97 王太子視点
窓から差し込む西日の眩しさに意識が浮上し、目を開ける。
すると、私の視界にはソファーに体を預ける形で目を閉じているラシェルの姿があった。
ラシェルを起こさないように、彼女の膝から静かに体を起こして体勢を整えると、胸元から懐中時計を取り出して時間を確認する。
どうやら、一時間程眠ってしまっていたようだ。
それにしても、自分でも驚くぐらいに熟睡していたように思う。体も軽くなった気がする。
それだけ疲れていたのかもしれないが。それよりも、安心感というのだろうか。こんなにも穏やかな目覚めは経験がない。
きっと、ラシェルのお陰なのだろうな。
ソファーの背もたれに肘をついて、彼女の寝顔を見眺めるだけで胸に温かな風が吹き抜けて、頬が緩んでしまう。
寝顔は何度か眺めたことがあるが……それでも、いつまでも見ていたくなる程可愛らしい。
起きている時にコロコロと変わる表情も可愛らしいが、猫のような瞳を閉じて安心しきった表情で眠られると、それはそれで愛しさがとめどなく溢れる。
思わず身を乗り出して彼女の瞼に唇を優しく落とす。
普段であれば、真っ赤になって慌てるラシェルも、今は静かに眠るだけ。
――やっぱり、このまま城に持ち帰りたいな。
彼女の顔を覗き込むと、愛しさと同時に一秒、一分でも離れたくないという思いが沸き上がる。彼女と結婚したら、毎日のようにこの寝顔を見ることが出来ると考えるだけで、今すぐにでもそんな日常が来ないかと待ちわびてしまう。
「ん……」
その時、ラシェルの眉間に皺が寄り、彼女の口から声が漏れる。と同時に目が覚めたのか、眩しそうに目を何度もパチパチと開け閉めした後、瞳が左右に揺れて徐々に視点が定まったのか私の方に視線を向けた。
「で、殿下。申し訳ありません……。起こすと言っておきながら、私まで寝てしまうとは」
「いいんだ。良く寝られたよ。ありがとう、ラシェル」
「……いえ。殿下が少しでも休めたのなら良かったです」
眠ってしまったことが恥ずかしかったのか、ラシェルは薄っすらと頬を染める。
そして私の言葉に嬉しそうに目を細めて優しい笑みを浮かべた。
そんな可愛らしい顔を向けられると、我慢していた感情が抑えることが出来ずに、ラシェルに向かって笑みを向ける。
「ラシェル、このまま一緒に暮らそうか」
「で、殿下……何を仰るのですか」
「順調に事が進んで、ラシェルが卒業した後に準備期間を1年と考えると……最短でもあと2年か。
それまでラシェルを連れ去らないか自分が心配だよ」
「またそのようなことを」
軽口のような口調で言っているが、今の言葉は間違いなく私の本心だ。
それでも冗談と受け取ったのか、ラシェルは唇に手を当ててクスクスと笑みを溢す。
「いいよ、今は冗談と受け取っても。
……でも、ラシェルもちゃんと覚悟しておいて」
「覚悟? 何のでしょうか?」
「私に愛される覚悟」
「なっ……」
ラシェルの瞳を射貫くように熱い視線を向けると、ラシェルは可愛らしく頬を真っ赤に染める。そして両手を頬に当てて顔を隠すかのように俯くが、その表情も可愛らしいだけだと気がついてないのは本人だけなのだろうな。
そんなラシェルを愛でていると、ふと俯いたラシェルの表情が暗くなるのを感じる。
「どうかした?」
「……いえ、殿下とのそんな未来が……本当に来るといいな、とそう思ったまでです」
「ラシェル。大丈夫だよ、きっと上手くいく。その為に、君も頑張ってくれているのだから」
不安がないといえば嘘になる。
それでも、その未来を私は願うのではなく、叶えるのだという決意がある。
だからこそ、ラシェルを安心させるように微笑む。
するとラシェルは嬉しそうに目を細めて一度頷いた後、私の方へと強い視線を向けた。
――ラシェルの表情が変わった? ……何か、大事な話があるということだろうか。
「殿下。実は、お願いがあります」
「君の願いは何でも叶えてあげたいけど、どんな内容かな?」
「……はい。あの、もう一度……もう一度ブスケ領とミリシエ領の間の森に行きたいのです」
「あの森? 何かありそうなのか?」
「はい。もしかすると私の魔力が失われた原因に繋がるものがあの森にあるのではないかと……そう感じて。だからこそ、あそこにもう一度行く必要があると思うのです。何かに呼ばれている……そんな気がして」
……呼ばれている、か。
確かあそこはこの国にも数か所ある神秘の森と呼ばれる森のひとつだ。
精霊による何らかの干渉があると考えて間違いないだろう。
だが、もう一度行くとなると……シャントルイユ修道院やヒギンズ家の問題など全てを片付けてからの方がいいだろう。今回ラシェルが無事に戻ってこられたとはいえ、危険に晒されたのは事実なのだ。
もう二度とそのような事態を起こすことは出来ない。
それにラシェルがその場に行くことのそれ相応の理由付けも必要だ。
「なるほど。そこまでラシェルが言うのなら、そうなのだろう」
ラシェルがここまで確信を持っていることを考えると、あの場には本当に何かがあるのかもしれない。
……となると。
「テオドールを同行させるか」
「テオドール様ですか……な、何故」
ポツリと呟いた声にラシェルは肩を揺らせて驚愕したように私を見た。それに驚いたのは私の方で、何故ラシェルがそうまでテオドールに反応するのかが分からない。
「テオドール様はお忙しいのでは……」
「魔力や精霊に関しては、テオドールが適任だろう。それに、魔術師団の仕事から元々近いうちにテオドールをブスケ領の方に向かわせる予定だったんだ」
「……そうなのですね」
「でも、まずは王都でゆっくりすること。
あとは、卒業パーティーに私と一緒に参加することが先だよ」
私の言葉に、ラシェルはキョトンとした顔をこちらに向けた。
この反応を見ると、3学年である私がもう卒業を迎えることに気がつかなかったという反応だな。
まぁ、ラシェルはこの所色んな事があったのだから卒業の時期を失念していても仕方が無い。
とはいえ、もう学園で一緒に過ごすことが出来なくなることを寂しく感じている自分としては、若干切ない気もしなくもない。
「……あの、忘れていたわけでは……」
「いいよ、分かっている。その代わり、一緒に出席してくれるね?」
「私が公に殿下の婚約者として行動しても大丈夫なのでしょうか?」
「陛下のことか? それなら大丈夫だよ。陛下と話して、ラシェルをそのまま婚約者とすることに同意は得ているからね」
期限があることは、とりあえずは伏せた方がいいだろう。
今はラシェルにあまり負担を掛け過ぎたくはない。
それよりも、今は少しでもラシェルと一緒にいたい。
そして学生最後の思い出を一緒に作りたいという気持ちが大きかった。
「では、よろしくお願いします」
私の気持ちを知ってか知らずか、ラシェルは顔を綻ばせて私に向かって笑う。
その笑顔に私がどれほど勇気づけられているか、ラシェルは知らないだろう。
それでもいい。
その笑顔を増やして守る事。
それが出来る自分でありたいと思う事こそが、何よりも力をくれるのだから。
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