【映画化】元禄世ミリオン忠臣蔵~47万人の赤穂浪士~
時は江戸時代、元禄15年(1702年)、11月。
浅野内匠頭が江戸城内にて吉良上野介へと刃傷事件を起こして一年。
亡き藩主の遺恨を晴らすべく、江戸城下には赤穂の遺臣を名乗る者たちが集結していた────
「上様! 吉良上野介を討ち果たさんと集まってきた、赤穂浪士と名乗る者たちが江戸の街を騒がせているようでございます!」
幕府側用人として将軍徳川綱吉から絶大な信頼を受けている柳沢吉保がそう報告を上げた。
彼の家来には赤穂浪士を密かに支援している者もいて、情報を得るために吉保も黙認していたのだ。
鬱陶しそうに徳川五代将軍綱吉は言葉を返す。
「幕府の裁定を是とせぬ輩どもめ……それで? 何人ぐらいだ?」
「正確には不明ですが、現在、江戸市中に47万人ほどおります」
「47万!?」
綱吉はのけぞって耳を疑った。
赤穂浪士、47万人が出現したのである!
******
「待て待て待て待て……」
綱吉は凄まじい渋面を浮かべながら、なにかの間違いだろうと問いただしてきた。
「47万人?」
「はい」
「赤穂浪士と名乗る輩だけで」
「そうなります」
「江戸の人口、何人だったかのう?」
「赤穂浪士も含めてでございますか?」
「赤穂浪士は含めなくて、だ」
柳沢吉保は考え込む仕草を見せた。そちらも正確な数字はわからないのだ。なにせ幕府が江戸の人口調査を行ったのは、これより20年先の未来、徳川吉宗の治世になってからが初であったのだ。
ちなみにその時は町人だけで53万人。また、江戸は武士の数が非常に多く、戸籍を持たぬ下層民もいるために全体としては100万人ほどだと考えられる。
つまりこの元禄の頃も、それよりは少なかっただろうが、
「70から80万人ぐらいでしょうか」
「だよな。その半分以上の人数の? 浪人が? 江戸に?」
「来ております」
「関ヶ原の戦いって何人ぐらい参戦したっけ」
「東軍西軍合わせて15万人と言われておりますな」
「その3倍以上の浪人が? 江戸に?」
「来ております」
柳沢吉保は真面目な顔で再度頷いた。
ちなみに当時、日本全体の人口は──諸説あるが──3000万人前後である。
全人口の1%以上が浪人となって集まっているのだ。綱吉は渋面を作って訊き直した。
「嘘であろう?」
「本当でございます」
「……誰ぞ、輝貞を呼べ!」
綱吉は大声を上げるともう一人の側用人、松平輝貞を呼びつけた。
「は。上様。いかがなされましたか」
「輝貞よ、吉保がなにか、少々おかしなことを言い出してな」
「なんと」
「江戸に赤穂浪士が47万人も集まっておるとか……47人の間違いでは?」
「はっ上様。それは間違いなく47万人でございます。町奉行の方で頑張って数えた報告が上がっております故」
※大変な作業だった。
「つまり……本当に? 47万人?」
「はい。各方面から苦情や意見の陳情が大量に来ておりまして……今、老中の方々が集まり対策会議を。拙者はそちらに顔を出して参ります」
そう言って一礼し、輝貞はまた去っていった。
綱吉は頭を抱えた。二人の信用する側用人から謀られていない限りは、どうやら江戸の人口がいきなり47万人も増えたのだという。
しかも浪人……即ち、戦う能力を持った武士が。おまけに幕府への裁定を不服としている反幕府集団である。
「旗本八万騎というが……徳川の禄を受けた武士は何人おったかのう?」
綱吉の質問に吉保が頷き応える。
「八万はおりませんな。旗本が5000人ぐらい、上様とのお目見えも叶わぬ下級の御家人が1万5000人ぐらいではないでしょうか」
「えっ、じゃあ47万人の浪人がいきなり江戸城に攻め込んできたら?」
「……かの楠木正成公は千早城にて、200万人の敵に攻め込まれても奮戦したといいますから、それよりはマシかと」
「負けただろ! そこで! 楠木正成公は! そして太平記の記述なんかアテになるか!」
※太平記は時々十~百倍ぐらい兵数を盛ることがある。
日本において一つの戦場で47万人が実際に集結したことなどないだろう。
日本中の大名から戦力を集結させた豊臣秀吉の小田原征伐で28万人ほど、徳川家康の大阪冬の陣で30万人ほどだと言われている。
だというのに赤穂47万浪士!
