米倉昌尹
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時代 | 江戸時代前期 |
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生誕 | 寛永14年(1637年) |
死没 | 元禄12年7月12日(1699年8月7日) |
改名 | 牛助(幼名)、昌尹 |
別名 | 市左衛門(通称)、昌安 |
戒名 | 蔵林寺殿徳石道明大居士 |
墓所 | 神奈川県秦野市堀山下の蔵林寺 |
官位 | 従五位下丹後守 |
幕府 | 江戸幕府 |
主君 | 徳川家光、家綱、綱吉 |
藩 | 武蔵金沢藩主、下野皆川藩主 |
氏族 | 米倉氏 |
父母 | 米倉昌純、簗田直次娘 |
妻 |
金森重義娘 渡辺守娘 |
子 | 昌明、昌仲、女子 |
米倉 昌尹(よねくら まさただ)は、江戸時代前期の旗本・大名。若年寄。武蔵国金沢藩主、下野国皆川藩初代藩主。官位は従五位下・丹後守。
生涯
[編集]寛永14年(1637年)、400石の米倉昌純(初名、政継)の長男として誕生。正室は金森重義娘、継室は渡辺守娘。
正保2年(1645年)6月9日、3代将軍・徳川家光に拝謁し、承応3年(1654年)2月23日に御小姓となる。貞享元年(1684年)7月19日に600石に登った米倉家の家督を継ぐ。
貞享2年(1685年)8月12日、御徒士頭となり、貞享3年(1686年)9月18日に目付となる。貞享4年(1687年)2月26日に番頭となり、元禄3年(1690年)3月27日に武蔵国内で500石を加増され、同年12月18日に叙任する。元禄5年(1692年)1月11日、上野国内で1000石を加増され、元禄7年(1694年)1月7日に武蔵国内で1000石を加増される。同年12月15日にも武蔵国内で1000石加増される。元禄9年(1696年)3月28日に若年寄に任じられ、それにより1万石を与えられたことで大名として諸侯に列し、武蔵金沢藩主となる。
元禄12年(1699年)1月にも5000石を加増され、下野皆川に移封されて1万5000石となるが、同年7月12日死去。
跡を長男・昌明が継いだ。
系譜
[編集]父母
正室、継室
子女