婚約破棄されても『私は』恨まない
リーセロットは護送馬車の檻の中に閉じ込められて、故郷への道を移動し続けていた。夜を二回過ごしたから、今日でもう三日目になるか。通気のために開けられている小さな穴から檻の中に入ってくる砂埃がときおりリーセロットの顔にパラパラと降りかかってきて、非常に不愉快だった。
──騙された。
王太子は婚約破棄する代わりに無事リーセロットを故郷ヴェイナント辺境伯領に帰してやると言ったではないか! それが、ヴェイナント辺境伯領にある囚人用鉱山送りだとは!
リーセロットは暗い檻の中で通気口から入ってくる唯一の光を睨みつけつつ、板張りの硬い床に寝そべっていた。馬車はずっと、舗装されていない道を通っている。馬車が道の段差を乗り越えるたびに板床が上下に大きく振動して、そのたびにリーセロットの身体が叩きつけられ、そこかしこが痛みを訴えていた。
突如として、馬車の外から何か金具が外されるような音がしてから馬車がゆっくりと停止した。御者が馬から護送の荷台を外して走り去っていってしまったとは、暗闇の中にいるリーセロットにはわからなかった。
(……何!?)
その後に聞こえてきたのは複数の馬蹄の響きと、剣戟のような金属同士がぶつかり合う音、そして怒声と断末魔の叫びのようなものだった。思わずリーセロットは板床の上でうずくまった。
それらが数分で止んだ後、何かを叩き壊すような音と共に檻の扉が開け放たれた。錠前が壊されたのだ。リーセロットは急に差し込んできた外の光に目を細めつつ、自分のおかれた状況をとっさに考えた。
(私を誘拐でもしようというの?)
いっそ悪漢に誘拐された方が鉱山送りよりかは遥かに幸せだろうか。そのようなことを考えつつ檻の扉を開けた人物の顔を見た。
「ご無事か、リーセロット嬢」
「……ええ」
リーセロットに声をかけたのは知らない男だった。歳は二十代半ばほどだろうか、武装した身なりからして騎士のようだ。男の明るい茶色の髪が陽光を受けてつややかに煌めいている。なぜ男はリーセロットの名を知っているのか。
「俺はリーセロット嬢を助けにきた。きみは殺されそうになっていたんだ」
男の言葉を聞いて、リーセロットはまさか、と思った。そのリーセロットを殺そうとした人物というのが誰かはわかりきっていたが、さすがにそこまで憎まれているとは思っていなかった。
「……王太子殿下にでしょうか?」
「正解だ」
男はリーセロットに手を差し伸べると、彼女の手を取って檻の外から出るのを手伝ってくれた。リーセロットは数日ぶりに浴びる外の光の下で、身体についた砂を払ってから、うんと伸びをした。
「俺はシモン・キールストラ。このグランディカ王国ヴェイナント要塞三万の兵を預かっている」
そう自己紹介した男の名をリーセロットは知っていた。
「一騎当千、王国最強と名高いシモン卿……」
シモンは薄い唇を微笑ませた。その頬にはわずかに返り血が跳ねている。
「ヴェイナント辺境伯令嬢に名を知っていただけているとは光栄だ」
「当然ですわ! あなた様はヴェイナント領、ましてやこの国の英雄ですもの!」
シモンは隣国ラゴーワからのヴェイナント領侵攻を打ち払った、リーセロットにとっても故郷を守ってくれた恩人である将軍だった。リーセロットの心に一つ、心配に近い疑問が湧いた。
「将軍閣下が王太子殿下の不興をこうむった人間を助けてよろしいのですか? それも、殺されそうになっていたところを……」
リーセロットは暗い表情で訊いた。
「俺はきみを、あんな馬鹿王太子から助けるためにいるんだ。安心してくれ、俺はきみの味方だ」
シモンの人を落ち着かせるような低音の声に、リーセロットの胸には熱い塊が込み上げてくるようだった。気がつけば、リーセロットは今までの恐怖がどっと溢れ出してきて、嗚咽していた。
シモンはリーセロットが泣き止むまでその背をさすってくれた。ようやくリーセロットは周りに複数人の男の骸が転がっているのに気がついた。乗り手を失った馬が近くを当てもなくうろついている。
「王太子が差し向けた刺客だ。俺たちが片付けた」
乗り手を失っていない馬上にはシモンと似た武装をした騎士たちがいて、リーセロットに思い思い笑顔を向けていた。
「助けてくださり本当にありがとうございます!」
リーセロットは感謝してもしきれない気持ちだった。
その日から、リーセロットはヴェイナント要塞で匿われることになった。
「どうしてきみは王太子から婚約破棄されたんだ?」
夕暮れ時、蜜色の光がヴェイナント要塞の談話室を照らしていた。シモンは静かにリーセロットに尋ねたのだった。
