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「あら、これ教会に忘れてきた⋯⋯」
「はい。神官様が届けに来ていただいたようで」
「それで、神官様は?」
「そのまま帰るとおっしゃっていたのですが、お嬢様もご挨拶されたいかと思いまして。
今は応接間でお待ちいただいております」
「そう、サラありがとう」
自室で本を読んでいると、サラが私に一声かけて入室した。その手には前回教会に行った際に被っていた帽子を持っていた。
子供たちと外を散歩した後、部屋のテーブルに置いたまま忘れてきてしまっていた。
神官様には《帽子を忘れてしまったので次回訪問した時まで置いておいてほしい》と手紙に書いた。
だが、神官様はわざわざ届けに来てくれたようだ。
私は読んでいた本に栞を挟み、神官様の待っている応接間にサラと共に向かった。
「お待ちいただきまして申し訳ありません」
応接間に入ると、神官様は椅子には座らず窓際から庭園を眺めていた。
そして、こちらに気づくと穏やかな微笑みを浮かべ、体を私の方へと向けてひとつ礼をした。
「どうぞ、お掛けください」
「ありがとうございます」
神官様とテーブルに向き合うように座ると、すかさずポットとカップが載ったワゴンを運んできた侍女がお茶の準備をする。
「わざわざお持ちいただいてありがとうございます。
ご迷惑お掛けしてしまって、本当に申し訳ありません」
「いえ、たまたま領主館近くに用事があったものですから。
しかも、貴方の顔まで見られたのですから役得ですよ」
「そんな⋯⋯」
柔かな笑みを浮かべる神官様は、私が申し訳なさそうにするのを笑顔で流してくれる。
本当に優しい人だわ。
「そういえば、子供たちの為に色々と尽力いただいてるようで⋯⋯ありがとうございます」
「いえ、まだ両親と話し合っている段階ですので何もお約束出来ることはないのです。
それに、マルセル領全体での教育の在り方を見直すことは、この領にとっても良いことかと思いますので」
そう、孤児院の子供たちと関わり、神官様からの助言を聞くことで、教育をもっと充実出来ないかと考えた。
今現在、領内には十歳から十四歳が通える学校はある。だが、その学校へ通うのにもお金がかかる為に実際に通うのは文字や計算が必要となる商人の子供などが殆どだ。
そのため、孤児たちは特出した能力が無ければ給金の低い職に就く他ない。
結果、家庭を持ったとしても貧民層となる可能性が高い。
しかし、《未来ある子供》と言った神官様の言葉、その言葉は私にとって大きな言葉だった。
生まれた環境は無理でも、チャンスは可能な限り与えてあげられないだろうか。
私がやり直すチャンスを貰ったように、どの子にも自分の力で変えられる力を持ってほしい。
その為には、力をつけなければいけない。騎士や魔術師は努力も最大限に必要であるが元々の素質がなければ、そもそもが弾かれる。
だが、学問は違う。知ること、学ぶことで世界を広げ、それによって新たな道を自ら作り出すことが可能となるだろう。
そうは言っても、財源が無限にある訳でもない。
夢物語で終わる可能性さえある。だが、それでも何かが出来ないかと模索し、もがく事で未来は開かれるのではないか。
「私にはまだ何も力がないです。それが悔しく、歯痒く思います。
ですが、神官様が道を示してくれたお陰で一歩踏み出す事が出来たのです」
「いえ、それは元々あなたが持っていたものでしょう。踏み出したのは、あなたの勇気ですよ」
私の言葉に耳を傾け、否定せずにいつでも穏やかに答えてくれる神官様。
私はふぅっと一つ息を吐き出した。
「いえ、まだまだ臆病者です。
本当はまずしなくてはならないことがあるんです。でも、怖くて⋯⋯前に出す足が震えます」
この神官様と居ると、不思議と自分の気持ちを素直に曝け出してしまう。
自分の弱さや不安など人にはとても話せないことなのに、受け入れてくれる安心感につい言葉に出してしまう。
きっと彼ならどんな話でも優しい顔で聞いてくれるだろう。そう思わせる何かを持っている。
この人の周りは、まるで湖のような穏やかな波だ。
静かに、優しく包まれる波のようだ。
「それでも、進むのでしょう?」
「⋯⋯はい」
そして、ただただ甘やかす訳ではない。
私の気持ちなど見透かしたような優しげな紫の瞳は、その言葉に少しだけ揺れた。
「この間、言いましたよね。
あなたのいる場所は居心地が良いと」
「はい」