コミックマーケットで東京ビッグサイトに集まる人数ですら一日あたり10万人から20万人の間なのに47万人が常駐である。
「ま、まずそもそも……赤穂藩にそんなに人数おらんだろ!?」
「小藩にございますからね」
赤穂藩は5万3000石の石高を持つ藩である。
塩田にて近年は儲けているので実質の石高は8万か9万ぐらいはあったろうが、大大名とは言えない。
柳沢吉保が概算して人口を推定する。
「まあ、農民も合わせて4万人前後の人口かと」
ちなみに明治時代に人口調査をした際には3万5000人ほどであったようだが、元禄期が最も赤穂藩が栄えて人が多かったとされる。
余談だが現代では赤穂市は4万3000人ほどだ。
「武士階級の人間は足軽を合わせても500人程度でしょう」
「じゃあ残りの46万9500人はどこから湧いて出たのだ!?」
「恐らくですが……赤穂浪士の憤りに賛同、或いは便乗した全国の浪人が加わったのではないでしょうか」
「便乗しすぎだろ! 一つの大藩が作れる人数が集まっとるぞ! それに思ったより社会派な理由だな!」
実のところ徳川家光の頃から幕府では諸藩に対する取り潰し、改易がしょっちゅう行われており、日本全国で職を失った浪人が溢れかえっていた。
その人数は50万とも言われていて、確かにそれらが集結すれば47万の浪士も可能性としてはゼロではない。
まったく赤穂藩と繋がりのない浪人が赤穂浪士になれるのかというと、例えば赤穂浪士の中でも有名な堀部安兵衛などは元々越後新発田藩の生まれな浪人で関係なかったものの養子という繋がりで赤穂浪士になったのだから、そこらの浪人とてなにかしら後付けで関係を持てるのだ。
大量の浪人が集まっている、という情報で綱吉は嫌な汗を背中に掻きながら側用人たちに相談をした。
「……というか下手をすると、『慶安事件』が実現してしまうのではないか?」
「非常に危険な状態と言えましょうなあ」
「呑気に言っておる場合か!?」
「止める間もなく、ここ一月ほどでいきなり集結したのでございます」
慶安事件、とは由比正雪の乱という名の方が有名かもしれないが、これより50年ほど昔に幕府を揺るがしかねなかった大事件である。
日本中に溢れかえった浪人の救済を求め、その原因である幕府を転覆させてしまおうという危険な計画だった。
集まった浪人たちは江戸城に火を放ち、幕臣らを次々に抹殺し、徳川将軍を人質にとる。更には朝廷へも襲撃して天皇を攫って勅命を出させ新たな政府を作りだそうという、正当性がヤバい感じで正気を疑うような恐るべきプランなのだ。
これは事前に密告があったことで主要人物を片っ端から捕まえて計画を頓挫させることに成功したのだが、既に47万人も集まった浪人たちが相手では、彼らが力押しで江戸城へと攻め込んでくるだけで勝ち目はない。まだ幕府側は戦の準備もしていないのだ。
「そやつらの目的はどっちだ!? 幕府か、吉良か!」
「聞き取り調査をしたところ、浅野内匠頭の遺恨を晴らすべく、吉良上野介殿を討ち取りたいのだとか」
「じゃあ早く討ち取って解散しろよ! いっそ今日にでも!」
47万人どころか1000人ぐらい集まれば、吉良邸を襲撃して容易くその首を取れるに違いない。
現在吉良は本所松坂町にある屋敷に隠居しており、邸内に足軽屋敷を持つがその兵数は200ほどだろう。
城攻めでもないのだ。数倍の人数でかかれば一溜まりもない。
だというのにどういうわけか、赤穂浪士側は2000倍以上の人数を集めて江戸に潜ませ、虎視眈々とその動向を探っているのである。
江戸市中では二人に一人が赤穂浪士という異常な事態になっているのだ。
「下手に今更取り締まるなどをしたら、赤穂浪士たちの怒りが幕府に向かいかねません」
「くそう……待て。その47万人、江戸でどう暮らしておるのだ?」
「彼らとて人間。飯を食わねば生きていけませぬが故に米を買い漁っているようですが……米の備蓄が急速になくなりつつあり、米の値段が釣り上がっております」
「いきなり人口が47万も増えればそうもなろう……!」
綱吉が歯噛みしながら頭の中で数字を出そうとする。彼は生類憐れみの令や寺社への献金などで浪費家な一面があるが、実のところそれなりに数字に強い男だった。幕府の財政を見極めた上でギリギリのラインで攻めて浪費しまくっていたのだ。迷惑なことに。
大雑把に計算してみよう。副食物を考慮せず、成人男性が米を1日に5合食べる(江戸時代はそれぐらい食べた)として、5☓47万で235万合。
となれば2350石となる。1両をざっと10万円とした際に、元禄13年に制定した幕府公式価格として1石あたり1.24両なので12万4000円。
1日あたり2914両(2億9140万円)の食費が掛かる! 米代だけで! 毎日!
値段だけではなく量も問題になってくる。江戸市中とてコメ余りというわけではないのだ。いきなり消費が拡大されれば備蓄も少なくなり、そうなれば他所から江戸へと運び込む必要が出てくる。
米5合の重さは約750グラム。750☓47万は3億5250万グラム……35万2500キログラム……352.5トン。10トントラック35台で毎日米をピストン輸送しなければ江戸の米備蓄はどんどんなくなっていく。
食べるだけではなく出す方も問題だ。成人男性が1日200グラムのウンコをするとしたら94トンものウンコがひり出されることになる。
江戸のトイレを汲み取りしていた業者とて、突然1.5倍も押し付けられてはたまらない。
いや、トイレの数も急に人口が町人地のみなら倍になることを考慮されていないだろう。そこらの路上で排泄をする者も少なくない。そうなれば悪臭、疫病の元となる。
更には、これらの危惧は集まった浪人たちが、礼儀正しく問題を起こしていない、という過程での話である。
