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「日本」は「百済」の南遷国 Part18

1日本@名無史さん
垢版 |
2024/09/06(金) 10:12:40.66
白村江の戦いで唐に敗れた百済王子扶余勇は、九州北部に南遷し、
大宰府を中心とした51kmの羅城の小国を築きました。
扶余勇は国号を「南扶余(百済)」から「日本」に改めました。
この小国は東に展開し、近江まで進出しました。
この扶余勇を日本書紀は天智天皇と諡号しました。

参照サイト「国際的視点からの古代史考 扶余勇=天智天皇」
2024/09/06(金) 17:21:05.74
2022年、オーストリアのウィーン大学で行われた研究"Northeastern Asian and Jomon
-related genetic structure in the Three Kingdoms period of Gimhae, Korea
(『韓国金海の三王国時代における東北アジアと縄文人に関連する遺伝子解析』)"
(韓国ゲノミクスセンター、蔚山国立化学技術研究所協力)では、

朝鮮半島南部金海市に位置する4世紀 金官伽耶時代、大成洞(テソンドン)古墳
伝説の伽耶「首露王」の王陵から出土した被葬者の人骨を検査したところ、

墓主が縄文系のY染色体ハプログループとされるD-M116.1(D1a2a1)に属し、
殉葬者が弥生系ハプログループO-PH40(O1b2a1a2a1b1)に属すことが判明した。
2024/09/06(金) 17:21:40.33
またこれを裏付けるように大韓民国釜山広域市江西区の加徳島にある

「約6300年前」の獐項遺跡からは、伽耶と同様にD-116.1(D1a2a1)
のY染色体を持つ縄文系人骨が出土している。

獐項遺跡からは日本産翡翠の装身具をはじめ48体の人骨が出土し、
科学分析が可能であったのは17体で、うち1体からはヨーロッパ系の母系とも
共通するミトコンドリアDNAのハプログループHが検出されている。
2024/09/06(金) 17:22:58.12
ミトコンドリアDNAのハプログループH 、
インドにはmtハプログループH が多い。アーリアンの血統だろうか。

4世紀 金官伽耶時代、大成洞(テソンドン)古墳の伽耶首露王と
インド阿踰陁(アユダ)国の王女で、許黄玉という。

インドの太陽神「スーリア」と方保田東原遺跡の巴形銅器
https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/39/47/49489ce57e6f121f6a5125d88d916d42.png
2024/09/06(金) 17:23:50.28
福岡スダレ遺跡からは弥生時代中期(BC300年頃)の中東や、南インドで流行った
「子持ち壺」が出土してるから、交流、関わりは有ったんだろうな。

https://adeac.jp/iizuka-city/texthtml/d300010/mp000010-300010/ht003070
2024/09/06(金) 17:24:28.56
>南越国内の遺跡から出土した「巴形模様が刻印された」青銅、鼎。

広東省・恵州(香港北部の市)・缚娄古国遺跡 始于春秋時期 3000年前
http://i1.kknews.cc/SIG=3nam3j7/ctp-vzntr/EO2JyJH48VeIgu.jpg
http://www.people.com.cn/mediafile/pic/20181006/95/9263562868866793675.jpg
2024/09/06(金) 17:29:26.45
.
 

 
言語との関連
朝鮮半島における無文土器文化の担い手は現代日本語の祖先となる
「日琉語族」に属する言語を話していたという説が複数の学者から提唱されている。

これらの説によれば現代の朝鮮語の祖先となる 「朝鮮語族」に属する言語は
古代満州南部「白頭山」を聖地とする周辺から朝鮮半島北東部にわたる地域で確立され、
その後この朝鮮語族の集団は北方から半島中部へ南下拡大した。

朝鮮半島中部から南部に存在していた日琉語族の集団に置き換わっていったとしている。
またこの過程で南方へ追いやられる形となった日琉語族話者の集団が
弥生人の祖であり倭人達であるとされる。
2024/09/06(金) 17:31:16.99
.
 
 
 
東夷王とは倭国王のことだった『漢書 王莽伝』〜中国の史書から見た倭人

越裳氏重譯獻白雉、
黄支自三萬里貢生犀、
東夷王度大海奉國珍、
匈奴單于順制作、去二名

『漢書 王莽伝』より
越裳は重ねて使者を通じ、白雉を献じた。
黄支は三万里を経て、生きたサイを貢いだ。

東夷王は大海を渡り、希少な品々を奉った。
匈奴単于は、(中国に)順じ、二字名を改めた。
2024/09/06(金) 17:32:14.76
 王莽(前45〜23)は、前漢の政治家でしたが、権力を握り、漢の高祖の霊より
禅譲を受けたとして、漢に代わり「新」王朝(8〜23)の皇帝に即位しました。

周代の治世を理想とし、儒教を重んじた政治は現実的ではなく短期間で破綻していきます。
王莽は、「華夷思想」に基づいて匈奴や高句麗など周辺民族の王号を
剥奪したとされています…

新朝は、東夷諸族に新たな印綬を配布しますが、高句麗王は高句麗候に格下げされ、
更に命令に背いたとして、国名を「下句麗」と改めさせました。
王莽は、儒教、礼を重視していましたので、高句麗を「礼無し」と見たのでしょう。

一方、冒頭の伝にあるように、東夷王は王位を剥奪されてはいません。
大海を渡って珍奇な(価値の高い)物産を奉る東夷王は、礼のある王だったのでしょう。
2024/09/06(金) 17:33:19.38
 ところで、海を渡ってやって来る東夷王って誰のこと?

