIN) |
三塁手 | ブルックス・ロビンソン (BAL) | ダグ・レイダー (HOU) |
遊撃手 | マーク・ベランジャー (BAL) | デーブ・コンセプシオン (CIN) |
外野手 | ジョー・ルディ (OAK) | シーザー・セデーニョ (HOU) |
ポール・ブレアー (BAL) | ボビー・ボンズ (SF) | |
エイモス・オーティス (KC) | シーザー・ジェロニモ (CIN) |
その他表彰
表彰 | アメリカンリーグ | ナショナルリーグ |
---|---|---|
カムバック賞 | ファーガソン・ジェンキンス (TEX) | ジミー・ウィン (LAD) |
最優秀救援投手賞 | テリー・フォースター (CWS) | マイク・マーシャル (LAD) |
最優秀指名打者賞 | トミー・デービス (BAL) | - |
ロベルト・クレメンテ賞 | - | ウィリー・スタージェル (PIT) |
ハッチ賞 | ダニー・トンプソン (MIN) | - |
ルー・ゲーリッグ賞 | - | ウィリー・スタージェル (PIT) |
ベーブ・ルース賞 | ディック・グリーン (OAK) | - |
アメリカ野球殿堂入り表彰者
BBWAA投票
- ホワイティ・フォード
- ミッキー・マントル (有資格初年度)
ベテランズ委員会選出
ニグロリーグ委員会選出
出典
- 『米大リーグ 輝ける1世紀~その歴史とスター選手~』≪1974年≫ 129P参照 週刊ベースボール 1978年6月25日増刊号 ベースボールマガジン社
- 『メジャーリーグ ワールドシリーズ伝説』 1905-2000(1974年) 113P参照 上田龍 著 2001年10月発行 ベースボールマガジン社
- 『メジャー・リーグ球団史』≪ボルチモア・オリオールズ≫ 60P参照 出野哲也 著 2018年5月30日発行 言視社
- 『メジャー・リーグ球団史』≪シンシナティ・レッズ≫ 160P参照
- 『メジャー・リーグ球団史』≪ロサンゼルス・ドジャース≫ 297P参照
- 『メジャー・リーグ球団史』≪オークランド・アスレチックス≫ 430P参照
- 『メジャー・リーグ球団史』≪ピッツバーグ・パイレーツ≫ 481-482P参照
- 『スラッガー 8月号増刊 MLB歴史を変えた100人」≪ハンク・アーロン≫ 12-13P参照 2017年8月発行 日本スポーツ企画出版社
- 『スラッガー 8月号増刊 MLB歴史を変えた100人」≪トミー・ジョン≫ 24-25P参照