第四章 傷心 SCAR‐HEART
1
――傷色の赤よ、慰めに歌え。
……滴る赤の、涙を流して。
G・T・グレムス 西暦2031年 艱難真紅
§§
それを掴み、振り上げ、振り下ろす。
「~~~~!」
だけれど。
「――――」
私はそれを、捨てる事ができなかった。
§§
馬車は【錆の大地】を今日も行く。
シルヴィーの年齢を考えるとちょっとした強行軍。だけれど僕は、一刻も早く先へ進みたかった。いや、進むと云うよりも、離れたかった。
一分一秒でも、あんなものの側にはいたくなかったから。
「姉さん!」
珍しく幌から出て御者台の隣に座っている姉さんに語りかける。自棄に為ったように声を張り上げて。勤めて陽気に。
「だけど今日はいい天気だね!」
「……そうですか」
「雲ひとつ無い快晴だよ! 例えるなら新築の家みたいだよ!」
「……そうですか」
「二人っきりって久しぶりだから、僕はなんだか嬉しいよ!」
「……そうですか」
「…………」
声に抑揚が無かった。瞳も、いつもみたいな色じゃない。肩を落として、俯いている。姉さんらしくない。こんなの、姉さんじゃない。
「……っ」
僕は苛立った。苛立ちに紛れて、姉さんをこんな風にしてしまったあれを罵倒する。
「二人っきりで晴れやかだよ僕は! あんなのと一緒だったなんて考えられない!」
思い浮かべる。黒曜石の色。
「大体、始めッから胡散臭いって思ってたんだよ僕は。なんだか気持ち悪いって思ってたんだ! 髪の色も目の色だってそうだけど、あの喋り方が、あの存在が気持ち悪かった。生理的に受け付けなかったよ! ねえ! 姉さんだってそうでしょう!?」
「…………」
「温情かけて護衛になんかするべきじゃなかったんだよ。なんか媚びてたし! 最低だよ最低! それにただでさえ最低なのにあいつは――」
あの漆黒の告白を思い出す。聞いた過去を思い出す。
「――バケモノだよバケモノ! 1000年? もっとずっと? そんなに長く生きてるのが人間なわけないんだよ! それが人間みたいに振舞ってあんな最低のヒトデナシ!」
あんなバケモノ。
「…………」
姉さんを傷つけるような外道。
「…………」
そんなものは。
「…………い」
僕は言った。憎悪と共に。
「死んじゃえばいいんだ!」
パン。
「――え?」
一瞬、何が起きたのか分からなかった。
分かったのは、頬が熱くて、姉さんの右手が振り抜かれていて、そして、そして何より沈んだ色をしていた星の瞳が怒りに染まっていて――
「黙りなさい」
姉さんは短く言った。その声は、震えていた。
「ね、姉さん……?」
え? 僕は、ひょっとして……ぶたれた、の?
「あの人を」
姉さんは言う、震えた声で。怒りの眼差しで。
「あの人を、悪し様に言うことを、私は許しません。仮令それが、お前でも」
「なに、何言ってるの、姉さん?」
「あの人は、お前が言うような悪人ではありません」
「姉さん! 何言ってるんだよ! 姉さん、だって姉さんはあいつに裏切られて――」
「裏切られてなどいません」
「姉さん!」
「裏切られてなど、いないのです」
姉さんの瞳の色は、いつの間にか哀惜に満ちたものに変わっていた。
「あの人は、私たちを裏切りなどしなかった」
「でも!」
あいつは!
「守ってくれたではないの!」
「っっ!?」
姉さん?