三國志魏書烏丸鮮卑東夷伝に記される東夷諸族とは、夫余・高句麗・東沃沮・挹婁
・濊・韓(馬韓・辰韓・弁辰)・倭人であり、烏丸・鮮卑を含めた『九夷』のうち、
「大海を渡って来る東夷」は、倭人しかありません。

三國志東夷伝において倭「人」と人がつくのは倭人だけです。
東夷諸族の中で、最も文化度が高く、東夷のリーダー格であるのは「倭人」だと、
中国は認めていたのでしょう。

これまで王莽は周辺民族に対し“差別的”だから高句麗の王号を剥奪したように
言われてきましたが、東夷諸族にそれぞれ王号を与えるのではなく、

その盟主的存在である倭国王だけに「東夷王」を与えるよう改革したに過ぎない…
 のではないだろうか?
2024/09/06(金) 17:34:16.90
.
東夷九部族のなかで唯一倭国王だけに「東夷王」と王を名乗る事が許された。

なるほど。
2024/09/06(金) 17:37:25.36
.
 『宋書』では「弁辰」が消えて、438年条に「任那」が見え、
451年条に「任那・加羅」と2国が併記される。その後の『南斉書』も併記を踏襲している。

広開土王碑文(414年建立) : 永楽10年(400年)条の「任那加羅」。
『鳳林寺真鏡大師宝月凌空塔碑文』(924年成立):大師の俗姓について
 「任那の王族に連なる新金氏」としている。

『宋書』倭国伝のなかで451年、南朝宋の文帝が倭王済(允恭天皇に比定される)に
「使持節都督・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓六国諸軍事」の号を授けた記述や

478年、南朝宋の順帝が倭王武(雄略天皇に比定される)に
「使持節都督倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓六国諸軍事安東大将軍倭王」
の号を授けたと記述している。
2024/09/06(金) 17:38:42.13
一般的な認識は、任那日本府の淵源を『日本書紀』神功紀にある「官家」に求め、
任那日本府は伽耶地方=任那地方を政治的軍事的に支配したとするものである。

そのため三韓征伐のモデルとなった朝鮮半島への出兵を4世紀半ば
(神功皇后49年を干支2巡繰り上げたものと見て[369年]と推定する)とし、

以降、当地域は倭王の直轄地であったとした。
2024/09/06(金) 17:40:30.56
.
 
 
 
皇族のY染色体(D1a2a1)が4世紀 までは遡る事が証明されたな。

半島中部の松菊里遺跡や、福岡県平原遺跡・吉武高木遺跡の王墓から(D1a2a1)が
発見されれば完璧なんだが。酸性土壌の九州では古くなるほど人骨は難しいか。

まあ、4世紀の任那日本府はほぼ確定だな。
2024/09/06(金) 17:41:15.86
「魏志 馬韓伝」、にある国々で下の8か国はすでに、
卑弥呼時代(3世紀)には、邪馬台国の軍事勢力圏に入ってたと考えられる。

これらは邪馬台国時代の軍事的長(卑奴母離)を(卑離)と記録者が省略化したのだと思う。

卑離(ヒリ)国
占離卑(センリヒ)国 ←(単に写し間違いと思われる)
監奚卑離(カンケイヒリ)国
内卑離(ダイヒリ)国
辟卑離(ヘキヒリ)国
牟盧卑離(ボウロヒリ)国
如来卑離(ジョライヒリ)国
楚山塗卑離(ショサントヒリ)国
2024/09/06(金) 17:42:50.62
ヒナモリ(卑奴母離、比奈毛里、鄙守、比奈守、夷守)は、

3世紀から4世紀頃の日本の邪馬台国の国境を守備する軍事的長の名称。
後に地名、駅名、神社名等に残る。
またヒナモリの「モリ (守) 肥後守ひごのかみ」などカバネとしても使われた。

邪馬台国時代の軍事的長。
『魏志倭人伝』は、邪馬台国に属する北九州の対馬国、一支国、奴国、
および不弥国の副官に「卑奴母離」(ヒナモリ)がいたことを伝えている。

これらの国々は邪馬台国の外国交易ルートに位置し、
外敵や賊に対する守りを固めるために置かれた男子の軍事的長の称号と考えらる。
2024/09/06(金) 17:46:46.21
 4世紀は先高句麗によって楽浪郡を滅ぼされ(313年)中原の支配から解放され
伯済國は百済へと斯盧國は新羅へと纏まって建国して行ったんだろう。

南部の倭人地域は混乱したが卑奴母離(ヒナモリ)などの
一定の軍事力は保持してただろうが、北部から高句麗勢の軍事力をバックに

南下政策をとった過程で倭国の勢力地域も侵され高句麗、百済、新羅、倭国の
四ツ巴、戦闘状態の天地が引っくり返る様な状態な時代だった。
2024/09/06(金) 17:48:38.74
そこで、登場したのが「神功皇后」で息長氏の先祖が新羅王アメノヒボコ。

おいっ、待てよ、新羅は我が先祖の領地だぞよと、
昔の三韓の領地を還せと、返還しないなら征伐だと、その過程が例の下の好太王碑文。

百済・新羅はもと高句麗に服属する民で、これまで高句麗に朝貢してきた。
ところが、倭が辛卯の年(391年)以来、海をこえて襲来し、
百済や新羅などを破り、臣民とした。百済とは七支刀を送り同盟関係が出来てた。