素直に代金を払ってくれているのならばむしろ景気がよくなるかもしれないが。
綱吉はなるべく聞きたくないという雰囲気を出しながら吉保に聞かざるを得なかった。
「その……赤穂浪士による市中での乱暴狼藉などの報告は……」
「やたら上がっております」
「だよな!?」
急速に増えた人口が、商人であったり、職人であったり、なにかしら手に職を持って自ら生産活動を行う集団ならまだマシであった。
だが集まったのは浪人。元武士である。
勿論、武士が働けないということはない。中には呉服屋を営んだり、剣術道場を開いたりといった仕事を江戸で始めた者もいる。
しかしながら器用な者ばかりではなく、少々あらごとに覚えがあるだけで、仇討ちという名誉に参加してパッと一花咲かせたいだけの浪人が殆どであった。
仕事をしなければ金がなく、金がなければ飯は食えない。
一食二食程度ならば、仇討ちのために支援をと呼びかければ集まるかもしれないが、人数が桁違いなのだ。おまけに、いつ仇討ちをするかも分からず、毎日毎日食事は必要となる。
となれば少々、町人や商人の家から食料を強請って調達する者が現れるのもやむを得ない話だ。
「しょっぴけ! そんな不届き者は!」
「それが町方の手が足りず……市中見廻りをする同心は100人あまり、相手は47万人ですからなあ……」
「多すぎる! ふざけておるのか!」
「ついでに小伝馬町の牢屋敷も赤穂浪士が既に1500人ぐらい入ってもう座る場所もなくギュウギュウだとか」
江戸で未決囚を入れる牢屋敷であるのだが、平時では収容人数が400人ほど。一番多い時期で900人で、寝る場所もなかったと言われる。
もう1500人となれば満員電車状態である。赤穂浪士の100分の1も収容していないというのに。
物理的に不逞の赤穂浪士をこれ以上捕まえることは不可能な状況であった。江戸の多数派はもはや町人でも武士でもなく、赤穂浪士になっているのだ。
「あとあまり過激に弾圧をすると、47万の矛先が幕府に向くことも……」
「くうう~……」
赤穂浪士の復讐の原因は「幕府が正しい裁定を行わなかった」ということが結構大きなウェイトを占めている。
少なくとも、喧嘩両成敗ということで浅野と共に吉良を切腹させるなどをすれば赤穂浪士も討ち入りをしなかったかもしれない。
だが綱吉としてはどう考えても朝廷からの使者を迎え入れる大事な日に、殿中で狼藉を起こした浅野は死罪以外考えられなかったし、肝心の浅野が吉良へと切りかかった理由を問われても語らなかったのだ。
嘘でもなんでもいいので適当な理由をいうのならまだしも、「よくわからんけど両成敗で吉良家当主も死刑」という判決を下すわけにはいかなかった。名門である吉良家には親類も多く、ただでさえ改易が続く綱吉の治世なのに、そんな理由で死刑にしていては猛反発を受けただろう。
「こうなっては……一刻も早く、吉良上野介が赤穂浪士に討ち取られて解散してくれるのを祈るしかないのう」
「集まった赤穂浪士を無罪放免……というのもいかがなものでしょうか。なにせ江戸市中で、十万単位の軍事行動を行い、幕臣を討ち取るわけでございますから」
「十万単位の人数が市中で起こす狼藉を取り締まる法の前例が存在せぬし、きっとこれからも多分ないだろうが……基本的に幕府の沙汰に逆らった不届き者ということで死罪なのだが」
「47万人が従ってくれるでしょうか……」
不当だ!と暴れ出しては止められない人数である。少なくとも、江戸に集まる諸藩全員の武士を駆り出さなくては同等の数は揃えられない。
従ってくれるならまだしも、現在の将軍として綱吉の人気は民からも武士からもどん底に近い。犬を保護させて莫大な臨時税を取り立てていることもあるからだ。
下手をすれば、暴れだす赤穂浪士側について幕府転覆を狙ってくる危険性も大いにあった。
「かといって無罪にしたらどうなる?」
「赤穂浪士たちをどこかの藩が雇ってくれるならまだしもあの人数ですからな……」
一番裕福な加賀百万石の金沢藩とて、武士の数は2万5000人ほど。これでも他の藩に比べると驚異的な大人数なのだが、百万石の金沢藩が10あっても雇うに足りない浪人が江戸に溢れ返るのだ。仇討ちという目的を無くした上で。
俗に言うサンピン侍、年に三両一分の最低レベルの賃金で彼ら全員を雇ったとしても必要となるのは年間150万両(1500億円)を超える給金。幕府の年間収入に匹敵する。税金使って犬を保護しようどころの話ではない。
そもそも諸藩と幕府の武士すべてを合計しても200万人ぐらいしか居ないのだ。(足軽身分も含む)ここに追加で47万人を組み込むのは無理がある。
誰も雇わないというのならば彼らは現状のまま江戸市中にたむろし、毎日3000両あまりの物資を食いつぶしていくだろう。
「いっそ、赤穂藩を再興させて全部押し付けるか……」
「しかし、浪人集団の武力的な威圧によって藩を作ってやったという悪しき前例で幕府の威信が……」
「このまま放置しておってもあちこちから不満が出るだろう」
「三奉行の仕事が赤穂浪士対策で麻痺しているようです」
「おのれ……焼き味噌っ!(徳川家に伝わる汚らしい意味を持つスラング) 最低でも赤穂浪士どもに罰として江戸払いは命じるから、とにかく早く行動を起こしてくれ!」
そう言って綱吉は天を仰いで嘆くのであった。
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47万の赤穂浪士によって江戸がとんでもないことになっている今、11月頃は大石内蔵助が京都より、赤穂浪士の本隊を連れてとうとう江戸に到着した頃合いであった。
それで一気に江戸市中に赤穂浪士が膨れ上がったのである。
大石内蔵助が赤穂浪士のリーダーであったのは彼らの活動資金を分配していたこともあるのだが、彼の予想の一万倍に膨れ上がった赤穂浪士の活動費は尋常ではなかった。