「言葉の通りに、方便であったはずの護衛としての在り方を示してくれたでしょう! 幾度も私たちを守ってくれたわ。最後の時など、命すら懸けて――!」
「…………」
命を懸けて。
だけど、だけど姉さん、あのバケモノは、不死の存在で。
「それでも、痛くないはずが無いでしょう……?」
「……痛い……?」
そう、痛いのです。言った姉さんの手が伸びて、赤くなった僕の頬をそっと撫でる。
「死ぬほどに痛く、死にたくなるほどに痛く、それでもあの人は、私たちを守り、過去まで、正直に話してくれました。肉体だけでは無く、きっと心も痛んだはずなのに。それでも正直に、それが私を傷つけ、返す刀が、拒絶が、己を傷つけることを知りながら」
「…………」
「傷つける……そうです。そう。私は今、心に傷を負っている。初めて、こんなにも、辛い」
「…………」
俯く姉さんの瞳は、もう見えない。長い髪がそれを邪魔して、このときばかりは眩いほどのその色も、どこか沈んで。
「【浄歌士】が心を動かされるものは世界のみ……たとえそれがモグリとて、それは絶対であるはずなのに。私の心は、あの人に動いてしまった」
「……でも」
でも、姉さん。姉さんは。
「そう、そうね」
暗い表情の下から、もっと暗い言葉が漏れ出る。
「私は、私の手で、あの人と決別したわ。私が、私自身で」
僕の頬から姉さんの手が引く。その手は代わりのように、姉さんの髪を彩る一つの髪飾りへと伸びて。
「あの時は、ああするしかなかった」
だけどその手は、青藍の髪飾りに触れるかどうかの位置で止まり、躊躇うよう震えて、結局髪飾りに触れる事無く力無く落ちた。
「私も、あの人も、偽りは求めていなかったから。どちらも、虚偽を纏ってまで互いを求めたわけではなかった」
「…………」
「その程度。その程度なのでしょう。私の思いも。あの人の思いも」
「…………」
「お前に、私の知っていることを、一つだけ教えてあげる。あの人は、あの人はずっと、過去に捕らわれている。私たちも、今の世界も、本当の意味ではあの人の無窮の瞳には映っていないの、きっと、きっとね」
「……姉さん」
「…………」
「姉さん」
「荷台に戻ります。少し、寝かせて」
「姉さん!」
「…………」
強く呼んだ僕の声など聞こえなかったように、姉さんは幌の奥へと引き込んだ。まるで影を纏ったように昏い表情のままで。
「…………」
僕は、何を言えばいいの分からなくって。
「チクショウ!」
悪態を吐くしかなかった。
◎◎
姉さんがそんな風に自分のことを語ってくれたのはその日だけだった。
次の日から姉さんは、【浄歌士】オーキッド・アイネスとして振舞うようになった。そうとしか振舞わないようになった。
姉さんはもう、姉さんらしくなんて無く、ただ【浄歌】を歌うだけの楽器となっていた。
人間らしくなんて無い。【浄歌】以外の全部を機械的にこなす楽器。
それは以前に戻っただけなのに、僕は、それを見続ける事が苦しくって、悲しかった。
想う。
思う。
姉さんがそうなってしまって初めて、分かる。
きっと、姉さんは始めて、誰かを頼ろうとしたんだ。
初めて、支えてくれる人を見つけたんだ。僕のような頼り無い存在じゃない、側にいてくれる誰かを。
なのに、あいつは裏切った。姉さんの言うとおりなら裏切ってないにしても、それでもあいつは、姉さんを傷つけた。
僕にはそれが許せなくて。
自分が姉さんのために何も出来ないと言う事実すらあの男の所為にして。
僕は、ヒトデナシに対する怨嗟を募らせていた。
◎◎
「だいぶ、西域の近くまで来たね」
「そうね」
焚き火を囲んで食事をしながら僕は言う。僕たちは二月ほどかけてアームド・ベルトを北上し終わり、不毛地帯【錆の砂漠】の端、西域――【錆の森】に最も近い村ラーシュルードまで数日と言うところまで来ていた。
