第5章 夏の残り香
第1話 吉田舞香
吉田舞香の話をしよう。一番目の友達で、大人しいあいつの話だ。
大学の友人こそ一生の付き合いだなんて誰かが言うけれど、それは人が大量にいる都会に限った話なんじゃないかなって、大人になった今でも考える。青葉町に住んでいれば、大学なんて行かなくても仕事があるからね。
人の数だけ欺瞞は増える。世界の広さだけ嘘をつかれる。知る必要がないこと、知らなくても良いこと、知らない方が幸せなこと。僕らは知ることで傷ついていくけれど、ずっと地元で暮らして、時代に取り残されていれば、馬鹿で単純で、幸せでいられるんだ。
けれど、僕は知ろうとした。考えようとした。その根底には、舞香の存在があったんだ。
舞香との出会いは幼稚園だった。
あいつがあじさい組で、僕がさくら組。ちなみに秋奈とモリリンはゆり組だった。その頃は四人とも面識がなくて、自由時間の体育館で顔を合わせたら、なんかいるな、程度。その程度でしかなかった。
当時の僕は、とにかく先生たちの言いなりだった。時間を守り、きちんと挨拶をして、昼寝の時間は馬鹿正直に寝ていた。大人の言うことは絶対で、それを乱したら世界が終わるのだと本気で考えていた。
舞香と初めて話したのは、お泊まり保育のときだったかな。
あじさい組、さくら組、ゆり組合同で、真っ暗な幼稚園を探検するというイベントがあった。そこで男女一組のグループに分けられて、僕と舞香がペアになったわけだ。
そのときは、なんか怖そうな議員の娘とペアじゃなくてよかった、としか思っていなかった。と、本人には口が裂けても言えないけれど。
舞香の印象は、本当に静かな女の子って感じだった。幼稚園の探検中にもアレコレ話しかけてみたけれど、頷くか首を振るかの二択しかなかった。
何事もなく探検を終えて、舞香と別れて、それから歯を磨いた。用を足したら、自分の組に戻って寝ることになっていた。
薄暗い空間の中で、布団に入りながら、じっと天井を見つめていた。なんとなく眠れなかったんだ。
目を閉じると、真っ暗な幼稚園のことが頭に浮かんで、おしっこを漏らしてしまいそうになる。それだけは避けなきゃいけない。でも寝なきゃいけない。
自分の中で悩んでいた、そのときだった。布団の中で何かがモゾモゾ動いているんだ。
見ると、そこには舞香がいた。あいつ、結構大胆なところがあるんだ。
先生に見つかったら怒られると思った僕は、しかし就寝時間中に大声を出してはいけないというルールを思い出して、ただ顔をキョロキョロさせて慌てふためくしかなかった。
そうこうしている間に、舞香は布団からひょっこりと顔を出して、僕と向かい合った。
何を言うわけでもなく、何をするわけでもなく、舞香はそのまま寝息を立てて眠った。間抜けな寝顔を見ていたら、真っ暗な幼稚園の恐怖が薄らいでいった。
こいつは変なやつだけど、一緒にいると安心するなあって、そう思ったんだ。
それから舞香と遊ぶようになった。他にも友達と呼べるやつはいたけど、舞香と遊ぶのが一番楽しかった。というか、気が楽になった。周りはみんなワガママなやつが多くて、遊ぶのに気を遣わなくちゃいけなかったからだ。
これはあとから先生に聞いた話だけど、舞香のやつ、静かで大人しいから、同じ組の子にオモチャを取られてばっかりだったんだそうだ。お泊まり保育のときも、僕に置いて行かれないかずっと心配だったらしい。
だけど舞香を置いて行くどころか、僕は先生の指示を守って、最初から最後まで手を繋いで探検をした。それが嬉しかったんだという。
要するに、僕も舞香も、一緒にいるのが心地良かったんだ。
舞香は絵本、というか、物語が好きだった。読み聞かせはいつも最前列にいるし、自由時間になればまず真っ先に絵本コーナーに駆け寄る。舞香はそういうやつだった。
色々な絵本を読んだ。押し入れを冒険する話とか、虫が果物を食い荒らす話とか、あとはエルマーが冒険する、といえばもう分かってしまうだろうけど。
ファンタジーが好きだと、舞香は笑顔で話していた。現実には起こり得ない空想というのは、いつも自分の手を取って、どこまでも連れて行ってくれるんだという。どんな暗闇も照らして、どんな絶望も打ち砕いて、どんな苦しみにも立ち向かえる、らしい。
オモチャを取られても、引っ込み思案で喋ることが苦手でも、物語はそんな自分を受け入れてくれる。空想の中なら楽しいって思える。そういうことを、笑顔で話していた。
だから、他の園児に絵本を奪われたとき、舞香がとても悲しい顔をしていたのを覚えている。絵本というのは、あいつの心の拠り所だった。絵本がなくなれば、空想さえもあいつを見捨てたことに変わりなかった。
あのとき、僕は初めて先生からの約束を破ったんだ。どんなときでも人を殴っちゃいけないって約束を。
結局しこたま怒られたし、絵本は復元不可能なほど破れてしまった。
初めての説教を受けながら、僕は思った。空想がなくなってしまったなら、今ここにある現実をとびっきり楽しいテーマパークにしてやればいいんだって。
それから、楽しいことを考えようと必死になった。何も思いつかなかったら、自分の頭が悪いせいだと決めつけて、ひたすら勉強をした。小二・三の国語で学ぶような漢字や小説はすらすらと読めてしまったし、引き算までならできるようになっていた。
これは余談だけど、親に神童だと崇められて、都内の私立小学校を受験させられそうになった。
僕が面白いことを話すたびに、舞香は腹を抱えて笑ってくれた。現実にだって居場所があるんだってことを、僕という存在で証明しようとした。あの頃は、ただそのためだけに勉強していた。
安心というものを教えてくれた舞香に、ずっとお礼がしたかったんだ。
ちなみに、あの頃の僕らは、大人になったら結婚しようと約束していた。
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