そこで好太王は、396年にみずから水軍をひきいて百済を討伐した。
2024/09/06(金) 17:50:13.78
この過程を表したのが例の、倭王武の上表文。

478年,中国南朝の宋に倭王武(雄略天皇)が送った上表文。
「宋書」倭国伝にみえる。
武は上表で、東は毛人(えみし)55国を、西は衆夷(しゅうい)66国を征服して国内を統一、

さらに海北の朝鮮半島南部95国を平定したと誇示したうえで、

475年に百済(くだら)の21代蓋鹵(がいろ)王を殺した高句麗に対抗するため、
「使持節、都督倭・百済・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓七国諸軍事、
安東大将軍、倭国王」の称号を求めた。
が、すでに宋に朝貢している百済を除いた称号は認められた。
2024/09/06(金) 17:58:21.92
七支刀。
日本書紀等の史書では、百済が倭に対して複数回朝貢し人質を献上していたことが
記述されているが、この七支刀献上に関して、
日本書紀神功皇后摂政52年条に、百済と倭国の同盟を記念して神功皇后へ
「七子鏡」一枚とともに「七枝刀」一振りが献上されたとの記述がある。

紀年論によるとこの年が372年にあたり、
年代的に日本書紀と七支刀の対応および合致が認められている。
銘文の冒頭には「泰□四年」の文字が確認でき、「泰」は「太」と音通するため。
東晋の「太和四年」(369年)とする説(福山敏男、吉田晶、浜田耕策ら)。

いわゆる三韓征伐のモデルとなった朝鮮半島への出兵を4世紀半ば
(神功皇后49年を干支2巡繰り上げたものと見て[369年]と推定する)とし、
以降、当地域は倭王の直轄地であったとした。

倭が辛卯の年(391年)以来とは、その後の大軍出兵だったんだろう。
2024/09/06(金) 18:01:19.58
>謎の4世紀とは、こんなもんか??

邪馬台国の女王卑弥呼が(ひみこ/ひめこ、生年不明 - 247年)ころ亡くなって
倭国騒動で女王豊トヨが共立され、時期は10代崇神〜11代垂仁天皇
(倭人伝に記録がある、伊支馬イクメ・イリヒコ)(260年頃から〜)

(310年頃から?)
4世紀、この頃、高句麗と楽浪郡との攻防で半島は大混乱期
倭国は卑弥呼時代からの九州熊襲討伐、12代景行、ヤマトタケルで奮戦中。
西は衆夷(しゅうい)66国を征服して国内統一を目指し中。

(360年頃かな?)
そして14代天皇仲哀天皇9年2月の崩御、遺志を継ぎ、
女豪族・田油津姫を討ち、熊襲の支援国新羅征伐へと方向転換し、
百済と倭国の同盟を記念して神功皇后へ「七子鏡」「七枝刀」372年。

三韓征伐へと向かう東晋の「太和四年」(369年)〜辛卯年(391年)の出来事。
2024/09/06(金) 18:10:29.94
その後も百済は敗北したが、朝鮮半島での一定の軍事力は確保してた。

478年,中国南朝の宋に倭王武(雄略天皇)が送った上表文。
「宋書」倭国伝にみえる。
武は上表で、東は毛人(えみし)55国を、西は衆夷(しゅうい)66国を征服して国内統一、

さらに海北の朝鮮半島南部95国を平定したと誇示した。

「使持節、都督倭・百済・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓七国諸軍事、
安東大将軍、倭国王」の称号を求め、宋から百済を除いた称号は認められた。
2024/09/06(金) 18:15:10.88
.
 
> ミャオ族などもほぼ漢民族。朝鮮族、満州族、ベトナム、半分漢民族だな。
 何処か行動感性が似てるところがある。島国であるフィリピンや日本人とは違う。

ハプログループO2-M122
日本人--- 16.7%
朝鮮族--- 40.0%
漢民族華北 65.9%
漢民族華南 32.5%
満州族--- 38.5%
モンゴル族 22.8%
ミャオ族- 68.9%
ベトナム- 40.0%
2024/09/06(金) 18:22:10.12
蓋国(北朝鮮辺りに有った国)は鉅燕(春秋燕)の南、倭(今の韓国辺りに有った国)
の北にあり、倭は燕に属す。 「山海経」

この「蓋国」とは濊貊(わいはく、かいはく)の濊国の事だと思う。

成王の時、越常雉を献じ、倭人暢を貢す。 「論衡」
海中、倭人有り。分れて百余国を為す。歳事を以て来り献見す、という。「漢書」
2024/09/06(金) 18:36:02.87
蓋国(北朝鮮辺りに有った国)は鉅燕(春秋燕)の南、
倭(今の韓国辺りに有った国)の北にあり、倭は燕に属す。
 「山海経」戦国時代〜秦朝・漢代(前4世紀 - 前3世紀頃)ころの様子。

この「蓋国」とは濊貊(わいはく、かいはく)の濊国の事だと思う。

成王の時、越常雉を献じ、倭人暢を貢す。 「論衡」
海中、倭人有り。分れて百余国を為す。歳事を以て来り献見す、という。「漢書」
26日本@名無史さん
垢版 |
2024/09/10(火) 16:21:36.79
日本史で最初に物証が残っているのは、21代雄略天皇であり450年頃のこと

倭の五王の一人倭王武が雄略天皇のこと
当時の和名で「獲加多支鹵大王」
彼が450年頃に生きていたことや
熊本県から埼玉県まで支配下に置いていた事
奈良県の磯城宮に住んでいたとされる

彼の物証を崩すことはなかなか難しい
27日本@名無史さん
垢版 |
2024/09/11(水) 10:29:40.35
※全人口の約半数の2,604万人が集中するソウル
ソウル人のY染色体は50.9%O2
28日本@名無史さん
垢版 |
2024/09/24(火) 16:41:00.92
>> 縄文系は弥生人に飲み込まれて消滅なんかしてないよ!!

