雨に消えたファナの足跡
翌日、レシュタット家は歴史的な朝を迎えた。
王都の空はどんよりとしていて、朝から霧のような柔らかな雨に見舞われる、いかにも冬らしい寒い朝だった。
私は朝から身支度に勤しんだ。
沐浴をし、髪を丁寧に洗うと、香油を塗って丁寧にすいてもらう。爪の形も整え、公爵家伝来の美肌クリームを塗りこむ。
昼食は緊張のあまり、ほとんど入らなかった。
弟は私に食べるように勧めたが、両親はより細く見えるだろうから、かえって好都合だと言った。
いよいよ、今夜の夜会でファナ・レシュタットが、王太子の妃として発表される。
(無事、その時を迎えれば、アリーラの未来は薔薇色になる……!)
私は大舞台を前に、そして自分の人生の転換点を前に緊張していたが、なぜかカリエも様子がおかしかった。
いつも元気なカリエが、朝から言葉少なく、塞ぎ込みがちなのだ。更に昼過ぎになると、カリエは目に見えて顔色が悪くなっていた。
「どうしたの? 調子が悪いなら、休んでいて。最近忙しかったから、風邪でも引いたんじゃない?」
声をかけると、カリエはびくりと肩を震わせてから、首を大仰に振った。
「ち、違うんです。体調は万全です。ご心配おかけして、すみません」
いよいよ王宮へ向かう為、青いドレスを着る。その頃には、外の雨は本降りになっていた。
ふと鏡に映ったカリエを見ると、カリエは窓の外に視線を投げて、何度も息を呑んでいた。
「カリエ、無理は禁物よ。やっぱり休んでいて」
「大丈夫です。私、体は頑丈なんです」
でも、その声が既に震えている。
どう見ても聞いても、様子がおかしい。
「何かあったの? カリエ、さっきから様子がおかしいわよ」
カリエはやっとのことのように、目を窓から剥がした。激しく瞬きをしながら、私を見つめると、自分の口元を両手で押さえた。
「わ、わたし……」
「どうしたの? 私には何でも話して」
「実は……、昨日、帰り際に近衛騎士団長に伝言を頼まれたんです」
「ジュストに……!?」
急にドクトクと心臓が鳴る。
私までカリエの動揺が移ったかのように、落ち着きがなくなっていく。
この先をカリエから聞いてはいけない。
あの人からの伝言なんて、抹殺するのだ。聞かずに、私は先へ進まなければ。
そうわかっているけれど、気づけば私は震える声で、尋ねていた。
「ジュストは、――なんて?」
カリエは俯きがちのまま、目を左右に忙しなく動かした。言うべきか迷っているみたいに。
「大丈夫だから、教えて」
促すとカリエは肺の中から全ての空気を押し出すように、震えながら溜め息をつくと、口を開いた。
「昨日、お嬢様に伝えるよう、騎士団長は仰ったんです。『明日の朝、公爵邸の裏門の外で待っているから来てくれ』って」
明日の朝。
私はぎこちなく窓の外を見た。
私を呼び出して、どうするつもりだったんだろう。
いずれにしても、もう昼をとうに過ぎている。ズキンと胃のあたりに、鈍い痛みを覚える。
指定された時刻は過ぎ、私は行かなかった。私達はすれ違ったのだ。
(ああ。終わった。私は、きっとこれでもう、運命の分岐点をついに乗り越えたんだわ。前回のファナが歩けなかった新しい道を、もう歩いてるんだ)
雨の中、ジュストは待ったのだろうか。来ない私を。
せめて、裏門に私は行かない、とカリエに伝言を頼めれば良かったけれど。
時刻がとうに過ぎては、最早どうしようもできず、窓の外の雨を放心したように見つめる。
私とジュストは、終わった。
カリエは自分の胸を押さえ、唇を震わせて続けた。
「申し訳ありません。私も、どうするのがお嬢様のためなのか、お嬢様のお幸せのためなのか、分からなかったんです」
「わたしの幸せは、もちろん、王太子妃になることよ」
……いや、本当に?
