第31話 鰹出汁のかめびし醤油つけ麺

 泉くんは出入り口のガラス扉の前で立ち止まってこっちを向いたかと思うと、ニッと笑って軽く手を振り店を出て行ってしまった。

 今の、私に、だよね? 何だったんだ、アレは? まるで小さな子供の相手をするような顔で。私はどう反応すればいい? 本当にやめてほしい、私をかき乱すのは。

 平常心……平常心……平常心……私はつけ麺を食べに来たんだ。

「それで大将聞いてくれる? この間食べたメニューが……」

「うはは、それは知らんわ!」

 ……何!? 今、おばけ会長と大将の会話で、何かが脳裏を掠めたような気が……どこかで聞いた、気が?……デジャヴ?

 それが何なのかがわからないままポカンとしていると、大将との軽い雑談を終えた会長さんがサブさんと一緒にお店を出て行く。

 会長さんは私に会釈して、サブさんは投げキッスをして。相変わらず気持ち悪い。サブさんらしいのだけれども。

 前の人に続いて私も店員の男の子に案内される。さっきまで会長さんが座っていた席だ。

 コロナ禍の名残で未だアクリル板で仕切られた席に、水が入った白い陶器製のコップと銀色の筒に立てられた箸とレンゲ、その筒と並んで市販の一味とホワイトペッパー缶も置かれている。

 先に食べていたミカン姐さんがロンリーさんを従えて「お先に失礼します」と軽く会釈してお店を出て行く。すぐに神無月兄弟さんも有名テーマパークのキャラクターのように手を振りながらあとに続く。

 みんなとあまりゆっくりお話できなかった。でも、まだ今日が初対面だ。ピオッターでいつもやり取りしているおかげでそんな気はしなかったけれども。

 私にピオッターを勧めてくれた佐伯さんに本当に感謝してもしきれない。

 そんな佐伯さんもてんやわん屋の朝ラーに誘ったけれども、「朝からラーメンは流石に……」と言われてしまった。

 そうなのか、一般的にはそういう感覚なのか。ラーメン沼に落ちて僅か一ヶ月弱で、私の感覚はかなりみんなからズレてしまったと気づいた瞬間だった。

 朝からラーメンを食べられるなんて最高じゃない! なんて思ってしまった私には。

「前から失礼します。鰹出汁のかめびし醤油つけ麺です。つけ汁の器、熱くなっていますのでお気をつけください」

 カウンター越しに置かれた魚介と醤油の香りが強いつけ汁と、真っ白な麺にバラ海苔と味玉だけがトッピングされたどんぶり。味玉はプラス百五十円の追加トッピングだ。

 食べる前に、ささっと撮影。のんきにスマホを構えていると美味しい瞬間を逃してしまうからそれは鉄則だと、ピオッターで教わった通りにする。

 フォロワーさんたちも、泉くんも、手際よくスマホにつけ麺を納めて食べ始めていた。私もそれに習う。慣れていないせいで上手く撮影できなくて大分もたついたけれども。

 さあ食べよう!

 レンゲでつけ汁を掬うと、中に焼豚とネギがゴロゴロ入っている。そのつけ汁だけを試しに少しだけ口に含むと、見た目の濃い色とは真逆でとても優しい味。鰹の出汁感がとっても強い。

 もっと塩っぱいと思っていたけれども、意外とこのままでも飲めてしまいそうなつけ汁だ。

 ツヤツヤに光る平打ち麺を半分ほどつけ汁に漬して一気に啜ると、これまで以上に風味が口から鼻に抜ける。

「美味しいっ!」

 お世辞なんて抜きに、本当に自然と声が出ていた。恥ずかしい。

 大将が私の言葉に気づいて、こっちを向いて満足そうに笑い小さく頭をさげる。

 そんな、私の方こそ感謝をしたい。初めてなのに、こんなにも美味しいつけ麺を食べさせてくれて。私は今まで完全につけ麺をナメてかかっていた。ごめんなさい。

 バラ海苔を麺に絡めたままつけ汁につけると磯の風味もプラスされて最高。

 トッピングした味玉をレンゲにのせて箸で真っぷたつに割るとトロリとした黄身が流れ出る。それを零れないように半分だけほおばると、味玉全部に濃い味が染みていて至福。

 つけ汁の中の焼豚はほのかな炭火の香ばしさを漂わせて美味。お祭りラーメンにものっていた吊し焼豚と同じだ。

 あまりの美味しさに、夢中になって麺を啜っていた。気づいた時にはどんぶりに山になっていた麺があっという間になくなっていた。

 つけ汁に入っていた焼豚やネギも食べ尽くした。

 もう――なくなっちゃったの? もっと……もっと啜っていたかった。食べたかった。それが正直な感想だった。

 生まれて初めての朝ラーは、生まれて初めてのつけ麺は、時間にするとものの十分足らずで終わってしまった。私の中に深い衝撃を残して。

 お店に到着してからつけ麺が出てくるまで一時間以上かかったのに。

 美味しかった。最高だった。満足した。そのどの言葉も、たとえばどんな表現を持ってきたとしても、私の気持ちを表しきれない。

 てんやわん屋の麺は美味しい。ピオッターでみんなが言っていた事実を実感した。

 こんなに美味しいものが毎週食べられる――しかも毎回違うメニューで。

 ラーメンを食べ始めて僅か一ヶ月だけれども、もっと早く知りたかった。

 ピオッターのフォロワーのみんなも、泉くんも、ずっと前からこんなに美味しいものを食べてきたんだ。そう思うと、本気で悔しかった。

 本日のつけ麺――

 鰹出汁のかめびし醤油つけ麺……九百五十円。味玉トッピング……百五十円。

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