4万-3万年前にやってきたD-M64.1(D-M55)系統(縄文系ハプログループD1a2a)
(Hammer et al. 2006)
アイヌ 75.0 %〜88 %
青森_ 38.5 %
沖縄_ 55.6 %〜56 %
(Sato et al. 2014)
長崎_ 30.0 %
福岡_ 33.3 %
徳島_ 30.6 %
大阪_ 31.2 %
金沢_ 32.6 %
川崎_ 33.0 %
札幌_ 35.0 %
(Hammer et al. 2006)
朝鮮族 4.0 %
満州族 0.0 %
29日本@名無史さん
垢版 |
2024/09/24(火) 16:41:47.13
Wikipedia 日本人より (Nonaka et al. 2007)

ハプログループC-M8・C1a1 (Y染色体) 2.3%
ハプログループC-M217・C2 (Y染色体) 3.0%
ハプログループD-Z27276・D1a1 (Y染色体) 0.4%
ハプログループD-M64.1・D1a2a (Y染色体) 38.8%

ハプログループO-M176・O-47z (Y染色体)  25.1%
ハプログループO-M176・47z以外(Y染色体)  8.4%
ハプログループO-M122・O2 (Y染色体) 16.7%
ハプログループO-M119・O1a (Y染色体) 3.4%
ハプログループO-F2320・O1b1 (Y染色体) 0.8%
ハプログループQ・Q1a1a1 (Y染色体)__ 0.4%

ハプログループN・N-M231 (Y染色体)_ 2.0% (青森: 7.7% 徳島: 7.1%
 徳島県: 5.3% 福岡市成人男性: 3.9% 札幌市成人男性: 3.9%)
30日本@名無史さん
垢版 |
2024/09/24(火) 16:43:48.36
アイヌはもともと東北縄文人で下北・恐山を聖地とする集団
宇曽利山(うそりやま)アイヌ語由来のウソロ(ウショロ)は、「くぼみ」。

その彼らが目の前の蝦夷地に移住して行った、
そこには細石文化のバイカルC2系が先住民として住んでて、
そして混血して行ったのが現在のアイヌ。

[アイヌ]
縄文系 D1a2_ 75.0%
バイカル系 C2 25.0%
弥生系 O系統_ 0.0%
31日本@名無史さん
垢版 |
2024/09/25(水) 08:08:41.43
中国の文献史料では、百済を倭国より上位扱い、
日本の文献史料では、百済を大和王権の属国扱い、
どっちの言い分が正しいのか?
32日本@名無史さん
垢版 |
2024/09/25(水) 09:45:34.76
古代史の闇夜に浮かび上がる一説に、「日本」は百済の南遷国との説がある。この説は、単なる国号の類似性にとどまらず、両国の文化、風習、さらには遺伝子レベルでの繋がりを示唆する考古学的な証拠を根拠とする。

百済は、かつて朝鮮半島南西部に栄えた古代国家である。その滅亡後、百済の王族や民衆が日本列島に渡り、新たな国家を築いたという。この説は、日本古代史における最大の謎の一つであり、歴史学者たちの間で長らく議論が続いている。

百済の文化が日本に与えた影響は多岐にわたる。例えば、仏教の伝来や、文字の導入などが挙げられる。また、百済の工芸品や建築様式は、後の日本の文化に大きな影響を与えた。

しかし、この説を裏付ける決定的な証拠はまだ発見されていない。考古学的な発掘調査は日々進められているが、百済の南遷説を完全に証明できるような遺物や記録は、未だに見つかっていない。

百済の南遷説は、日本人のアイデンティティを根底から揺るがす可能性を秘めている。もし、この説が事実であれば、日本人は単一民族ではなく、多様な民族が混ざり合って形成された民族であるということになる。

この説は、歴史学だけでなく、民族学、考古学、遺伝学など、様々な学問分野に大きな影響を与える。今後の研究の進展によって、この謎が解き明かされる日が来ることを期待したい。
2024/09/25(水) 17:57:26.62
3世紀の『三国志(魏志倭人伝)』の版本では「邪馬壹國」
12世紀の宋代の紹興本「邪馬臺国」
5世紀の『後漢書』倭伝現存刊本では「邪馬臺国」
7世紀の『隋書』「都於邪靡堆 則魏志所謂邪馬臺者也」
唐代の『北史』では「居于邪摩堆 則魏志所謂邪馬臺者也」

>倭人の都は全て「邪馬臺国」「邪靡堆」「邪摩堆」「大倭」「やまと」と発音できる。

もし、百済が南遷征服したならば首都の名称を
「漢城」「熊津」「泗沘」「扶余」「南扶余」とかに改め刷新したはず。

あの満州国でさへ首都は「長春」から「新京」に改めた。
「江戸」も「東京」と改め刷新した。
34日本@名無史さん
垢版 |
2024/09/28(土) 11:48:47.49
>>31
中国の文献史料には、
①倭人は入れ墨をしてた、
②弁辰・辰韓とも風俗が似通ってた。