大都から続くこの辺りは高山地帯なので比較的に【錆】の侵食が少ない。と云っても標高が1500メートル以上と云うわけでもないので(そうなると流石にシルヴィーには無理だろう)まだまだ土壌には【錆】が混じっているし【浄歌士】は必要だった。
「大都にはアキシウムのエリオセさんが行っているみたいだから敬遠したわけだけど、良かったの姉さん? 本当に行かなくって?」
「構わないわ。エリオセは優秀な【浄歌士】だから。あの娘一人いれば大都はこの月のうちに春の種蒔きの時節の準備が整うでしょう。定期で回る分には十分な土壌が確保できるはずよ」
「ふーん」
「手間賃と払いの兼ね合いもあるし。あの規模の都で買い物ができなかったのは少し残念でしたけれど。しかし、【浄歌】に必要なものは手元にあるわ。だから私たちはもっと【錆】の無い土地を必要とする、最も私たちを必要とする人々の許に行くのよ」
「ラーシュルードの人とか【錆の森】の淵に住む人たちだね。確か【
「その劣化品よ、あれは」
「へ?」
「【辺境人】というのは本来、【錆の森】の中に住む絶無の変わり者の事を指すのよ」
「も、森の中に住む!? そんなことできるの!!?」
できたらしいわね、と姉さんは気の無い調子で応じる。瞳はずっと、焚き火を注視していた。
「今も存在するのかどうかは知らないけれど、元は【浄歌士】の一派、名も消えたイスカリオテの血脈を持つものが【錆】を神聖視して、崇拝と共存を謳って棲み始めた――そうよ。窮極的な極地である【錆の森】は【浄歌士】でも無ければ生きていけないし、それはある種必然だけれど、彼女達が【錆の森】の奥深くに引き篭もっても【錆】を神聖視する人々が後を断たなかったのは問題だった、と以前母様に聞いた事があるわ」
「お母さんの話し?」
「ええ。確か【浄歌士】が【錆】を崇めたから、今もアームド・ベルト以東、【錆】の侵食が少ない地域には【錆】を神と奉る風習が根強く残っている……そういう話だったわね」
「へー」
「あなたも一〇〇〇年以上世界を渡り歩いていると言うのならその手の話には詳しいんじゃないの? そうでしょう、クロ――」
饒舌になりつつあった姉さんがぴたりと口を鎖す。隣へと傾けようとしていた首を戻し、また焚き火を見詰める。
「……姉さん」
名前を呼んでみる。だけど、返答は帰ってこない。
「――――」
揺れる焚き火の炎が、姉さんの顔を朱く染める。影と赤が錯綜して、姉さんの綺麗な顔に不可思議な陰影をつける。
「…………」
揺らいでいるの? そんな馬鹿らしい疑問が浮かぶ。姉さんが、ずっと一人だった姉さんが、ほんの少し一緒にいただけのあんな人と別れたぐらいで揺らぐわけが無い。そう思う。僕の姉さんは、凄く強い人だ。僕を助けてくれる、守ってくれる、強い強い人。だから、この程度で。
「…………」
でも、今また髪飾りに手を伸ばして、触ることも出来ないでいる目の前の肉親は、とても強い人には見えなくって、寧ろ僕には――泣き出しそうな、迷子にすら見えた。
§§
「…………」
産まれてからずっと一緒にいる唯一の肉親は、私を見限ったように先に眠ってしまった。
……仕方がない。そんな思いもある。ここ数日の私は、そうされても不思議ではないほどに姉としての役目を放棄していた。姉として、だけではない。もっとずっと多く、人としての振る舞いもまた、忘れていたのかも知れない。
忘れていた……本当に?
望んでそうしたのではないの? 人としての振る舞いを忘れれば、それは人では無くなると、そう思っていなかったと、本当に言える?
【浄歌士】としての在り方に専念できると。
もはや世界以外に心動かされることは無いと、そう考えなかったと言い切れるのか?
