二里頭文化
二里頭文化(にりとうぶんか、二里头文化、拼音: , Erlitou culture, 紀元前2100年頃-紀元前1800年頃または紀元前1500年頃)は、中国の黄河中流から下流を中心に栄えた新石器時代から青銅器時代初期にかけての文化であり、都市や宮殿を築いた。殷初期と考えられる二里岡文化に先行する。
概要
[編集]ほかに現在のところ100近くの二里頭文化の遺跡が発見されている。代表的なものには洛陽市の東乾溝遺跡、矬李遺跡、東馬溝遺跡、陝県(現在の陝州区)の七里鋪遺跡、臨汝県(現在の汝州市)の煤山遺跡、鄭州市の洛達廟遺跡、河南省新密市の新砦遺跡[1]などがある。
おおよその地理的範囲は、河南省中部・西部の鄭州市付近の伊河・洛河・潁河・汝河などの流域から、山西省南部の汾河下流一帯にかけてであるが、その影響は上流の陝西省南部や、南の長江中流域にも及んだと見られる。
二里頭遺跡
[編集]時期区分
[編集]中国では、紀元前6000年ころから新石器文化が出現し、農耕・牧畜のほか、土器・竪穴建物の技術などが普及した[2]。その後、紀元前3000年紀になると、集落の中で強い権力を持ったリーダーが出現し、貧富の差が拡大した[2]。この時代の新石器文化としては、黄河中流域の中原龍山文化、黄河下流域の山東龍山文化、長江下流域の良渚文化などが挙げられる[2]。
これらの地域のうち、最初に王朝が出現したのが黄河中流域の二里頭文化である[2]。二里頭文化は、農耕・牧畜などの生産形態については新石器文化と大きな違いはないが、青銅器と王都が出現したことが特徴であるとされる[2]。
二里頭遺跡は今から3800年から3500年前のもので、遺跡の時期は4期に分かれている。一、二期は新石器時代で、陶器を製造する農耕文明であった。3期・4期は青銅器の本格的使用また都市国家が形成していた。
- 一期:三門峡、関中平原東部、河南省南部に拡大。
- 二期:汾水流域に拡大し、その地域に二里頭文化東下馮類型を形成。
- 三期には沁水以西地区、河南省東・東南部に拡大。
- 四期
出土資料
[編集]- 宮殿跡
- 墓
- 宮殿の北に大墓があり、宮殿で祭祀業務を行ったとみられる。
- 青銅器などの工房跡
- 骨器製作址
- 青銅器
- 青銅器の本格的使用が認められる。
- 軟玉製品
- 斧
- 鑿
- 刃
- 鏃
- 釣針
- 戈
- 酒宴に使う容器類
- 卜骨
- 24種の刻画符号が確認され、その形状は甲骨文字に類似[4]。
- 尊
- 刻画符号が晩期大口尊の口沿内側に刻される[5]。
夏・殷朝との関連
[編集]その後の研究で、豫北(河南省北部)地方が漳河型先商文化と二里頭文化の隣接地帯であることが示され、二里頭文化期には、漳河型先商文化・岳石文化・二里頭文化の三つの勢力が黄河中下流域で鼎立していたとみられる。また二里岡下層期には漳河型先商文化が南下し、西の二里頭文化に取って代わり、二里岡上層期には東の岳石文化に取って代わった。
この推移状況は、史書での夏と殷に関する記述との対応が考えられる[6]。北京大学の劉緒と徐天進は、二里岡文化が早商文化であり、二里頭文化が夏文化であると推定した[7]。
また中国考古学会は一期から三期までは拡大期で四期は衰退期とし、一期から二期までが夏王朝、三期以降は殷に入るとしている[8]。
2019年には、二里頭遺跡のそばに公営の博物館「二里頭夏都遺跡博物館」(zh:二里头夏都遗址博物馆)が設立された[9]。その名の通り、「夏の都」という名目で出土品や模型を展示している。
なお、二里頭文化の王朝と文献資料の夏王朝とは、想定される時代が近いものの、内容に食い違いが大きいことが指摘されている[10]。例えば、文献資料では、夏王朝の支配範囲が「九州」であったとされており、沿海地域の兗州・青州・徐州や、長江流域の揚州・荊州・梁州などが含まれており、黄河中流域のみを支配した二里頭文化の王朝の実態とは異なっているとされる[10]。また、夏王朝の最後の王である桀が暴君であったとする伝説は、殷の紂王の「酒池肉林」伝説と酷似しており、それを模倣して作られたものにすぎないとされる[10]。このことから、「夏王朝」は、後代に作られた神話であり、二里頭文化に実在した王朝とは直接の関係がないとされている[10]。なお、二里頭文化に実在した王朝については名前が伝わっていないが、そもそも、二里頭文化に続く「殷王朝」もまた殷を滅ぼした周王朝による命名であり、王朝の名前を付けるということ自体が周代に始まった文化であるとされている[11]。