しかし、日本書紀には、
②大和朝廷と百済は、通訳無しでも意思疎通が出来たが、新羅とは通訳が必要だった、
と記録されてる。

④現在の朝鮮半島でも、
全羅道はC2bが多く、慶尚道はO1b2a1a1が多く、ソウル周辺はO2やO1b2a1a2aが多く、北朝鮮はC2bが比較的多く検出される。

結論
O1b2a1a1は沿海州南西部から来たシニ・ガイ文化人。
35日本@名無史さん
垢版 |
2024/09/28(土) 17:56:22.90
母系ハプログループD4は、
7800年の長野県、
4900年前の岩手県、
4000年前の神奈川県や青森県、
3700年前の北海道、
2700年前の沖縄、
の遺跡人骨でも、それぞれ検出されてる。
縄文早期からO1b2が日本に来ていたとしても、不思議ではないな。
36日本@名無史さん
垢版 |
2024/09/29(日) 11:26:30.90
O1b2は朝鮮人よりも沿海州南部のツングースの方が高頻度

日本のO1b2は縄文末に沿海州から入っだんだろう


http://pbs.twimg.com/media/F9xDmRfbYAAoj0W?format=jpg&name=small
37日本@名無史さん
垢版 |
2024/10/11(金) 16:35:43.91
倭人・日本人の風俗習慣はシベリア沿海州とは無縁のもの
ふんどし一丁ほぼ裸で労働したり、南方に多い太陽信仰、穀物信仰や海神信仰が根強い、

それと何となく南方に故郷・極楽浄土というか天国の様なものを想像するが
北方には暗い、苦しい、とか悪いイメージしかわかない。
38日本@名無史さん
垢版 |
2024/10/11(金) 17:07:11.89
南世界で生まれ育ちブッタとなった御釈迦様に始まり
慈悲で人間を救うとされ古来から日本人に信仰する観音菩薩、
日本人にとって切っても切れない西方極楽浄土を創造した阿弥陀如来さまも
この世を見守る大日如来に様々な修行者たちが頼りにする不動明王など

南方世界から産み出された神聖な仏神が
混濁入り混じる北方に軸を置いた現世から南方光明で人間界を救ってるのだし

それと日本列島を統括する最高神社神も太陽神を象徴する天照大神だしね

これが現実
39日本@名無史さん
垢版 |
2024/10/11(金) 17:19:11.12
北風と太陽の逸話に象徴されるように
この世界(宇宙)は神の陰陽で創造され
人間界を惑わすように創造されたのは世界地図を観れば一目瞭然
40日本@名無史さん
垢版 |
2024/10/11(金) 17:27:53.64
邪気極まる北方エネルキーは意外場所に弱く地味な姿で現実に存在してる
41日本@名無史さん
垢版 |
2024/10/13(日) 20:40:37.84
北東は鬼門の方角、
現在でもロシア、北朝鮮とかいう現役鬼が活動してるからな、成敗しなくちゃ。
42日本@名無史さん
垢版 |
2024/10/16(水) 16:16:34.31
シュメール神話、ギリシャ神話のオリンポス山、十二神など
擬人法で神々を語る手法が日本神話とよく似てる、
ギリシャ人やペルシャ人たちが記紀編纂に関わったんだろな。波斯人か。
43日本@名無史さん
垢版 |
2024/10/16(水) 19:22:06.36
日本=百済の南遷国を認めた?
2024/10/17(木) 22:07:21.47
ハプログループQ (Y染色体)

 周人は、遺伝的には漢民族の先祖ではなかった可能性がある。
約3千年前の周の時代の遺跡から出土する古人骨には、現在の東アジアではまれな
ハプログループQ (Y染色体)が約59%という高い頻度で観察される。

現代の漢民族では高頻度のハプログループO2 (Y染色体)は、わずか27%しか見られない。
ハプログループQ (Y染色体)が多く見られるのは、
現在では南北アメリカ大陸の先住民や、シベリア中央北部の先住民などである。
2024/10/17(木) 22:12:38.45
> 漢民族は周王朝の子孫と云われてるけども、
 実はミャオ族の系統なんじゃないかと思うな。

ハプログループO2-M122
日本人--- 16.7%
朝鮮族--- 40.0%
漢民族華北 65.9%
漢民族華南 32.5%
満州族--- 38.5%
モンゴル族 22.8%
ミャオ族- 68.9%
ベトナム- 40.0%
2024/10/17(木) 22:29:05.91
Y染色体ハプログループQ1a1系統
「周・文王」
古代中国・周朝の始祖・文王(BC1152-BC1056)のY染色体は、
ハプログループQ1a1a1(Q-M120)であると推定される。

寧夏・彭陽県出土、東周時代貴族人骨
中国・寧夏回族自治区彭陽県から出土した東周時代の貴族の古墓を調査した結果、
総ての男性の遺体からY染色体ハプログループQ1a1a1(Q-M120)が検出された。
遺体の傍らには青銅の剣が安置され、東周時代の貴族階級の人々であったとされる。
2024/10/22(火) 17:22:30.84
漢族は周辺の異民族の中国征服王朝の支配を受け、混血され形成された民族概念で、
ゆえに、異民族の出身であっても漢族の文化伝統を受け入れれば、漢族とみなされる。
2024/10/22(火) 17:36:49.94
漢民族が周時代からの主要民族だったなら
もう少し洗練された漢字を自称に使ったはずが、「漢」てバランスが悪く威厳がない。
まだ「主」「王」「天」などの方が威厳というかカッコ良さがある。

