第42話 鶏清湯
鶏肉を知り尽くした焼き鳥屋の大将が作るラーメンか……楽しみでしかない。
焼き鳥の美味しそうなにおいでいっぱいのお店の中でラーメンを待つなんて、素晴らしき贅沢。
みんな、みんなみんな、ここにいるみんな聞いて!
これから私はメニューにないラーメンを食べちゃうんだぞ!
だから焼き鳥はもういいや。でも、お酒はもうちょっと……んー、幸せっ!
「小麦さんってお酒強いんですか?」
「そうでもないよ。普段は飲まないし。でも楽しいから」
今日はいっぱい飲んでしまった。前半はフツフツと湧き上がってくる怒りを抑えるに必死で、後半はとっても楽しくて。楽しいお酒って、いいよね!
泉くんの隣が空いたのを見計らって、佐伯さんは彼の隣に移動してしまった。私を間に挟むと泉くんと話しづらいからって。別にふたりっきりで話すわけじゃないからいいのに。私の抱き枕が……
佐伯さんが泉くんの向こう側で小さく首を傾けたのか、お店の明かりで金糸のような髪が私からふわりと揺れて見える。
「ねえ、泉くん? 鶏清湯ってどんなラーメンなの? あまり聞いたことないんだけど」
「あ、それは……」
「白湯ラーメンは佐伯さんだって聞いたことがあるでしょ? 鶏ガラとか豚骨とかを高温でグツグツ長時間煮込んで……」
「なんで打木ちゃんが答えるのよ。私は泉くんに聞いたんだけど……」
「別にいいじゃない」
わざわざ泉くんに聞かなくったって。私だって知ってるんだから。ね、泉くん?
泉くんは私の顔色を伺うように見ると、どうぞと手の先を佐伯さんへ向けた。
「じゃあお言葉に甘えまして説明させていただきましょう! まず鶏白湯ですが……」
「えー、泉くんがいい!」
「ちょっ、こらっ! 何くっついてるのよ、そんなに酔ってないでしょ!」
しな垂れかかる佐伯さんから泉くんを引き離す。
まったく油断も隙もあったもんじゃない。佐伯さんにかかったらどんな男だってイチコロなんだからしっかり泉くんをガードしておかないと……しておかないと?
うん? 何で私が泉くんをガードしなきゃいけないのよ。
「小麦さん、そんなに強く引っ張らなくても……」
うつむいた泉くんがプルプルと震えている。顔は見えないけれども、耳の裏も首まで真っ赤になっている。私は……泉くんの腕を両手でギュッと抱き締めて……
「わっ、ご、ごめんなさい」
慌てて泉くんの腕を放すと、彼は恥ずかしそうな顔で一度だけチラリと私の顔を見て反対側の手で右腕をゆっくりとさすった。
そのチラリと見えた顔に差した赤みと潤んだ瞳と小さく震えた唇が……妙にエロい。って、何を考えているんだ私は。泉くんを見ていたらついふらふらっと吸い寄せられてしまうところだった。やっぱり飲み過ぎかも。
ふっと、泉くんの向こうから佐伯さんが顔をのぞかせる。カウンターに頬杖をついて目を細めジトッと私を見てくる。
「イチャイチャしてないで鶏清湯を教えてくれるんじゃなかったの?」
「イチャイチャなんてしてないっ!」
していない。ただちょっとお酒と場の雰囲気に酔っただけで。
佐伯さんがいてくれてよかった。ような、よくなかったような。だから、そんなニヤニヤしながらこっちを見るのをヤメて。
「教えるから大人しく聞いてて!」
佐伯さんは可愛い顔を歪めてへの字口になると細い首をすぼめる。
「鶏白湯はもういいや。鶏清湯はね、沸騰しない温度で鶏ガラをじっくり煮出したスープで、白湯スープみたいに濁っていない澄んだ透明なスープなんだよ」
「あ、小麦さん。鶏清湯の説明は間違ってませんけど、ここの鶏清湯は残念ながら違います」
「え? 何が違うの?」
「お待たせいたしました、鶏清湯です」
絶妙なタイミングでカウンター越しに出てきた木製のお盆にのったラーメン。
私と泉くんの前には白文字でなな屋とプリントされた大きなどんぶりが、佐伯さんの前にはちょっと深めの丸っこい可愛らしいどんぶりが置かれた。
黒文字でなな屋とプリントされた白い帽子をかぶった大将に向かって、泉くんは椅子に座ったまま頭をさげる。