……言い切ることは、きっと難しい。
ヒナギ・クロウ。
私の護衛。
私たちを守ると言ってくれた存在。
あの煉獄の果てで、二人っきりで生きてきた私の、今一番側にいた人。
無条件に心を許したわけではない。
私にしても、彼にしても、きっと私の家族が思っていたほど近しい距離にあったわけではない。ただどこか、重なる部分があって、そこがどちらにとっても大切な部分であったから、だから、互いを意識の中に置いていた。それだけのこと。互いの互いを想う執着は、きっと強くない。でなければ彼が世界の救済を願ったとき、或いは私が彼の求めるものだと分かったとき、もっとずっと、互いを必要としたはずだから。だから、互いの思いは、きっとそれほど強くない。強くは無い。そのはずで、そのはずなのに。
「どうして、私は……」
こんなにも、あの人のことを……。
「…………」
あの子の言うことは理解できる。1000年を生きる彼を、人として見ることの困難さも分かる。私を嘗ての恋人に重ねた愚劣さも、痛いほどに。
だけれど。
煉獄に絶望を見て、心を鎖し生きてた私の。
その冷たい心の奈辺かに足を踏み入れたのは、きっと彼だけで――違う。それも違う。私自身がきっと心を。
「……嗚呼」
そう。
そうか。
分かった。
私は、彼を、こんなにも――
「…………」
でも。
この心は【浄歌士】である限り、絶対に言葉には出来ない。
「……――」
この言葉を紡いだ時きっと、私は、【浄歌士】で無くなるのだろう。
「――――」
夢に落ち往く刹那に、そう感じた。
§§
少しだけ夢を見た。
どんな夢だったか、よく覚えていない。
だけどそれは、とても厭な夢だった。
赤い花が咲いた。
真紅色の花が咲いたことを覚えている。
ドロドロと融ける、バラバラと崩れる、ゾブゾブと蠢く、叫ぶ、真紅色の花を覚えている。その花は、確か****と、云った。
◎◎
「シルヴィー、僕、どうしたらいいのかな……?」
酷く目覚めの悪い朝。起きだした僕は幌から出て、座っているシルヴィーの白い毛並みに屈んで頭を押し付けながら、ぶつぶつと呟く。
「姉さん……顔色悪いんだよ。ご飯もあんまり、食べてくれなくて」
昨日の夜だって、スープを一口飲んだだけだった。
「何でこんなことになっちゃってるのかなぁ。もう、
あの漆黒と袂を別ってからもうそんなに経つ。
「……なんでだろう……危ない事があったからかなぁ? 野党の類に出会っちゃったりして……でもそんなこと、今までも何度もあったし」
姉さんが説得をすれば済む話で。あー、でもそれで疲れて。
「……なんか違う」
そう云うことじゃない。
「どうして、なんで……分かんない」
でも、これはたぶん、全部あの漆黒の所為で。
「あいつが悪いんだ。あいつが」
あの黒色が。
「シルヴィー?」
シルヴィーは
「え、え?」
作り物みたいな目が、僕を見つめる。
何かそれは、違うんだと言っているようで。
もう一度嘶く。
「…………」
シルヴィー。
シルヴィーはただの馬だけど、ちゃんと智恵がある。年老いてしまっているけれど、とても賢い。なんとなく僕はシルヴィーをおじいちゃんかおばあちゃんみたいに考えている。血が繋がっているのは姉さんだけで、養父さんもお母さんも死んじゃっているけど、シルヴィーはここにいるし。姉さんに相談も出来ないときは、いつもこうやってシルヴィーに愚痴を溢して。頼りにして、大切にして。だけれど今日のシルヴィーは、僕のことを無条件に認めていてくれるようじゃなかった。
「シルヴィー」
名前を呼んで、僕もシルヴィーの瞳をしっかり見る。シルヴィーは、何かを伝えてくれようとしていた。
「…………」
よく、分からない。
「ごめん。ごめんね、シルヴィー。何を言ってるかわかんないよ……僕、分からない」
でもそれは、シルヴィーが悪いんじゃない。悪いのは、本当に悪いのは、たぶん。
「……僕が、姉さんを助けなくっちゃいけないのに」
姉さんが僕を助けてくれたように。悪夢に魘されて、世界を見失った僕を助けてくれたみたいに、今度は僕が姉さんを。
「シルヴィー?」
嘶き、シルヴィーは立ち上がる。
「え?」
シルヴィーは言葉を喋れない。
だけどそのとき僕は確かに、
「――違うよ?」
そんな声を聞いた気がした。
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