発掘研究史
[編集]- 1952年に河南省登封市の玉村遺跡が発見された。現在ではこれが最初に見つかった二里頭文化の遺跡と見られる。
- 1956年には鄭州市で洛達廟遺跡が発見され、この遺跡の発掘物の類型は「洛達廟類型」と名づけられていた。
- 1959年に考古学者の徐旭生[12]が河南省偃師県で二里頭遺跡を発見し、さらにはっきりとした典型例が見つかったことにより、この種の類型は「二里頭文化」と呼ばれるようになった。二里頭文化は、先行する龍山文化から発展したとみられる。
- 1981年から北京大学が豫北の新郷と安陽地方を調査し、修武李固・温県北平皋・淇県宋窯遺址を発掘した。
- 1984年から北京大学が魯西南菏沢地方・豫東商丘地方を調査し、菏沢安邱堌堆・夏邑清涼山遺址を発掘した。
- 2019年、「二里頭夏都遺跡博物館」設立[9]。
ギャラリー
[編集]-
七孔玉刀
-
青銅管流爵
-
紅陶の鬹
-
人身御供で使用された可能性のある人骨
脚注
[編集]- ^ 新砦遺跡では、都城・城壁の跡が発見され、二里頭遺跡の宮殿に先行する時期であることも確認されている。
- ^ a b c d e 落合 2015, p. 16.
- ^ [1]
- ^ 李学勤『中国古代漢字学の第一歩』凱風社
- ^ 中国社会科学院考古研究所洛陽発掘隊「河南偃師二里頭遺址発掘簡報」『考古』1965-5
- ^ ただし、文献に残された夏王朝や商王朝の王名などを示す文字資料がまだ発掘されていないため、どの王朝の遺跡であったかはまだ定まってはいない。
- ^ 北京大学副教授 劉緒・徐天進「三代文明の探索」『中国の考古学展』平凡社 1995
- ^ 河南省文物考古研編集『華夏考古』1991-2。なお1987年の時点では三期までを夏としていた。『華夏考古』1987-2号。
- ^ a b “二里頭夏都遺跡博物館が開館 「最古の王朝」の神秘の姿が明らかに”. www.afpbb.com. 2020年7月9日閲覧。
- ^ a b c d 落合 2015, p. 18.
- ^ 落合 2015, p. 19.
- ^ 徐旭生『中国古代史の伝説時代』
関連項目
[編集]参考文献
[編集]- Fairbank, John King and Merle Goldman (1992). China: A New History; Second Enlarged Edition (2006). Cambridge: MA; London: The Belknap Press of Harvard University Press. ISBN 0-674-01828-1
- Li, Jinhui (November 10, 2003). “Stunning Capital of Xia Dynasty Unearthed”. China Through a Lens. 2009年9月17日閲覧。
- Liu, Li. The Chinese Neolithic: Trajectories to Early States, ISBN 0-521-81184-8
- http://www.nga.gov/exhibitions/chbro_bron.shtm The Golden Age of Chinese Archaeology
- Allan, Sarah, Erlitou and the Formation of Chinese Civilization: Toward a New Paradigm, The Journal of Asian Studies, 66:461-496 Cambridge University Press, 2007
- Liu, L. & Xiu, H., Rethinking Erlitou: legend, history and Chinese archaeology, Antiquity, Volume: 81 Number: 314 Page: 886–901, 2007
- 江村治樹、河南竜山・二里頭・殷周都市の特質: 2011 年、中国古代都市遺跡調査報告、名古屋大学文学部研究論集(史学), p.17-47、2012
- 落合淳思『殷――中国史最古の王朝』中央公論新社〈中公新書〉、2015年。ISBN 978-4-12-102303-2。