◆ 第六章 王太子はお飾り寵妃を溺愛する(3)
錦鷹団の補佐官の仕事はベアトリスの性格にはとても合っていたけれど、それとこれとは話が別だ。
ベアトリスがその場を立ち去ろうとしたそのとき、ブルーノがベアトリスの左手首を掴んだ。
「待って! アルフレッド殿下は正妃を迎えられるともっぱらの噂だ。ベアトリスは、それでいいのか?」
「なんですって?」
ベアトリスは目を眇める。そんな話は初耳だった。
(もしかして、セリーク公爵令嬢?)
頻回に会っているという噂も聞いたし、それ以外の相手は考えられない。
これまでは婚約者候補が次々と不慮の事故に見舞われて話が流れていたが、その心配がなくなったので正妃を迎えることにしたのだろうか。
ベアトリスは右手を胸に当てる。
ズキッと痛みを感じたが、それを無視してブルーノを見つめた。
「それがなんだって言うの? あなたには何も関係ないことだわ」
「ベアトリス! 俺は……」
「ブルーノ様。わたくしはもう、あなたの婚約者ではありません」
ベアトリスは左手を振り、掴んでいるブルーノの手を振り払う。
「さようなら」
ブルーノの顔に、絶望の色が浮かんだ。
ベアトリスはくるりと向きを変え、離宮のほうへと歩き始める。
「ベアティ」
足早に庭園の小道を歩いていると、自分に呼びかける声がした。
「え?」
ハッとして声のほうを見ると、木に背を預けてジャンが立っていた。
「団長。どうしてここに?」
そう聞いたけれど、すぐにサミュエルから話を聞いたのだろうと気付いた。ブルーノから来た手紙を開けたとき、彼の側近であるサミュエルも一緒に内容を見たのだから。
「大丈夫か?」
「大丈夫? それは、わたくしが傷ついていないかという意味ですか?」
ベアトリスは自嘲気味に笑う。
ジャンはきっと、少し離れた場所からベアトリスとブルーノの様子を全部見ていたのだろう。魔道具を使って会話の内容も聞いていたかもしれない。
「大丈夫ですわ。だって、とっくのとうに終わったことですもの」
「そうか」
ジャンがふっと笑う。
「気分転換に、少し散歩でもしていくか? 温室ではバラが見頃を迎えているようだ」
「いいのですか?」
「ああ」
ジャンは軽く頷くと、歩き始める。ベアトリスは慌ててそのあとを追った。
「わあ、綺麗……」
王宮の庭園の一角に温室があることは知っていたが、今まで一度も入ったことがなかった。
初めて足を踏み入れたバラ園には、色とりどりのバラが咲き乱れていた。ベアトリスは黄色のバラに顔を寄せる。ほのかにフローラルな香りが鼻孔をくすぐる。
(いい匂い)
バラの匂いは好きだ。この香りに包まれるだけで、優雅な気分になれるから。
まだ両親が健在だった頃、家族でバラ園に出かけたのはいい思い出だ。
「次々と花に顔を寄せて、まるでミツバチのようだな」
「だ、誰がミツバチですか!」
人を虫に例えるだなんて!
恥ずかしくなって顔を赤くしたベアトリスがすかさず言い返すと、ジャンはくくっと肩を揺らした。
「冗談だ。好きなだけ嗅ぐといい。ここには俺達しか来ない。王族専用だからな」
意外なことに、その表情は優しげだった。
いつものように意地悪な顔をしていると思っていたので、調子を狂わされる。