浅野内匠頭の妻である瑤泉院へと『金銀請払帳』という借用書を提出していたことは有名だが、こうあった。
「同士への生活扶助費 42万両」
瑤泉院(巨乳美女である)はのけぞった。ちなみに江戸城大奥の諸経費が、年間で20万両ぐらいだ。それの倍以上である。
幾ら彼女が化粧料として、赤穂の塩田から金を受け取っていたとはいえ数百両のこと。雀の涙、赤穂浪士の一日の食費にもならない。
そのため大石はどうにか金策を探りつつ……
「無理だこれ!」
大石はのけぞった。
無理なものは無理だとして、やむを得ず現地調達、独自の責任と裁量で用意すること、とした。
中には偽装のための商売が上手であった赤穂浪士も居て、前原伊助ら1万人は米屋を、神崎与五郎ら1万人は野菜売をして糊口をしのいだ。
彼らの稼ぎが47万の同士の資金源にもなっただろう。
「それにしても……なんでこうなったのか……」
大石は苦悩の呻きをこぼす。
当初は討ち入りという行為自体あまり乗り気ではなかった上で、あくまで赤穂藩の遺臣、それも身分が高い者を中心として集まるべきだと説いていたのだ。
あまり大勢になると統制も利かない。それにあくまで討ち入りなど意地のようなもの。集まっても100人ぐらいだろうと思っていた。
それが47万人に膨れ上がった。
赤穂藩の武士たちが妙に乗り気で全員参加した上、それを聞きつけた浪人も集まってきたのである。
大石に頼み込んで参加しようと試みた者は断っていたのだが、赤穂藩士だけで500人ぐらい居るのだ。そのうち、誰かに養子縁組だとか義兄弟の契だとかを申し込んで増えていくのをすべて止めることは不可能であった。
そのうちに義兄弟の義兄弟の義兄弟といったふうに芋づる式に自称赤穂浪士の関係者は増え続け、そのうち元々の赤穂藩士総数よりも大きくなり、大石の意見や命令などは尊重されなくなった。
それでも奇跡的に、討ち入りの号令を待つことと吉良を狙うことという目的のみは共有させたのだが。
「とにかく終わらせたい……」
しかし今更抜け駆けのように数百人ぐらいで討ち入りをすれば暴動が起きかねない。大石は確実に全員が討ち入りを行える日を待つのであった。
11月、江戸に入った赤穂浪士たちは市中に間借りして討ち入りの日を待っていた。
以下は場所と人数である。
小山屋弥兵衛裏店 石町3丁目:大石内蔵助、小野寺十内ら8万人
大家喜左衛門裏店 新麹町6丁目:吉田忠左衛門、不破数右衛門ら4万人
和泉屋五兵衛店 新麹町4丁目:中村勘助、間瀬久太夫ら5万人
大家七右衛門店 新麹町4丁目裏町:間喜兵衛、間新六ら5万人
秋田屋権右衛門店 新麹町5丁目:富森助右衛門ら1万人
檜物屋惣兵衛店 芝通町浜松町:赤埴源蔵、矢田五郎右衛門ら2万人
芝源助町:磯貝十郎左衛門、村松三太夫ら3万人
本町:村松喜兵衛ら1万人
春米屋清右衛門店 深川黒江町:奥田貞右衛門、奥田孫太夫ら2万人
平野屋十左衛門裏店 南八丁堀湊町:片岡源五右衛門、貝賀弥左衛門ら4万人
紀伊国屋店 本所林町5丁目:堀部安兵衛、横川勘平ら4万人
紀伊国屋店 本所三ツ目横町:武林唯七、勝田新左衛門ら3万人
本所二ツ目:前原伊助、神崎与五郎ら3万人
両国矢の倉米沢町:堀部弥兵衛ら1万人
残り1万人は江戸のあちこちに分散していた。牢屋敷に捕まった者も含む。
ギッチギチである。特に麹町あたりが。
麹町は近くに武家地である番町もあり、武士としては得体のしれぬ数万の浪人が近くの町をうろついているという緊張感も漂う状況である。
そんな47万人が11月に集結し、吉良上野介を討ち取るべく、彼の屋敷を見張って虎視眈々とその機会を伺うのであった。
そうすると綱吉ならず、江戸市中の庶民からも「早くやれ」という空気が露骨に形成されていった。
というか吉良を討ち取るには明らかに多すぎる人数が集まっているのだ。
噂好きな江戸の民衆の間では、
「あれは徳川さまを攻めるための軍勢だ」
という風聞が上がるのも当然の状況である。
たとえ噂といえども、そんな話が囁かれれば幕府としても面白くもないし、不安でもある。かといって片っ端から逮捕するキャパシティはないし、戦の準備を始めればそれを契機に本当に戦となるかもしれない。
野戦ならまだしも、城下町まですっかり47万人に取り囲まれた状況で戦をするなど不利極まりないことも理解していた。あの人数で江戸市中に火をつけて周り、略奪をされるだけで幕府は再起不能のダメージを負うかもしれないのだ。
そして戦の準備をしないのならば江戸城は平常運行をせざるを得ず、正月に諸大名を迎え入れる準備などに追われているのだ。大量の浪人に囲まれている中で。
城勤めの武士たちもプレッシャーに倒れそうであり、なにも戦支度をしないさせないのスタンスを選んでしまった将軍へ内外から向けられる視線も厳しいものがあり、
「早く……早く終わってくれい……」
綱吉は台風が通り過ぎるように祈っていた。
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一方で狙われている吉良ものけぞっていた。
これだけの赤穂遺臣を名乗る浪人が江戸に集まれば嫌でも話は耳に入る。
仇討ちのために47万人から狙われる男。それが吉良だ。
「儂、そんな悪いことしたか!?」
吉良はもう泣きそうだった。屋敷の皆も顔を青くしている。
確かに浅野内匠頭とは性格上の折り合い悪く、ブチ切れて命がけの殿中抜刀を選ばせてしまった非はあるかもしれないが。
近頃はちらっと表門から通りを覗くだけで、1万人ぐらい吉良邸を見張っている赤穂浪士がいるのだ。見張りが1万人である。ノイローゼにもなる。
「ご隠居さま、これはもう……なんというか無理です」
吉良家の家老である小林平八郎ががっくりとした声音でそう告げてきた。
