誰にも知られぬ教室で

 迎え入れられたのは薄暗い教室だった。 

 カーテンは締め切られており、廊下は通行が極端に少ないことを考えると、この教室で何が起ころうとも認知する人間はいないだろう。

 そこの主のように椅子に座る谷川詩は、手下にタバコの火をつけさせて大きく吸い込んだ。



「……よく来たな」

「私たちはお前にお呼ばれされたんだよ。来たくて来たわけじゃねェ」



 俺からしてみれば彼女はゴミ捨て場に落ちていた存在なので、あまりに堂々と煙をふかすのはやめてほしい。失笑してしまいそうだ。

 懸命に噴き出すのを我慢していたのが功を奏したか、日向たちはこちらの様子に気づくことなく話を進める。



「で? 用事もなく呼びつけたんじゃねェだろ?」

「当たり前だ。お前には一つ提案があってな」

「提案だァ?」

「あぁ……高岩日向、私の仲間になれ」



 谷川さんは静かに呟いた。

 対する日向は訝しそうに眉を跳ね上げ、



「それは私がお前と対立する派閥に所属することを知っての誘いか?」

「もちろん。〝妙義派〟だろう。柴方高校シバコーでその名前を知らないやつはいねェよ」

「じゃあ答えもはっきりしてるだろ。お断りだ」

「ずいぶん迷いなく答えるんだな。お前はもう少し躊躇するかと思ったぞ」

「ハァ? なんで?」



 体重をかけていた足を入れ替え、日向は乱雑に髪を払った。どこからどう見ても疑問に思っていますという感情と――怒りが見える。

 自分を誰にでも尻尾を振る犬だとでも思ってるのか、そんな怒りが背中から蒸気となって湧き上がっているようだった。

 


 谷川さんは日向の鋭い視線には頓着せず、落ち着いてタバコの煙で肺を一杯にしている。まるで相手にされていない。あるいは喧嘩になったとしてもまったく問題ないとでも判断されているかのようだ。

 不良として面子メンツを大切にする日向にその態度が許容できるはずもなく、今にも爆発しそうになったとき。

 谷川さんはやっと口を開いた。



「話は聞いてる。お前は赤城さんに憧れてるんだろ」

「……おぅ」

「じゃあ尻尾を振るのは少なくとも妙義湊みたいな人間じゃねェ。だったら不満の一つくらいは持っているだろうと予想したんだよ」

「案外賢そーなコト言ってんな」

「完全無欠の賢人だろうがよ私はどこからどう見ても」



 絶対にありえないことではあるが、谷川さんは心の底から信じているようである。

 俺の笑いをこらえる気力は砂の城よりも儚く波に流され、タバコの煙と一触即発の空気が支配する重苦しい空間で、一人けたけたと笑ってしまった。

 周りを取り巻く谷川さんの部下たちが剣呑な視線を向けてくる。谷川さんは若干頬を赤くしつつも――数日前のことを思い出したのだろうか――彼女らに静止の声をかけた。



「私は男の言うことでキレるような狭量な人間じゃねェ。わかったらお前たちも引け」



 さすがに少々おつむが弱いとはいえカリスマ。彼女の一声はまさに鶴の一声。部下たちは瞳に不満げな色を残しつつ、何か文句を言うこともなく引いていく。

 今までまともに喧嘩もしたことのない俺が彼女らに襲われればひとたまりもないので、思わずほっと胸をなでおろした。

 別に先程の行動は煽ろうと考えてしたことではないのだ。ただ自然とまろび出てしまっただけで。生理現象と表現してもいいだろう。

 


 日向は状況が落ち着いたと見たのか、両腕を適当にスカートのポケットに突っ込み踵を返した。



「用件はそれで終わりだろ? 私たちは失敬するぜ」

「まァ慌てんなよ。大事なことがまだ残ってんだ」

「何だよ」

「派閥の誘いに乗らなかったヤンキーがどうなるかくらい、お前の長くない人生でも理解できるだろ」

「部下たちで囲んでリンチでもしようってか。肝っ玉が座ったような態度しておいて普通にチキンじゃねーか」



 首だけをひねって日向は侮蔑の言葉を吐く。

 しかし谷川さんは椅子に腰を下ろしたまま、ニヤリと口角だけを上げた。



「あんまり私を馬鹿にするなよ。部下たちで囲んでリンチだって? お前くらいの相手をするのにこいつら・・・・に命令するようじゃ、胸を張ってお天道さまの下を歩けなくなっちまうぜ」

「テメェ……最初からお天道さまに誇れねェ生き方してるくせに」



 谷川さんのあからさまな挑発に日向は乗る。のったりとした動きでポケットから手を外し、肩幅に足を開いて半身になった。

 正面から敵意を向けられているはずの谷川さんは、しかし一切の表情の変化がない。いやそれは正確な表現ではないか。怖がるだとか自分も敵意を返すなどではなく、ただ口角を上げるのみであった。



「なんでこの教室の机やら椅子やらが後ろに避けられてるか……わかるか?」

「最初から喧嘩することを想定してたって?」

「その通り。最終的には誘いを断られると思ってたからな」

「私のことをよく知ってるじゃねェか。じゃあまともに戦ったら一瞬で敗けちまうってことも予想できたんじゃねーの?」

「ぬかせ。完璧に分析した結果私の勝利が確定したんだよ。私のデータによると、私が勝利する可能性は九十九パーセントだ」



 データキャラの予想は破られるために存在するものであるが、谷川さんはデータキャラから百億光年くらい離れたところにいるので、その理論は通用しない。

 つまりこの二人が喧嘩をした結果はわからないのだ。漫画の知識を参照すれば多少は参考になるだろうけれども、必ずしもその通りになるわけではないために、頭を空っぽにして信用することはできなかった。



 至近距離でにらみ合い始めた二人を前にして、俺はつばを飲み込む。

 誰しもが沈黙を保っていたところにその音が響き、ちょうどいい開戦の合図となったのだろうか。彼女たちは同時に踏み込んだ。木製の床に靴底が鋭く擦れ、甲高く鳴る。



「ドラァァァァァァァ!!!」

「舐めんなァァァァァ!!!」



 鈍く肉を打つ音が聞こえてきた。まるで耳元で鳴らされたかのような大きさである。傍から眺めているだけでも威力の高さが伺えた。

 俺は血の気を失っているであろう顔で、彼女たちの喧嘩の行く末を見逃すまいと、目を細め歯を食いしばる。

 意識しなければ自然と後ずさりそうだったのだ。目の前で喧嘩が行われていると、自分のような小心者は逃げ出したくなるのである。



 二人の喧嘩は五分以上にも及んだ。

 時計の長針が異常にのろく感じる空間。

 そこで喧嘩の決着がついた。



「………………けっ」

「まァ勝負は最初から見えてたよな」



 もはや立てないのだろう、床に直接座る日向。

 彼女を見下ろして鼻を鳴らす谷川さん。

 つまりはそういうことだった。



「私の勝ちだ」



 高岩日向は谷川詩に敗北したのである。

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