「きっと、私は元々弱い人間なのです。祖父や親兄弟が神官だから神官になった。志も何もなく神官を目指した流されるだけの人間です」
「弱いなどと⋯⋯」
流されるだけの人間⋯⋯。
神官様の言葉に違和感を感じる。
彼は思いやりに溢れた優しい人だと感じる。
穏やかな彼はとても芯がまっすぐしているように見える。
とても流されてこの神官という立場にいるようには思えない。
それに、ご家族が皆神官だったとは。
初めて聞く神官様の事情に私は少なからず驚きもあった。
教会でも沢山の人に慕われ一人一人と真っ直ぐ向き合う姿に、多くの人が救われていることだろう。
だが、誰もがそうであるように、彼もまた表に見せないだけで沢山のことに悩み続けているのかもしれない。
それでも、人に寄り添い、困った人にすぐに手を差し伸べられる。派手なことではないが、それがいざ出来るかと言ったらそうではないと思う。
目の前の神官様は、目蓋を一度閉じてから開ける。
その目はどこか遠くを見るようにジッと前を見ている。
「いえ、私は初めから抗うなど考えもしませんでした。
あなたは元々強いようには見えません⋯⋯だからといって決して流される訳ではない。初めはそれが不思議でした」
「⋯⋯はい」
「私は変わることが出来ません。でも、あなたは違います。
これからあなたはどうなっていくのか、その姿を見ていたくなるのです。
⋯⋯だからこそ、惹かれるのでしょうね」
初めて聞く弱音のような言葉だ。
だが、最後の言葉は小さな呟きだった。そのため、どのような呟きをしたのか私には聞き取れなかった。
聞き返そうとする私に、神官様は「私の事情は忘れてください」と恥ずかしそうに笑って話を終わらせるようにっこりを笑みを作った。
神官様のそれ以上踏み込めない雰囲気に、私もただ黙って微笑み返すしかなかった。
そろそろ子供たちが待っているから、と席を立つ神官様に慌てて玄関先まで見送ることを伝える。
共に玄関ホールまで来ると、神官様がある一点をじっと見つめていることに気づいた。
「どうされました?」
「あっ、いえ」
私の声に驚いたようにハッと振り向くと、神官様は花瓶に入った花を指さした。
「祖母の好きな花でしたので。先程家族のことを思い出したので、どうしているかと懐かしくなりまして」
「まぁ、そうなのですね。お祖母様には暫くお会いになっていないのですか?」
「はい、神学校を卒業して家を出てからはなかなか家にも帰る機会がなくて」
「そうなのですか。お祖母様もきっと今の立派なお姿を見たら喜びますね」
「そうだといいのですが。
また手紙を送ろうかと思います」
照れ笑いを浮かべる神官様に、微笑ましく感じる。
きっと神官様のご家族も、神官様のように優しく愛に溢れた家庭なのだろうと想像する。
そして、「また教会でお待ちしておりますね」という言葉を残して去っていく姿を見送った。
『ニャー』
神官様が去った直後に、待ち構えていたかのように後ろから声が聞こえる。
振り返ると、口まわりに菓子のクズが付いているクロが近づいてきた。近づくクロを抱き上げ、口元のクズを払うとクロは嫌がるように首を左右に振る。
「またお菓子を食べてたのね」
ついクス、と笑いが漏れる。
その姿も可愛らしいのだけれど。
そこへ「お嬢様!」と慌てながら近づくサラの声が聞こえた。
「サラ、どうかしたの?」
「たっ、大変です!」
サラは私の前まで来ると、手紙を差し出した。
サラは緊迫した焦ったような様子を見せており、周囲を見渡すと使用人たちも慌てたように何かを準備し始めている。
なに?
なにかあった?
この状況の唯ならぬ雰囲気に、ついクロを抱いていた腕の力が少しだけ強まってしまう。
すると、クロは『ニャッ』と嫌がるように腕の中をジタバタとし、ピョンと腕から降りて走り去ってしまう。
「何かあったの?」
「先程、殿下の遣いが参りました。
殿下がこちらに向かっていると。しかも、そろそろ着くかも⋯⋯と」
は?
殿下が?
つい一週間前にテオドール様が帰ったと思ったら、今度は殿下?
えっ、何が起きてるの。
頭の中で何故、しか浮かばない。
サラに何度も部屋に戻って着替えるよう伝えられるが、思考が停止している頭ではサラの声も耳から耳へと通り過ぎてしまう。
そして、背中を軽く押されてようやく動き始めることが出来た。
その頃、屋敷の前では。
神官様が屋敷から出ていく後ろ姿を、馬上で茫然と見つめる人影が。
だが、屋敷の中で混乱中の私は、その人影に全く気づきもしなかった。