「息子(上杉綱憲)に頼っても駄目か!?」
「米沢藩の全戦力を持ってしても十分の一にもなりません……」
吉良の息子は米沢上杉家の養子となり、藩主を継いでいる。刃傷事件の後に隠居してからは、赤穂浪士の問題もあるし米沢に来ないかという誘いもあった。
とはいえ吉良は老人であり、都会暮らしの風流人だ。今更江戸を離れて雪深い東北の田舎へ行くのも気が進まず、断っていたのだが……
「行っておればよかった……! 米沢……!」
「後の祭りでございますなあ」
「今からでも行けんかなあ!」
「監視の目が多すぎでございまして……」
なにせ吉良邸を出入りする商人、茶人、坊主に至るまで、誰が出入りしようが1万人以上の監視がそれを付け回している状況なのだ。
出入りする者たちまでノイローゼになった。
「今にでも討ち入りされれば為す術もなくやられるというのに、あやつらはなにを狙っておるのだ!?」
「さあ……ひょっとして幕府に圧力を掛けているのかも……今からでも赤穂藩取り潰しを止めたり、ご隠居さまへの両成敗として切腹を申し付けるとかそういう行動を起こさせるための」
「もうなんかこの際、幕府から切腹させられた方がマシな死に方になる気がしてきたぞ! いっそ!」
「47万人ですからねえ……」
47万人が「狙いは吉良の首一つ」などと襲ってくるなど、どういう末路になるか想像すらできない。
「迎え撃つ足軽が100万人ぐらいおらんのか、うちは」
「それどころか、次々に家中の者が逃げていく始末でして……」
「儂だって逃げたいわ! ……ええい、クソ」
吉良は文机を引っ張って書状を書きつつ指示を出す。
「とにかく、儂は無理でも孫の義周は避難させる。上杉家にどうにか連れて行くよう手配をせよ」
「赤穂浪士がご隠居さまだけでなく、若さまも狙っていた場合には上杉家も襲われかねませんが……」
それを恐れて、上杉家の家臣たちは殿を説得して義周の受け入れを拒否するかもしれないが。
「どちらにせよこの屋敷に居ては殺されるのは確実であろう。綱憲が実の息子を見捨ててでも上杉家を守ろうとするならもはや打つ手はない……」
「ご隠居さま……」
「茶器に掛け軸に屏風に……とにかく価値ある財産も送ろう。上杉家で金に変えられるかもしれんが、義周が高家になるのに必要なものだったのだがのう……」
高家は礼儀作法を教えるためか、教養を高めねばならず、そこらの大名家並みに美術品を買って勉強しておかねばならなかったので、高家肝煎という最上位の立場であった吉良の屋敷には数千両にもなりそうなものが多数あったが、47万人にくれてやるわけにはいかない。
まるで終活の如く身辺整理を始める吉良義央であった。まあ、47万人に狙われていては仕方がない。
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そして赤穂浪士らが江戸に集結して一ヶ月が経過し、時は運命の12月。
ざっと30日待機していたとすると、47万人が江戸滞在の食費(米代)だけで8万7420両(87億4200万円)掛かっている。
気前よく赤穂浪士がこの金額を江戸に落としてくれれば万々歳なのだったが、当然ながら自活できるのは限られた人数だけであり、殆どはツケや強請りといった方法であった。いや、ツケや強請りも平和な部類の調達であり、もっと非合法で強引な行為に走った者も居ただろう。居なければ47万人を維持することは難しい。
だが数十万の武装した暴徒を刺激するというのは国家であっても避けたいもので、保護した犬の餌用の米や干し魚すら強奪されたのだが、綱吉はキレながらも堪えていた。
年明けまでに赤穂浪士問題が解決されなければ、幕府を頼れないと判断した民衆が暴徒となってぶつかるかもしれない。そんな危機感すら覚えていた。
12月1日、茶人である山田宗徧へと弟子入りして吉良の様子を窺っていた大高源五ら1万人が宗徧の家を訪れた。
すると行事表に「12月6日、吉良殿茶会」と書かれているのを見つけたのである。
茶会がある日ならば吉良は確実に家へ滞在している。まさに討ち入りにはうってつけだ。
だが源五は慎重に予定を確認することにした。
「6日に先生へとお歳暮の茶を送りたいのですが」
「私も」
「拙者も」
「それがしも」
「(以下省略☓9996)」
なんか最近弟子になった1万人の浪人が次々とそう言ってくるのだ! 怖い!
「い、いや……その日は、吉良上野介殿との茶会があるから……忙しくて」
恐怖からつい、相手は赤穂浪士の集団だと薄々気づきながらも予定を喋ってしまったのだ。
ここで源五ら1万人は吉良の予定をつかみ、大石内蔵助へと伝えられた。
直ちに大石は6日に吉良邸へ討ち入る予定を47万人の赤穂浪士たちへ伝達させる。それだけで一苦労だ。
この一ヶ月で大石の体重は10kgほど減り、顔つきも憔悴していた。なにせ47万人のリーダーなのだ。毎日、どこかしらで赤穂浪士が問題を起こした報告が来るたびに呻いていた。
「ついに! ついに討ち入りをするぞ!!」
「うおおおお!!」
47万人が盛り上がったのだ。当然、江戸中に「どうやら6日に討ち入りをするらしい」という噂は一瞬で広まった。
江戸城にも伝わり、綱吉は安心する。
吉良邸にも伝わり、吉良は遺書をしたためて大慌てで義周を送り出す準備を進めさせた。
ところが……
4日の夜になり、吉良邸の裏門から武士に守られた駕籠が出ていくのを、見張っていた神崎与五郎ら1万人が発見した。
その1万人はぞろぞろと駕籠を尾行していく。1万人ではこっそりというわけにもいかない。まるで大名行列のようだと言いたいところだが、大名行列は加賀百万石の金沢藩ですら最大で4000人だったのでその倍は人数がいる。
追われている駕籠かきは恐怖のあまりに途中で吐いた。
