第33話 あの日、あのとき、あの場所で……
腕を組んで嬉しそうに頷く大将を、マジマジと見る。顔色を伺う。
いい顔でラーメンを食べられるようになったということは、いい顔でラーメンを食べられていない私を知っているから言える台詞だ。
私がラーメン嫌いだったことを知っている人は限られている。
佐伯さんを含む会社の同僚数人と、泉くん。それだけ。数えるほどもいない。
ピオッターで知り合ったフォロワーさん達は、私が過去にラーメンが大嫌いだった事実を知らない。別に隠さなきゃいけないってことでもないのだけれども、ラーメンが大好きな人達にわざわざ言う必要もない。
たとえばあのときの元彼の行為がピオッターで噂になっていたとしても、その当事者に私がいたことは誰も知りようがない。
それなのに大将の今の口ぶりは、知っている、の? 私がラーメン嫌いだったことを。
私の知らない所で、私の許可なく、私の過去を人に話すなんて、それはとんでもない裏切り行為だ。たとえ隠すことでもない過去だとしても、失礼極まりない。
それをてんやわん屋の大将に話せる人は、そうひとりしかいない。
「泉くん、なんですね?」
「うん?」
「泉くんから――彼から、私が最近までずっとラーメン嫌いだったことを聞いたんですね?」
声を荒らげたりはしなかった。そんな燃え盛るような気持ちはなかった。ただ重く静かに響いた自分の声に、驚くほど冷たい感情が籠もっていた。
それは怒り、なんかじゃない。どちらかと言えば、失望。
美味しいラーメンを食べて上がっていた気分が一気に足元を突き抜け地の底まで落ちる。
私をラーメン嫌いの呪縛から解放してくれたり、元彼から助けてくれたり。
ラーメンの話をするときは楽しそうに笑って、ぶっきらぼうで素っ気ないけれども、そんなに悪い子じゃないって思ったのに。
「……君は、ラーメン嫌いだったのか? そうか……ああ、そうか……」
「えっ? あれ?」
私がラーメン嫌いだったことを泉くんに聞いてのあの言葉だった、わけじゃなくて? え、じゃあ、なに? なんで大将はあんなことを?
「流石に覚えてないか。あれは何年前だ? わかばの並びで君の連れが泉くんの肩を押して転ばせただろ?」
らぁ麺わかば……私がラーメン嫌いになった原因のお店であり、私がラーメン好きになった切っ掛けのお店でもある。
そして五年前、高校生だった泉くんと初めて出会ったお店。
「え、あ、はい、でも何でそのこと……を?」
思い出せ、思い出せ思い出せ思い出せ……あの時親子に暴言を吐いた元彼を止めようとして泉くんが転ばされて……周りにいた人達が……人達?
「あーっ! えっ、大将ってもしかしてあの時の!?」
静かな店内に流れるジャズをかき消すくらいの自分の大声に、慌てて両手で口を押さえる。
首を動かさずに目だけでキョロリと店内を見回しても他のお客さんを見る視野は確保できていない。でも、絶対に私を見ている。視線の矢がチクチクと体に刺さる。
「あの日は久しぶりに弟子――わかばの店主が作るラーメンが食べたくなってね、そんな時にあの騒動だ」
「ご、ごめんなさい」
「いやいや、君は泉くんに手を貸してあげたじゃないか」
あのとき、元彼の傍若無人な態度を止めようとした初老の男性が大将だったんだ。
わかばの大将は独立する前からの知り合いだとうそぶいた元彼に、「知らんわ!」と言い放った大将。
おばけ会長と大将が話していたときに一瞬何か思い出したのはこれだったのか。
今初めて知ったけれども、わかばの大将が独立する前に修行していた先がてんやわん屋だったなんて。その大将に向かって暴言を吐いた元彼は、あのときすでに大将にも泉くんにも嘘がバレバレだったのか。
どこまでも薄っぺらい人だったんだな、と今さらわかった。
どうしてあんなのが元彼なのか。自分の男の人を見る目のなさにうんざりする。
「あの後、真っ青な顔で背中を丸めラーメンを食べていた君の姿が忘れられなくてね。泉くんも言ってたんだよ。折角のラーメンを美味しく食べられないなんてかわいそうにって」
高校生だった泉くんにそんな風に思われていたなんて。元彼よりも私よりも、泉くんの方がよっぽど大人だ。
「でもまさか泉くんが入った会社に君がいたなんてね。見つけましたって嬉しそうに言うから何のことかと思ったよ」
私が同じ会社にいて? 嬉しそうに? 泉くんが? ラーメンを食べている時以外で?
嘘だよ、そんなの。イメージじゃない。それは私のことじゃないんだよ、きっと。
「私も長い間店をやってるけど、あんな顔をしてラーメンを食べていたのは君が初めてだったからね。覚えていたんだ」
五年前の、そんな些細なことまで覚えられていたなんて。忘れたい黒歴史なのに。
「祭りの日に並んでいたのを見かけてすぐにわかったよ。泉くんには今度ウチのラーメンを食べに連れておいでって言ったんだけど……」
……言われていない。そんなこと、彼の口から一言も聞いていない。
ラーメン嫌いだった私にラーメンが美味しいものだと気づかせてくれたのは泉くんだ。彼がいなかったらラーメンを食べ歩くようにならなかったし、てんやわん屋のラーメンにも出会えなかった。もっと言えば、今大将とこうやってあの頃の話をすることもなかった。
私をラーメン沼に引きずり込んだのは泉くんだ。それなのに、私は一度も泉くんに誘われていない。
「どうしたんだい、またそんな顔をして」
大将が怪訝そうな顔で私を見る。
そんな顔って? 私はどんな顔をしているの?
「大将、泉くんって……」
「おや、いらっしゃい」
ふっと振り返りかけて慌てて前を向き直す。
お店に入ってきたのは泉くんと……
あの日の朝、彼と一緒にいた可愛い感じの女の子だった。
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