「王太子殿下は他に好きな女性がいらっしゃるとかで……私は必要ないとおっしゃいました」
シモンはいぶかしげに片眉を上げた。
「グランディカ王家がヴェイナント辺境伯家と結びつくことが目的の政略結婚ではないのか?」
「ええ。そこで、このままだとこのグランディカ王国は潰れますよ、と父が申し上げていたことを王太子殿下に告げました」
リーセロットの父、ヴェイナント辺境伯は鉱山開発事業と隣国ラゴーワとの国境警備を主に行っている。豊かな鉱山資源を狙って、たびたび隣国ラゴーワはヴェイナント辺境伯領へと侵攻してきており、それを阻止する役目を果たしているのがこのヴェイナント要塞だった。
「愛がない政略結婚なのは承知でした。昨今のグランディカ王家に対する民衆の不満から、私はヴェイナント家の反乱を防ぐための人質にされていたようなものなのです」
「……なるほどな」
「私は王太子殿下に諫言したのです。『私が自害したらお困りになるでしょう? 民衆から信頼を失うのですから。一部残っている貴族たちも、いつ王家の方たちを見捨てるでしょうか』、と。そうしましたら、『立場をわきまえろよ。お前は辺境で石ころでも掘ってろ』と婚約破棄されてしまい……今に至ります。まさか殺されかけるとは思いもしませんでした」
「いかにもあの馬鹿王太子が言いそうなことだ。……つらい思いをしたな」
シモンはリーセロットの気持ちが痛むほどにわかった。
その晩、リーセロットはよく眠れなかった。寝たり、覚めたりを繰り返して、いつの間にか夜が明けていた。少し冷たい空気が肌をなでる。部屋のカーテンを開けて窓の外を見ると、空の色はちょうど茜から青に変わるところだった。雲ひとつない空が目にしみるようだ。外には演習場があり、まだ早い時間だというのに人影が見えた。リーセロットは演習場に向かった。
「このような時間から剣の稽古ですか?」
「ああ、来週には王都で大規模な軍事演習があってな」
人影は、シモンだった。剣を振るシモンの姿をリーセロットはひたすら夢中になって見つめた。まるで透明な敵が存在しているかのように、シモンは攻撃や防御の型を自在に取っている。
「私……もう、どうやって生きていったらいいかわからないのです」
リーセロットはうつむいた。
「もうすぐ……もうすぐで、きみが自由に生きることのできる世界がやってくる」
重そうな長剣を自分の手足のように器用に扱いながら、シモンは答えた。
「それは?」
「きみが見てのお楽しみさ」
シモンは剣を振っていた手を止めると、リーセロットの方を向いて、優しく笑いかけた。
リーセロットがヴェイナント要塞で保護されてから一週間が過ぎた頃だった。
「王都での軍事演習……行ってらっしゃいませ。どうか、お気をつけて」
そう言ったリーセロットの声は震えていた。ついにシモンが王都へと出立する日だった。シモンは苦笑した。
「大丈夫だ、何があっても俺はあんな王太子に暗殺されたりなどしないから」
「ですが、私を、匿ったから……」
シモンは困ったように眉を下げて微笑んだ。
「俺はきみを助けたくて助けたんだ。──では、行ってくる」
シモンはリーセロットの肩に手を軽く置くと、去っていった。決してリーセロットに振り向くことはしなかった。
それからというもの、リーセロットはヴェイナント要塞の掃除や炊事の手伝いをして過ごしていた。シモンのことを案じていても、自分の力だけではどうしようもできないことがあるのだと理解はしている。その点、やるべき作業があるというのは助かった。何も考えずに済むからだ。
そのようなときにシモンからの便りが届いたのだった。そこには一言。
──『王宮へ来てくれ』、と。
いてもたってもいられず、リーセロットは護衛の騎士を連れて王都へと向かった。数日間の旅路だというのに、今まで最も長い時間に感じた。一体何があったというのだろう。まさか、シモンは王太子に捕らえられていて、自分を呼び出して殺すための“だし”に使われているのではないだろうか、という不安がリーセロットを焦らせた。
そうして王都に到着すると、街にいる人々がこれまでに見たことがないほどの笑顔でいるのだった。お祭り騒ぎのようになっており、誰も彼も浮かれた様子だ。
「号外! 号外だよ!」
新聞配りが一心不乱に人々へ手渡しているそれをリーセロットも手に取った。目を通して、彼女は仰天した。
──「ついに逃げ場を失った国王陛下、毒で自害なさる。王太子殿下は未だ行方不明!」
……と、書かれていたのだから。
(国王陛下が自害なさって、王太子殿下は行方不明!? 何が起こったの!?)