「ひょっとして駕籠に乗っていたのは吉良上野介では?」
与五郎は不審に思った。詳しく確認をせねば、6日に討ち入りをしても無駄になってしまう。彼はただちに大石内蔵助へと報告をした。
実のところこの駕籠に乗っていたのは孫の吉良義周で、ギリギリになってどうにか避難させようと脱出させたところであった。
吉良義央が上杉家へ逃げる、ということも考えたのだが、吉良邸にいようが上杉屋敷にいようが47万人に襲われれば死ぬのは間違いがない。被害を増やすだけだと諦めたのである。
さて、吉良が逃げ出したのではないかという情報を得た大石はのけぞり、情報の真偽を確認させた。
すると厄介なことに、茶人の弟子になっていた大高源五から、
「どうやら6日の茶会は中止になったみたいです!」
という報告が来てしまったのだ。
茶会があるから、吉良は確実に居る。その前提が崩れた以上、討ち入りは取りやめとなった。
実際のところ、茶会当日に47万人が討ち入りを仕掛けるという噂が広まったので山田宗徧が「茶会どころじゃねえ」と慌てて中止の予定にしたのだが。
一度討ち入りを仕掛ける、という盛り上がりを見せた上で延期となったものだから、赤穂浪士のみならず江戸市中の民衆からのブーイングも酷いものがあった。
とっととやれ、ただ飯ぐらい、臆病者など罵詈雑言が飛び交い、キレた赤穂浪士らと江戸町人の乱闘騒ぎにもなって役人と大石の頭痛を招いた。
再び大高源五ら1万人が山田宗徧の家に集まり、彼に詰め寄った。
「先生……稽古をつけて貰いたいのですがそちらの都合で、お忙しい日などがおありでしょうか……!」
「ひっ」
1万人の自称弟子が血走った目でそう訊いてくる。山田宗徧はつい口走った。
「じゅ、14日は吉良殿の屋敷で茶会があるから……!」
「14日……! 間違いございませんね……!? 急に取りやめたり……」
「しない! しません! 今度こそ!」
悲鳴を上げるように誓わされ、斯くして赤穂浪士の討ち入りは14日の深夜ということになったのだった。
14日の昼、茶会にてすっかり噂も聞いている吉良は、山田宗徧と味のしない茶を啜って形だけの茶会を開く羽目になったが。
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深夜のことである。江戸中に分散していた赤穂浪士47万人は集結しつつあった。
本来ならば討ち入り衣装を統一しておきたかったところだが、予算的に不可能であったために各自調達とした。武器もそうだ。刀、脇差しを持っていればマシな方で、浪人生活が厳しくて手放し、竹光や薪、河原から拾ってきた石などを手にしてやってきた赤穂浪士もいる。
この集合する際に、寺坂吉右衛門の手記によれば、吉田忠左衛門や原惣右衛門ら7~8万人ほどは道中でそば切りを食べてきたという。江戸から夜泣き蕎麦が消えた。
47万人が市中を移動するというのでどこの藩邸でも警戒のために篝火を灯し、門番を置く。江戸城からも見張りが無数に立ち、念のために武装した武士が門を固めた。
彼らのうち1万でもなにかの理由で、他藩の藩邸や屋敷にでも攻め込んだら防げる戦力ではないのだ。固唾をのんで江戸中の人々が見守る夜であった。
吉良邸の表門へとたどり着くと、代表として大石内蔵助が『浅野内匠頭家来口上』という書状を竹竿に結びつけて玄関先に立てた。これは事の次第と、赤穂浪士たちの意思を対外的に示した文章で、末尾には47万人の署名が連なっている。署名の部分がめちゃくちゃ長かった。名前の文字幅が一人あたり1cmとして4700mになる。さすがにアレなので、一行で100人ぐらいみっしり書いて貰った。これで47mに収まる。
そうして、表門に23万人、裏門に24万人の軍勢を集めて、吉良邸への討ち入りが始まった!
「火事でござる! 火事でござる!」
「弓だ! 弓の弦を断てッ!」
「誰か太鼓を鳴らしているのか!?」
「むう……あれは山鹿流の陣太鼓!」
「そんなもん誰か持ってきてたっけ?」
「吉良ァァァァ!!! どこだァァァァ!! 俺がお前を討つ!!!!」
口々に叫びながら赤穂浪士が濁流のように吉良邸へとなだれ込んでいった!
ところで吉良邸の広さは如何ほどだろうか。建物を無視して邸内の面積だけならば2550坪。8429平方メートルほどである。だいたい、大小はあろうが小学校の校舎とグラウンドを合わせたぐらいの広さだ。
そこに47万人を押し込めるとなると、人口密度は1平方メートルあたり55.75人。
なんか想像がつかないのだが、東京で通勤時満員電車の人口密度が1平方メートルあたり3人から5人ぐらいであるようだ。奴隷船より酷いと話題になった。
満員電車の10倍以上。超々過密状態だ。いやもう物理的に無理である。
「うわああああ! 赤穂浪士がこっちにまではみ出してきているぞおおお!」
邸内をはみ出し路上、更に吉良邸と隣接していた本田孫太郎らの旗本屋敷や回向院などの寺へとうじゃうじゃ赤穂浪士がはみ出て討ち入ってしまっているのだ!
なにせ、現場にいる赤穂浪士たちは方向感覚もなくなり、自分がどこに突っ込んでいるのかもわかっていない。
右を見ても左を見ても赤穂浪士。
槍や刀を振り回す隙間もない。
なんでみんなで一斉に討ち入りしちゃったんだろう。
「吉良を探せ! 吉良を!」
その目的だけはどういうわけか統一されていたのだが、なにせ吉良を見つけるどころではない。
下手な動きをすれば赤穂浪士同士で圧死しかねない状態だ。
一刻(2時間)もするとなにかしらやったわけではないのだが全員もう疲れ切ってしまっていた。だが迂闊に座り込んだりすると踏み潰される恐れがある。
そんな最中、
「吉良!!!! そこか!!! なんでお前がそこに居る!!!」
武林唯七がそう叫ぶと、集団の中から何者かをバッサリ切り捨てた!
