4.皇帝様の思し召し
「アズール様、何を言われるのですかっ!」
フィリスが仰天する。でもアズールは手を振って一顧だにしない。
「理はソフィーのほうにある。こんな扱いをされれば、誰だって婚約破棄したくなるだろうさ」
「馬鹿な! 認めない、俺は認めないぞ!」
激昂したフィリスが剣の柄に手をかけ、私に駆け寄る。
うっ、実力行使に出てきたか。
ここで捕まるわけにはいかない……私も懐の小瓶に手を伸ばす。
でもそれよりも早く。
アズールの冷えた声と魔力が鋭く飛んだ。
「――君の意見は聞いてないんだけど?」
さっきまでとは一転して、骨まで凍るような低い声。
アズールの殺気がフィリス目掛けて飛んでいた。
「ひっ……!!」
それだけ。たった一瞬のことだ。
本気の殺意が混じった魔力でフィリスは無様に崩れ落ちた。
群衆にはわからないように、彼とその背後の兵だけに……。
怒りは霧散して、恐怖だけがフィリスとその兵を包んでいた。
アズールが前に進み出る。
その中で一瞬、彼が私に向けて悪戯っ子のように口角を釣り上げた。
(……聞いてろってことかな)
アズールがフィリスの眼前に立つ。
「ねぇ、わかってる? 僕は遊びに来たんじゃないんだよ。戦略物資のポーションのことで話し合いに来たんだ。なのに、朝っぱらから死にかけたんだよ」
いえ、そんな危険はなかったはずです。
でもそれはアズールも承知の上だ。その上で言っている。
「そ、それは……」
「これだけでも大問題なのに、どうもそれを画策したのは君の婚約者らしい。これは由々しき事態だと思わないかい? どうなってるんだろうね」
「――ッ!!」
フィリスの顔が真っ青になる。
あっ、そういうことか……。
本当に頭が回るな。
アズールはこの騒ぎの犯人を私だとして、フィリスにも責任を負わせようとしている。
確かについさっきまで私はフィリスの婚約者だったけれど。
前世の知識でアズールをよく知っている私には本気ではないとわかるんだけど、彼には到底見抜けないだろう。
「僕には何の落ち度もないのに。これは慰謝料どころの話じゃないよ。宣戦布告と同義だよねぇ?」
「そ、そんなつもりは毛頭ありません!」
フィリスがものすごい勢いで土下座して、地べたに頭を擦りつける。
彼に習い、他の兵もクーデリアも平伏して土下座し始めた。
「全てはこのソフィーが! ソフィー・セリアスの単独犯です!」
「でも君の婚約者なんでしょ? 形式的にでも実体がなくても」
「……いいえ! 今、このソフィーが申し出ました通り! 婚約は破棄されましてございますっ!!」
はっきりと。
フィリスが認めた。
私との婚約を破棄する、と。
――やった!
アズールが私に振り向く。
フィリスに見えない角度で、アズールは微笑んでいた。
「だってさ。これで証人としての役割は果たしたと言えるかな」
「はい、もちろんです!」
「気にしないで。今のは僕を笑わせてくれた礼さ。
ああ、でもまだもうひとつあったね」
彼がぽんと手を打ってアズールを見下ろす。
「今のはフィリスくんとこの国がソフィーと無関係だって話だ。それは納得した」
「ご理解頂けたようでなによりでございます……!」
「でもさぁ、まだ足りないよね。僕を殺そうとした罪は消えてない」
「えっ……」
フィリスが絶句する。
アズールのターンは終わっていなかった。
「それは……その、どのようにしたら……?」
「簡単だよ。犯人を引き渡してもらおうか」
アズールが踊るように私の横に来て、すっと肩を抱く。
形の良い、陶器のように青白い肌の彼がそばにきていた。
「これでいいんでしょ?」
全てを見透かしたアズールが私にだけ聞こえるよう、囁く。
どこまで。彼はどこまで見抜いているのだろう。
でも賭けたのは私だ。
ほんのかすかに私は頷き返した。
彼の瞳とは裏腹に、体温がひどく熱く感じられる。
「僕を殺そうとした大罪人。あー……君の元婚約者のソフィーをね」
「そ、そんな! 彼女を失ったら我が国は!」
「……二度、僕に言わせる気かい? よく考えたほうがいい。これは僕にできる最大限の、最後の譲歩だよ。飲めないなら、戦争だ」