南部の東南アジア系やミャオ族のような民度の低さが感じられて
歴史を造り先導して行った民族とは思えない、いつも暴動と破壊だけの歴史。
49日本@名無史さん
垢版 |
2024/10/23(水) 15:47:07.25
ようは傭兵としてミャオ族のような命知らずな少数民族が
中原、漢水あたりに集住し、川の名から「漢」と名乗りだした。
そして頭の劉邦が王となって「漢王朝」を始めた。
50ネトウヨ撲滅隊!
垢版 |
2024/10/26(土) 11:38:22.21
当時の中華文明は他地域を超絶した知的レベルを誇っていた
その差異は今の米欧韓台日のような西側先進国とパプアのジャングルの土人よりも大きかった

学問をしたければ中国語を覚えねばならなかった
例えば古来からやまと言葉には抽象概念を表す単語はないが漢語にはそれが大量にある
今の日本人が自国語で高等教育を受けられるのは韓半島からの渡来人が文字をもたらしたからなのだ

夏王朝に比定される二里頭文化よりも前の陶寺遺跡から漢字と思われるニ文字の書かれたものが出ている
読みには諸説あるが、これを文堯と解釈して堯の都跡とするナショナリズム的解釈が受けているようだ

とにかく中華文明は周囲を超越した大文明であり、ネトウヨが縄文文明などと言って比較できるようなものではない
2024/10/26(土) 20:38:34.19
シュメールは人類最古の文明化。
メソポタミアのシュメール文化(紀元前3500年頃)から
エジプト文明前3000年頃が生まれ、
さらにインダス文明(紀元前2500年頃から1500年頃)が生まれた。

黄河文明(紀元前2000年頃から甲骨文字)はインダス文明が作ったのだという。
象形文字が4大文明で共通している。

黄河周辺の彩文土器などは明らかに中央アジアの物である。
旧約聖書もシュメールの歴史である。イラクの古遺跡の名も旧約聖書のそれと同じである。 
地名が歴史の化石と言われるゆえんである。
2024/10/26(土) 20:42:51.89
【殷の甲骨文字】
次に殷墟から出土した甲骨文字について見ていきます。

言語学者のガブリエル・マンデル氏は「幻のインダス文明」という書籍の中で、
殷中期の原エラム文字とインダス文字の比較研究を論述しています。

また、オーストリアの考古学者ハイネ・ゲルデルン氏も
殷の原エラム文字がインダス文字の一種であることを考証しています。
2024/10/26(土) 20:46:46.89
黄河の甲骨文字とインダス文字に共通する特徴として象形文字と表音文字という
二つのグループから合成されていることを解説しています。

また、インダス文字が原エラム文字と非常によく似ていることは広く識られています。
2024/10/26(土) 20:48:40.56
>結局、殷商王朝はシュメールやペルシャ・インダスからの交易商人たちの活動拠点だった。

漢字はいつ生まれたか?
殷王朝の時代(BC1,700〜BC1,100年)、
紀元前1,300年頃に生まれた(漢字のルーツ甲骨文字・インダス文字・原エラム文字)
https://blog.goo.ne.jp/chiku39/e/559f6d4bb09441dd49a1c1f2cb125c44

上の写真は漢字の変化を纏めた資料

 殷時代 BC1,700〜BC1,100年 甲骨文字
 周時代 BC1,100〜BC256年 金文
 秦時代 BC221〜BC207年 篆書
 漢時代 BC202〜AD220 隷書、楷書、行書、草書
2024/10/27(日) 01:39:25.98
インドと同じ14億人の後進国としても異常に少ない。おかしい。創造力の欠如か。
O2のDNA的な欠陥かもしれん、O2の多い国は全てノーベル賞が取れないか少ない。
パクリだけでここまで経済を引っ張って来た?

中国 14億人 ノーベル賞 中国・台湾合わせて4 人(科学賞1名、他は文学・平和)
インド14億人 ノーベル賞 12人

日本 1.2億人 ノーベル賞 28人
2024/10/27(日) 01:42:09.55
O2の多い国は全てノーベル賞が取れないか少ない。暴力的で犯罪が多い。

ハプログループO2-M122
日本人--- 16.7%
朝鮮族--- 40.0%
漢民族華北 65.9%
漢民族華南 32.5%
満州族--- 38.5%
モンゴル族 22.8%
ミャオ族- 68.9%
ベトナム- 40.0%
2024/10/27(日) 01:53:15.55
儒教なども「開封ユダヤ」とかユダヤ人が関係してるんだろ
ユダヤ人のこと「ジュー(Jew)ジュード」て呼ぶから。
58日本@名無史さん
垢版 |
2024/10/28(月) 22:43:58.16
漢字などの組み合わせは、明らかに旧約聖書の教えとリンクしてるからな。
甲骨文字、楷書漢字などはインダス、ペルシャ、あたりの知識人が関わってるよ。
59日本@名無史さん
垢版 |
2024/10/28(月) 22:48:18.05
甲骨文字には南の動物「象」の象形文字がある
黄河中流域に「象」は居ないので南部地域で創られた事が解る。
60ネトウヨ撲滅隊!
垢版 |
2024/11/02(土) 12:31:17.58
殷王朝の甲骨に出てくる王名は春秋左氏伝など後世のものと一致している
違いは甲骨は王が一名だけ多い点である

後世の史書では即位していないとされる人物が甲骨では王として数えられている
殷王朝の習慣では若くして亡くなった王子に王号が与えられることがあるので、どちらが正しいのかはよく分からないのである