近くに居た間新六が大声で訊く。
「やったのか!? 吉良を!?」
「俺にも分からないさ! なにが正しいかなんて!」
「えええ? いや、やった……んだよな?」
「であああああ!!」
吉良発見の勢いで、周囲にいた1万人ぐらいが吉良へと切りかかった。いや、無理だろうが、ともかくそんな感じだ。
全身に刀傷を負ってボロボロになった吉良らしき、もみくちゃにされた人間ぽいものを掲げ、とりあえず赤穂浪士たちは笛を鳴らして吉良を討ち果たしたことを皆に伝える。
武林が微妙に疑わしい叫びをあげたように、正直なところ赤穂浪士のほぼ全員は吉良の容姿を知らない。リーダーの大石内蔵助すらも見たことがなかった。
そこで吉良は老人であること、額と背中に浅野内匠頭がつけた傷が残っていることを目印にしていたのだが……
武林唯七を始めとする1万人が致命傷を与え、間新六を始めとする1万人が止めを刺したところ、目印どころの状態ではなくなってしまったのだ。
大石内蔵助は大いに焦った。だが今更「これは別人」とか主張しても大変なことになるので、
「確かにこれは吉良だ!」
と、断定した。彼も疲れていたのだ。事実、それは吉良であるらしかった。
そして47万人が浅野内匠頭の泉岳寺へと向かう前に、大石内蔵助は寺坂吉右衛門を呼んで命じる。
「吉良を討ち果たしたことを、いち早く皆に伝えてきてほしい」
と、命じると寺坂吉右衛門他1万人ぐらいの赤穂浪士が抜けて方方へと散っていった。
これにより後世、赤穂浪士は47万人なのか、最後に抜けた吉右衛門ら1万人を抜いて46万人なのかと議論されることになる。誤差みたいなもんだろという意見もある。
46万人は途中で幕府の大目付に報告をするために吉田忠左衛門、冨森助右衛門ら2万人が途中で別れ、残り44万人が泉岳寺へと入った。2万人がやってきた幕府はかなり警戒した。
泉岳寺境内は面積7000坪。23140.5平方メートルあり、吉良邸よりも広く、44万人入れば人口密度は1平方メートルあたり19人ほどと随分余裕があった。満員電車の4倍ぐらいだ。
そこで粥を所望されて泉岳寺が用意することとなった。1人2合の飯を粥にするとして88石。109両(1090万円)ほど掛かった。
それから大石内蔵助は吉良の首を浅野内匠頭の墓前に置き、焼香の後に浅野の持っていた小刀を取り出して、吉良の首へと3度触れさせる儀式を行い、これを全員にやらせた。つまり合計132万回ぐらい小刀で首を叩かれる吉良であった。原型をとどめていなかった。
こうして供養も終わり、残った46万人の浪人たちは遺恨なく素直に幕府の沙汰を待とうということになったのである。
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赤穂浪士の扱いは幕府内、更には民間の世評でも喧々囂々の議論が丁々発止に行われまくった。
軽い処分としては、江戸払い。即ち江戸から追い出して立ち入れないようにすること。これは意外にも、将軍の綱吉が推した。見なかったことにしたいという意見である。
将軍の意見ならばかなり無茶な生類憐れみの令さえどうにか通してしまうのが幕府の機構なのだが、この赤穂浪士への処遇には方方から大反対が起こった。
曰く、あまりに軽い処分では幕府の威信に関わる。
曰く、江戸市中の狼藉だけでも重罪人である。
曰く、討ち入りも万の軍勢で徒党を組み、とても名誉とはいえない。
曰く、うちの屋敷がついでに壊された。
曰く、預かってるんだけど経費が掛かって仕方ないから早く沙汰を出してほしい。
曰く、江戸から追い払ってうちの藩に来たらどうするんだこの集団が。
そのようなことを遠回しに、将軍を宥めすかせるように言い聞かせられた上で、
「赤穂浪士は全員死罪とすべし」
という意見が、幕府内でも江戸市中でも大勢を占めていた。
だが綱吉は、
「それで死罪と命じたら、儂は稀代の殺人者ではないか!?」
なにせ一人二人を死刑にするのとはわけが違う。
藩を改易させ、数百人の家臣団を路頭に迷わせてきたことも幾度もある綱吉だが。
それでも46万人も、自分の命令ひとつで処刑するのはゾッとしなかった。古代中国の武将白起だって一度に処刑したのは20数万人ぐらいだろう。そんな彼ですら気に病んだのだから、信心深いことで知られる綱吉からしてみればとてつもなく業の深い行為になるのだ。
しかしながら早く決断をせねば、赤穂浪士を預かっている大名家の負担が血を吐くほどだ。
やむを得ず綱吉は、
「斬首ではなく、切腹を申し付けよ。また、切腹を受け入れれば親類への咎めは一切ない」
そう命じた。死刑ではなく自害ならば少しは命じた側の罪悪感も薄れると思ったのだ。
本来ならば親類も島流しなどの沙汰があるのだが、46万人の親類である。家族が他に3人居ると仮定して、138万人の罪人をどうにかするなど不可能だ。
それでも46万人が不服として暴れ出したらどうしようもなかったのだが、全員が受け入れることとなった。
もとから未来などない浪人生活で、最後に名を残したかっただけだったのかもしれない。
赤穂浪士への配慮として、名誉ある切腹を綱吉は命じた。これも罪悪感の軽減と、そうしておけば反対する浪人も少なくなるだろうという判断だ。
切腹の場は屋外だったが畳3枚を敷いてやるべし、と通達があったのだ。これは格式を上げるためである。
預かっていた大名屋敷の家老たちはその要求にのけぞった。
「江戸中の畳を買い占めてこい! 早く!」
なにせ切腹するたびに血で汚れて取り替えないといけないのだ。全部替えるとして必要な畳は138万枚。尋常な出費ではないし、たぶんそんなに畳が無い。
赤穂浪士を引き渡された各大名家は以下である。
熊本藩 17万人
松山藩 10万人
長州藩 10万人
岡崎藩 9万人
もっと細かく分散してくれよ!と各藩は陳情したのだが無視された。
これらの人数が切腹したわけだが、介錯する方も大変であった。
よほどの腕利きで、首を一太刀で落とせる介錯人であっても気力体力的な問題で続けて10人も切れないだろう。とにかく各藩は恥も外聞もなく他藩の江戸藩邸から介錯人となってくれる武士をかき集めてきて補う羽目になった。
刀も何本も駄目になった。仮に非常に頑丈だと仮定して、100人分首を切って刀が壊れるとしても4600本の刀が必要になる。
血潮の処理も大きな問題である。成人男性の血液量が4リットル、これが全部流れるならば184万リットル、25☓16メートルプールが3.8個満杯になる量の血が流れる。