リーセロットは王宮へとおもむく足を速めた。ついに王宮へ到着すると、門番が彼女に近づいてきて、そのまま応接室へと通された。ソファで座って待っているよう指示され、その通りにする。リーセロットは高級な木材を磨き上げて作られた応接室の壁をぼんやりと見つめた。
「やあ、一月ぶりだな、リーセロット嬢」
リーセロットは、応接室に入室してきた人物の声に聞き覚えがあって、はっと顔を上げた。──シモンだった。
「一体どういうことですか?」
リーセロットの反対側のソファに腰かけたシモンは不敵な笑みを浮かべた。
「軍事演習だと言って兵を引き連れ、王家に対して反乱を起こした訳だ。結果はご覧の通りさ」
リーセロットは口をあんぐりと開けた。何から質問したらいいかわからない。
「王太子がきみを殺そうとしただろう? それはきみが、王妃教育をされている……つまり、王家が民たちに重税を強いておきながら、税金を無駄使いしたり、私腹を肥やしていたりしたという王家にとってあまりにも不都合な事実を知っているという理由で、きみを消したかったからだ」
「そんな身勝手なことで私の命を……」
リーセロットは大きなため息をついた。王太子には呆れて何も感想が出てこない。
「結局、行方不明の王太子殿下はどうなったのですか?」
「ヴェイナント辺境伯領の囚人用鉱山で働いてもらうことになった。今までの民たちの苦しみを理解してもらわなければな」
「妥当なところですね」
リーセロットには一つ名案がひらめいた。
「元・王太子殿下に応援の気持ちを込めて贈り物をしたいのです」
「なんだい?」
「彼の愛する女性の名前が彫られた特注のツルハシです。これできっと、頑張れますね」
シモンは満面の笑みになった。しばらくそうしていたが、やがてふざけた表情を消して真剣な顔になった。
「ずっと、俺はきみを守りたかった。ようやくその願いが叶おうとしている。……これからも守らせてくれないだろうか?」
「王国最強騎士の守りなら安心安全ですね。お言葉に甘えます」
◇
俺は人生をやり直している。これは比喩ではなく事実だ。俺は国王の弟、つまり王弟の隠し子だった。国王は俺の父である王弟を暗殺した。しかし、それを察していた俺の母がヴェイナント辺境伯領に隠れ住んだのだ。母は平民だったため、俺も平民として暮らした。
母から、父が生前に話していたという、王宮の地下通路の存在を教えられた。それは王族だけが知っているものだった。父はそれを使うこともないままに殺されたが。父と母は結婚することもなく、若い頃ひそかに俺をもうけた。
反乱にはそれを利用して王宮へと攻め込んだ。いずれにせよ俺の存在が明らかになれば殺される。先に手を打つしかなかった。結局のところ、その事実を知る者は誰一人として存在しなかったが。俺は反乱に成功し、腐ったグランディカ王家をこの世から根絶した。つまり、俺は生涯にわたって妻帯せず独り身で過ごした、ということだ。
死ぬ間際になって『彼女』のことを思い出した。王太子に暗殺されてしまったヴェイナント辺境伯令嬢リーセロットのことだった。彼女とは一度たりとも会うことは無かったが、彼女の犠牲によってこの国の歪みが明らかになり、反乱は引き起こされた。
リーセロットを救えなかった。これは王家の問題だというのに、人質として巻き込まれた彼女がひどく哀れだった。
どうかリーセロットに救いを。するとなぜか二度目の人生が待っていた。……この人生は彼女を救うために使おう。そう決意した。
そして、今はこう思っている。
──愛しい妻と子どもたちに会うため二度目の生を受けたのかもしれない。
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