あと殷墟の甲骨より古い殷王朝前期の甲骨の断片が出土しているから、漢字の起源は殷墟の時代よりも古く二里丘時代まで遡るのは確実である

そして殷王朝の天子は十干の名を負った王族の十の支族から選出されているので完全な世襲制の王国である
61日本@名無史さん
垢版 |
2024/11/11(月) 00:49:23.91
元々辰国、馬韓にあった「月氏国」もパキスタン、ガンダーラ地方にあった国で
仏典などではインドも指す国名

殷王朝の甲骨文字もインダス文明の人等が伝えたんだろ
そしてその一派が朝鮮半島で「月氏国」を建てた、弁辰人は背が高いとの記録も納得
福岡にインド系の土器があるのも納得。
2024/11/13(水) 06:44:44.16
>殷王朝の甲骨文字もインダス文明の人等が伝えたんだろ
インダス文明に卜占はあったのかね?
63日本@名無史さん
垢版 |
2024/11/30(土) 18:35:20.27
卜占との関係は分からないが、インダスには甲骨文字とソックリな絵文字が残されてる。
64日本@名無史さん
垢版 |
2024/12/02(月) 20:30:27.18
古代インドで手相占いが発祥
手相の歴史は古く、その起源にも西洋から東洋まで諸説がありますが、
現段階で最も信ぴょう性が高いのが古代インド「サムドリカ」と呼ばれる学問からの発祥説です。
さかのぼること5000年、紀元前3000年の太古の昔、隆盛を誇ったインダス文明の時代の話です。
65日本@名無史さん
垢版 |
2024/12/05(木) 08:22:09.80
扶余勇が善光の根拠は?
66日本@名無史さん
垢版 |
2024/12/05(木) 08:54:54.50
>>32
扶余勇は善光とアリバイが違うので別人です。扶余勇=天智天皇です。
ここから、日本=百済の南遷国が導けます。
67日本@名無史さん
垢版 |
2024/12/05(木) 08:58:08.92
>>66
旧唐書に白村江の後、扶余勇王子が倭国に敗走した記述があります。
書紀の天智紀には多くの百済貴族が渡ってきた記述があります。
彼らは敗北しても降参したのではありませんので、扶余勇を頂点に政権を作り百済の再建を考えるのは当たり前です。
68日本@名無史さん
垢版 |
2024/12/05(木) 09:02:08.89
>>67
日本史では扶余勇を善光と同一視して扶余勇を消しています。
しかしながら、続日本紀には善光は白村江で戻らずとありますのでアリバイが異なり同一人物ではありません。
日本史は扶余勇をどう扱うか新たな課題が突き付けられたのです。扶余勇=天智と考えれば全てうまくゆきます。
69日本@名無史さん
垢版 |
2024/12/05(木) 09:03:47.77
>>68
旧唐書には日本はもと小国で倭国を併せたとあります。
扶余勇=天智としますと、天智が近江に移った事実は、扶余勇が近江まで進攻したことを意味します。
すなわち、大宰府を中心とした土塁で囲まれたところが小国日本で、
日本が近江まで進攻する過程で倭国を併せて行ったのです。
この日本は百済が消えて、その王子扶余勇が作った国ですから、日本=百済なのです。
70日本@名無史さん
垢版 |
2024/12/05(木) 09:11:13.80
>>69
まとめ、
百済人が白村江で敗北して倭国にやって来て(南遷)、日本という小国を作り、東進し、倭国を併合していったのです。
71日本@名無史さん
垢版 |
2024/12/05(木) 12:13:03.47
>>70
扶余勇(=天智)は近江まで東進しましたが死亡しました。王子の大友が跡を継ぎます。
日本に侵食されていった倭国は、扶余勇死亡を期に戦いを挑みます。壬申の乱です。
倭国は勝ちました。しかし、日本国号を引き継いだのです。
72日本@名無史さん
垢版 |
2024/12/05(木) 12:13:42.48
>>71
その理由は、推測ですが、扶余勇は処罰される身ではありましたが禰軍によって認められ、
倭国の実効支配を任されたのではないか。扶余勇が処分を受けなかったことが何よりの証拠です。
天武がその日本を倒して倭国を名乗れば、唐に反逆することになります。
国号をそのままにして政権交代にとどめる必要があります。
また、倭国政権もいわば百済の流れを汲む政権ですから、日本国号に違和感はありません。
73日本@名無史さん
垢版 |
2024/12/05(木) 23:32:43.47
殷王朝は甲骨文字を伝えたインダス文明人な、だから南方の「象」を知ってた。
74日本@名無史さん
垢版 |
2024/12/07(土) 21:18:49.42
その殷王朝の民衆が逃げ込んだのがちょうせん半島、無文土器人か
あとから来た箕子ちょうせん
75日本@名無史さん
垢版 |
2024/12/08(日) 20:15:31.03
日本の歴史学者は御用学者
76日本@名無史さん
垢版 |
2024/12/09(月) 21:12:33.44
歴史学者は既得権益側だから、真実よりも自分たちの利権を守りたいだけ。
77日本@名無史さん
垢版 |
2024/12/10(火) 13:30:30.49
体制を守るために歴史を作り上げてゆくのが歴史学者
頑張ると先に学士院会員が待っている
78日本@名無史さん
垢版 |
2024/12/10(火) 14:46:07.05
>>77
所詮、公務員の裁判官も似たようなものだし
79日本@名無史さん
垢版 |
2024/12/10(火) 22:10:18.96
<古代中国甕棺出土地>
ps://aomatsu123.blog.エフシー2.com/blog-entry-177.html