私を愛することがない人と結婚することが?
子どももおそらく望めない。
味方が一人もいない、贅沢な監獄に行くようなものなのに?
「今さら考えても仕方がないわ。ジュストももう、帰ったでしょうし」
少しの沈黙の後で、カリエは言った。
「いえ、それが……。先ほども外に出て遠くから見てきたんですが、朝からずっと、裏門の近くに誰かが立っているんです」
「えっ? それは、ジュストがまだ裏門にいるということ……?」
「はい。外套と傘で、ジュスト様かは分からないんですが」
ごくり、と生唾を嚥下する。
外は雨が本降りだ。
もしも、ジュストが朝から私が来るのを、今もなお待っているとしたら?
思わず窓に近寄り、次々と雨粒が滑り落ちる様子を確認する。
(彼は、本気なんだ。本当に私を連れて、逃げるつもりなんだ……)
いや、本当はジュストが本気かどうかなんて、私は分かっていたけれど。
ここで私は初めて、自分自身に問いかけた。
(私は、どうしたいの? ――ファナ。あなたの人生なのよ。だからこそ、自分で考えて、自分で動かないと)
今までずっと、ジュストは待っていたかもしれない。でも、あと数分で諦めて帰ってしまうかもしれない。
(それなら、あと数分耐えれば。あと少し我慢すれば、無視すれば。歴史は変わるはずよ、アリーラ)
ああ、違う。
あと数分で、終わってしまう。
今私が何もしなければ、ジュストとの道は永遠に閉ざされてしまう。
もう、我慢が出来なかった。
私はゆっくりとカリエを振り返った。
「カリエ。……このドレス、首元のレースが少しチクチクするの。外側に倒れるように、至急縫い直してもらえる?」
カリエは白い顔で固まった。
私は、泣きそうになるのをこらえて、続けた。
「――だから、今すぐ脱ぎたいの。ドレスを、脱がなくちゃ」
カリエは石像のように動かない。
「お願い、カリエ。脱ぐのを、手伝ってくれる?」
「お嬢様……」
カリエはぎこちなく動き、震える手で私のドレスに手をかけた。そうしてそのまま、背中のリボンをほどき、ドレスを持ち上げる。
上から脱ぐので、既にセットした髪型が崩れかけるが、かまわない。
「これも、いらないわ」
頭からドレスを脱ぐと、コルセットも外していく。
その代わりに、ドレッサーに掛かる中で一番地味なドレスを選び、急いで着込む。
袖を通すのを手伝うカリエの手は、見たことがないほど、ブルブルと震えている。
着替えが済むと、私はカリエに最後の仕事を命じた。
「カリエ、喉が渇いたの。お茶を淹れてきて」
カリエは黙っていた。
答える代わりに、私に手を伸ばすと、どちらからともなく抱き合った。
熱い思いが込み上げるが、泣いている暇はない。
「あなたの淹れてくれるお茶が、大好きなの。たとえこの家を出ても、あの味は忘れないわ」
「お嬢様……、私……」
「あなたは世界一の侍女よ」
カリエが私から離れ、数秒ほど私の顔をじっと見た。そして思いを吹っ切るように顔を背けると、早足で部屋から出ていく。
私は急いでテーブルの引き出しを開け、便箋を取り出すとペンにインクをつけ始める。
『王太子妃になることが、怖くなってしまいました。探さないでください ファナ・レシュタット』
時間がない。悠長にしていられない。
引き出しを開け、中にそっとしまっておいたものを、両手で優しく持って取り出す。
ジュストからもらった、花冠だ。茶色く変色したそれを、腕にかける。これだけは持っていかなければ。
ドアを開き廊下に出ると、私はそこで一度立ち止まった。
ゆっくりと部屋を振り返る。
目の前にあるのは、見慣れたいつもの景色だ。
絵画が飾られ、華奢な脚を持つ豪華なテーブルセットの置かれた、私の広くて快適な部屋。
(さよなら。私の日常――)
公爵令嬢であった自分の世界に、心の中で別れを告げる。