アズールの瞳が妖しく輝く。
……本気だ。
本気でフィリスが折れなければ戦争をするつもりだ。
アズールがくいっと空に視線を向ける。
「僕の空中戦艦、アラン=ウェズールも行方を見守っているよ」
リディアル帝国を世界最強の帝国に押し上げた要因。
アズールの設計した空飛ぶ巨大船が雲の切れ間から姿を見せていた。
それは白亜の超巨大帆船だ。城が浮かんでいるような代物だった。
大砲は50門を超え、都市ひとつを焼き尽くす火力を持っている。
もし戦争になったら、フィリスはこの場で死ぬ。
魔術師としてのアズールも、ひとつの騎士団をたやすく壊滅させるほどのはず。
敵対する国々からは笑う死神、戦場の悪魔とも言われる彼だ。
さらにリディアル帝国の旗艦までいたら交渉にもならない。
結果は見えていた。
「殿下、我々ではとても勝てません!」
「そうです! ここは一旦、彼女を引き渡すしか……」
フィリスの後方に控える兵が口々に進言する。
元を辿れば、私が婚約破棄して自由になりたい想いから端を発したこの事件。
そんなことで兵も無様に死にたくはない。
「うっ、ぐっ……!!」
顔は見えないけれど、フィリスがうめいているのが聞こえる。
私を手放すということがどれほどの損失か。
いまになってようやく思い知っている。
「この馬鹿息子が! 何を迷うことがあるか!」
「――え?」
群衆をかき分けて怒声を張りながら出てきたのは、曲がった背筋を極力伸ばし、白髪をまとめた小柄な御老人だった。
でもその姿を見間違えるはずがない。
我が国王陛下、フィリスの父であるランデーリ4世だ。
「アズール陛下のお慈悲をなんと心得る! とんでもない大馬鹿者めが!」
「父上っ!?」
「まったく……裏でポーションを独占していて私腹を肥やしていたかと思えば、こんな騒ぎになるとは……!!」
ランデーリ4世はちょっと頑固だけど、物がわかって公平な人のはず。
フィリスの横領を快く思うはずがない。
小説で知っている通りの反応だった。
「フィリス! アズール陛下に返事をせい!」
「は、はい……! うっ、わかりました……!! ソフィーの身柄はお引渡しいたします!」」
「ああ、良かった! これで戦争は回避だね。ふぅ、一安心だ!」
こんな修羅場で、いけしゃあしゃあとアズールは笑って言ってのけた。
役者が違う。
で、ランデーリ4世はまだ怒り心頭のようだけど……。
「今までは王太子として大目に見てきたが、もう我慢ならん!」
あれ? この流れは原作小説でも見た気がする。
フィリスがやらかして、陛下がキレて……。
「フィリス! 今、この時をもってお前を王太子より除き、廃嫡とする!」
「そ、そんな! 父上!」
「黙れい! 長年の同盟者であるアズール陛下への不始末、それにソフィー嬢への背信も重罪だ!
一から出直せ!」
「……っ!!」
「加えてそれに加担した娘、クーデリアよ」
「は、はいっ……!!」
あー、クーデリアがガタガタと震えている。
自業自得なんだけど。
「貴様の罪も重い。辺境の修道院で、死ぬまで修行に励むがよかろう!」
「い、いやぁ……! それだけは……!!」
「許さぬ! 打首にならぬだけでもありがたいと思えい!」
フィリスとクーデリアが地面に伏しながら頭を抱えて、うずくまる。
フィリスには出来の良い弟と姉妹がいるからね。
私という籠の鳥を失えば、長男なだけの彼に価値はない。
「ふふっ、ちょっと待った甲斐があったねぇ」
「……まさか、これもあなたが?」
「こんな虹色の煙を出せば、この都にいる誰だって気付くよ。ついでに僕がここに来ていることは、ランデーリ4世もご存じのはずだからね」
呆れた。一体、どこまで見通しているのやら。
「さぁ、この痴れ者どもを連れ出せ!」
「ははっ!!」
ランデーリ4世の号令一下、兵たちが絶望しきったフィリスとクーデリアを連行していった。
残されたのはランデーリ4世とアズール、そして私だけだった。
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