「取りあえず、冷めないうちに食べましょう」
泉くんがレンゲと箸を取る。私も……
パッと見はオーソドックスなラーメンだけれども、要所要所にとっても丁寧な仕事が見て取れた。
花のように広がった黒いどんぶりから立ち上る湯気にのって、とても優しいいい香りが私の顔をふわりと撫でる。
うす黄金色のスープは白醤油に鶏出汁といったところだろうか。この距離でもわかるくらいの香りの強さから
漂う中太麺全部が見えるくらいの透明度で、店内の照明がキラキラと輝いている。
波のように綺麗に折りたたまれた麺の上には、二枚の大きめなロールチャーシューが並び、その脇にほうれん草、メンマ、ナルト、板海苔が飾られていた。どんぶりの中三カ所に彩りを添えるネギは切り方も、多分種類も全部違うと思う。
ラーメン専門店に引けを取らない、どころの話しではない。
綺麗……見惚れちゃう。
店内のライティングを気にしつつ手短にラーメン全体像を撮影したあと、左手にスマホを持ち替え箸で持ち上げた麺の画像も記録する。
中太麺に絡んだスープと油が暖色の照明で金粉のように煌めいた。
ゴクリと鳴った喉に我に返り、目だけで泉くんを確認する。
恥ずかしい。こんなに賑やかなんだから聞こえたりしていないよね?
そんな心配は無用だった。泉くんはレンゲにスープを掬い、その動画を撮影していた。
「えー、何これ、凄く美味しいっ!」
最初に歓喜の声を上げたのは佐伯さんだった。出遅れた。私も早く食べなきゃ。
まずはレンゲで掬ったスープをひとくち。
口いっぱいに広がるまろやかな旨味と、ほのかな甘味。これは鶏ガラの出汁?
それにしてはあまりにもスッキリしすぎている気がする。雑味が極限まで少なく、スープに清涼感すら感じる。
「これはヤバい……」
強いのにどこまでもやさしい出汁が体中に染み渡っていく感じ。こんなスープは初めてだ。
そこからは無我夢中だった。
持ち上げた麺を思いっきり啜り、顔に跳ねたスープを拭きもせず今度はレンゲでスープを掬う。
スープに影響がないていどに炙られた鶏モモのロールチャーシューはホロッホロで、箸で挟むだけで切れてしまうやわらかさ。口の中に入れた途端旨味だけを残して溶けるように崩れ落ちた。
三種類のネギの食感と繊維を感じないメンマがいいアクセントになり、ラーメン一杯の中で物語を紡ぎ上げている。
本来は添え物程度のほうれん草やメンマですら美味しくさせるスープはまるで魔法がかかっているかのようだった。
気づいた時にはもう、スープの一滴も残っていなかった。
お腹がいっぱいだ。もう焼き鳥の一本も食べられない。
「至福……」
私のその言葉が聞こえたのか、泉くんが笑った。
ハッとして、慌てて新しい使い捨ておしぼりを開け、顔に飛んだスープと口の周りを軽くぬぐう。
気にしてなかったけど服には飛んでないかな? そんなに高い服じゃないから別にいいんだけれども、泉くんの前ではちょっと恥ずかしい。
「どうでした、なな屋の鶏清湯は?」
泉くんが満足そうに笑っている。私の答えなんてもうわかってるくせに。
「うん、とってもお……」
「美味しかったー! 私も一杯頼めばよかったー!」
佐伯さんが私の言葉にかぶせてくる。意地悪だ! 絶対にわざとだ。
ちょっと口を尖らせる。そんな私を見て、それでも泉くんは私の言葉を待っていた。それなら私も思いつく限りの感想を……
「麺やチャーシューもだけど、スープがとにかく美味しくってビックリした。なんであんなに雑味がないの? こんな清湯スープ、飲んだことがない。鶏の旨味ってこんなに強いの? そりゃあ、他の出汁とか色々な醤油とのバランスで美味しいラーメン屋はいっぱいあるけれども……あ、すいませーんウーロンハイくださいーい。でも、そうじゃなくてなな屋独特の……」
ラーメンを語らう夜はまだ始まったばかりだ。
本日のラーメン――
鶏清湯……九百五十円。
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