この支石墓・甕棺墓出土地が山東半島〜浙江省に掛けての中国東沿岸地域、
古代、東夷や九夷が『礼記』王制篇「竹書紀年」など中国の古文書などに登場する地域。
80日本@名無史さん
垢版 |
2024/12/10(火) 22:12:33.53
長い年月を経て、九夷は徐々に大きな影響力を持つ存在となり、
殷代(前17〜前11世紀)には中国の東部を拠点として数を増し、

やがて東夷と呼ばれるようになります。そして後漢書や「通典」の東夷序略によると、
周代(前10世紀以降)では中国の東方、淮河流域周辺や泰山周辺を拠点として、
その勢力はきわめて盛んになり、現地の民から恐れられるまでになっていたようです。
81日本@名無史さん
垢版 |
2024/12/10(火) 22:15:11.76
その彼らが遼東半島・韓国西岸・九州西岸へと転移したのが正しく東夷と呼ばれる諸族なのである。

東夷と呼ばれる彼らはちょうど瀬戸内海の村上氏や河野氏のような
平和時は普通に漁師で、戦乱時は水軍・傭兵または海賊として暴れる存在だったんだろう。
82日本@名無史さん
垢版 |
2024/12/10(火) 22:21:21.96
そう山東半島から江蘇省海岸、上海、浙江省までの海岸沿い周辺には

支石墓・石棚墓・甕棺墓、が多く向かいの遼東、韓国西岸や九州西岸とよく似てる。

結局、縄文時代から渤海・黄海・東シナ海をぐるぐる廻る交易海洋民だったんだよ。
2024/12/11(水) 14:32:52.29
あさhcgh
84日本@名無史さん
垢版 |
2024/12/11(水) 21:31:16.34
>>78
国民には泣いてもらうが裁判官の基本。
馬鹿馬鹿しいから、訴訟もできない。
85日本@名無史さん
垢版 |
2024/12/11(水) 21:37:06.93
>>82
日本は百済の南遷国と解ったから東夷の話してるんだね。
関係ない話には誰も興味がないよな。
86日本@名無史さん
垢版 |
2024/12/12(木) 07:27:06.11
トランプと並んで座り、肩を叩かれてニコニコするなんておうのいげんも
87日本@名無史さん
垢版 |
2024/12/12(木) 07:28:21.22
>>86
王の威厳もあったものではないw
88日本@名無史さん
垢版 |
2024/12/12(木) 15:56:47.74
百済の南遷国なんて誰も興味がないから
オイラの雑記帳として使わせてもらってる
89日本@名無史さん
垢版 |
2024/12/13(金) 20:51:07.17
>>88
歴史は学んで現代に活かすためにある
ネジ曲がった歴史しておくからまた属国になっちまった
90日本@名無史さん
垢版 |
2024/12/14(土) 18:42:56.18
倭国は百済の属国であった
91日本@名無史さん
垢版 |
2024/12/14(土) 18:44:27.69
だから百済が倭国になだれ込んでも倭国と争いにならなかった
92日本@名無史さん
垢版 |
2024/12/14(土) 19:47:11.63
百済の残党が倭国に亡命?
ありえない。政権を樹立します。
2024/12/14(土) 21:33:01.35
理論破綻してないか?

百済が倭国の属国であった、であっても、
百済が倭国になだれ込んでも倭国と争いにならなかった。
で意味が通るのだが。

百済が倭国の属国であった、の方が、
百済の残党が倭国に亡命する、ことになるのだが。

逆に倭国が百済の属国であったのなら、
百済が滅亡したら立場逆転して、倭国独立するだろ。
94日本@名無史さん
垢版 |
2024/12/16(月) 12:11:16.93
たとえば、大月氏族
たとえば、蒋介石
たとえば、ポルポト

精力を維持している奴はみんな自分より弱い国に逃げて政権造るんだよなあ

そりゃ、ロンドンに亡命のタクシンとか、
モスクワに亡命のアサドとか、
北京で暮らしたシアヌークとかいるけど、

亡命と言うのは少人数なんだ。

机上で考えてるお馬鹿w現実の例を見て見なよw
95日本@名無史さん
垢版 |
2024/12/16(月) 13:21:45.32
>逆に倭国が百済の属国であったのなら、
百済が滅亡したら立場逆転して、倭国独立するだろ。

百済残党が倭国に逃げ込み政権を作るだろうw
2024/12/16(月) 19:16:46.56
倭国は日本が併合した(あるいは逆)とあるから、
百済が日本だったと証明するしかないね。

まあ百済はどうでもいい属国でしたよと。
2024/12/16(月) 19:34:03.03
>任那4県を百済に無条件割譲

属国に大赤字の領土を押し付けたんだなあw
98日本@名無史さん
垢版 |
2024/12/16(月) 20:08:11.91
>>97
百済は国土が増えて喜んだだろうw
99日本@名無史さん
垢版 |
2024/12/16(月) 20:16:35.84
>>96
倭国を併合した日本とは、百済残党が大宰府を中心に作った周囲51kmの羅城をもつ小国のこと。
「日本旧小国」とはこの小国のこと。
この小国日本が倭国を併合していったとは、近江政権のことなのだ。
つまり近江政権は百済残党政権。
日本=百済を証明したwwwwww
2024/12/16(月) 20:37:00.81
>>99
大宰府は西だから、日の没する処だね!
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