これだけの数の棺桶を用意するのも嫌になったので火葬が決まり、泉岳寺のある芝・高輪近辺ではずっと人の焼ける臭いがしていた。
季節は真冬だったことが腐敗を遅らせて幸いだったが骨を埋める墓穴も数だけ必要で、大変な労力を持って江戸の人々は赤穂事件の後始末に追われるのであった……
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さて後のことである。
まずは事件後の始末であるが、江戸近辺は赤穂浪士の影響で経済が悪化。更には47万人が居なくなったものの、数えきれないほどの数の流民が江戸にやってきた。
47万人の殆どは元武士の成人男性であり、そうなれば嫁も子供も居たのだ。働き手である主人を失った浪人一家が江戸を頼って現れたのである。
当然ながらやってきた浪人の家族も、生産能力は非常に低い女子供ばかりである。ハチャメチャに治安が悪化、江戸市中に餓死者すら増え始めた。
幕府は災害用として備蓄していた余剰米を吐き出すことで治安の維持と幕府への不平不満をどうにか軽減させようとした。
犬公方、とまで陰口を叩かれていた綱吉はより深刻かつ現実的な悪評に晒されたが、
「浅野内匠頭の始末、吉良上野介への不始末、赤穂浪士への対応……すべてはこの柳沢出羽守が献策したことにしてくだされ」
と、柳沢吉保当人が提案し、切腹をしたことで幾らかは綱吉への風当たりは減じられた。
しばしば怒りに触れて側用人を解雇することで知られていた綱吉が、館林藩主の頃から長年頼り続けていた吉保の最後の奉公であった。非常に済まないと思ったが、徳川家のためを思って彼には罪を被って貰ったという。ただ柳沢家は手厚く幕府に庇護され一族は重職や大名となる。
心労と罪悪感もあって綱吉も事件の数年後には死去してしまったが、後世の評価としても彼は散々たるものとなってしまった。
結局、冷静に振り返って見たところ浅野内匠頭の刃傷事件より、綱吉の裁定と取り潰しによる浪人の不平不満が大きな原因だと言われている。
浅野内匠頭の弟である浅野大学と、その本家である広島藩浅野家はとんでもない事件に冷や汗を滝のように流しっぱなしであった。
なにせ、よりにもよって自分の一族である浅野内匠頭の遺臣を名乗る軍勢が江戸に集結し、狼藉を起こしたのだから。
これが全然関係ない浪人の集まりならまだ言い訳は利くのだが、大石内蔵助を中心とした赤穂の遺臣は確かに存在していたわけで。
裏に広島藩が援助して江戸を攻めさせた、と見られても不思議ではない規模だったのだ。
藩主の浅野綱長はとにかく江戸の被害を補填するための資金提供を藩政が傾くほどやることで無実を主張した。
そして江戸幕府も、普段ならばここぞとばかりに改易や取り潰しの理由にするのだが、ここで広島浅野家を潰し第二第三の赤穂浪士が報復に来たら江戸幕府は終わるため、さしたる処罰はされていない。
ただ浅野大学が旗本としてお家再興することはなかった。あそこまで人死にが出れば当人も幕府に願い難かった。
上杉家は吉良の孫である義周を預かり、藩主の命令で暫く戦支度のまま待ち構えていた。
しかし赤穂浪士が攻め込んでくることはなく、素直に幕府の裁定を受けて死んだ。呆気ないほどだった。
義周は元々体も弱く、また家が破壊され尽くし家臣もいなくなった状態であった。
だが祖父吉良上野介が必死の思いで逃してくれたこと、父上杉綱憲が攻め込まれれば助からないというのに匿ってくれたこと、また高家として学ぶための財産や覚書を残してくれたことを気力に奮起した。
赤穂浪士への危機感もあってか吉良家も適当な理由でお取り潰しということになったのだが、ごく近しい親戚である東条家へと養子に入り、そこから高家となった。
鬼気迫る努力もあって三十代には高家肝煎として任命され、厳しくも指導相手から憎まれぬ心がけを説いた。
なにせ、教えた相手が怒り狂ったということだけで47万人が死ぬ事件が起きたのだ。高家も、作法を教わる大名も以降はやたら神妙になったという。
事件から二十年後に、幕府もほとぼりが冷めたと見たのか義周の吉良家再興を許可した。
俗に言われる『赤穂47万浪士事件』に関わることで、社会の評価は非常に難しく様々な意見が見られる。
まず単純に、浅野内匠頭の仇討ちとして47万人もの人間が立ち上がったことは日本史上唯一とも見られる、忠義と云うか集団ヒステリーというか、ともあれ一人の人間の生き死にでこれほど多くが動いたことは歴史に残る珍事である。
これほどの大事になったのだから、赤穂の殿様はよほど偉大だったのだなあという風評も上がり、後世では神格化されて殆どブッダみたいな扱いになることもあった。
逆に47万人から命を狙われた吉良はよほどの大悪党、いやもはや人間に取り憑いた悪鬼羅刹めいた幻想的存在へとこちらも祀り上げられた。
この騒動は当時、幕府による圧政に近い取り潰しによって大量に発生した浪士たちによる、積極的かつ刹那的な大規模抗議活動なのだと見る動きもある。
家光から綱吉までの代で数十万発生した浪人たちが、もはや未来などないと絶望し、己が命を以て幕府へと訴えかけた。
事実、この事件以降には取り潰しや改易の件数が極端に低下している。
しかし抗議にしても47万人がほぼ自死するという衝撃的な出来事はオランダの商館長からヨーロッパに伝えられ、恐るべき自殺文化の国家と思われるようになったという。
赤穂浪士たちはただ迷惑な集団だっただけだ、という論調もある。
民衆に多大な負担を掛けて、乱暴狼藉の問題を起こし、江戸は相当に荒廃をした。
ただし中長期的に見れば江戸の人口は流民によって膨れ上がり、一時的に治安と流通、物価が悪化したものの安定した後は大きな消費を産むようになった。
関東の新田開発も流民を用いて広まり、どん底までいった幕府の財政は数十年後にはなんとか持ち直していく。
赤穂浪士の行いは天下を騒がす大暴動の一歩手前ということで記録されたが、その個人個人に関しては非常に記録が薄い。
大石内蔵助が用意した全員分の名を記した『浅野内匠頭家来口上』は火災で消失し、その全文を記録していた者も居なかったためだ。47万人分の人名などそうそう書き写せるものではない。
ただ名前が明確にわかっている者たちは赤穂藩の藩士や、寺坂吉右衛門と共に抜けた1万人の中には浄瑠璃作家で知られる近松門左衛門(元越前国吉江藩士)も含まれていたという。
後に赤穂事件を取り扱った浄瑠璃作品を発表し、多いに評判となった。
更に時は過ぎて昭和の頃。
江戸時代の研究が進められる中で、すっかり47万の浪士たちは眉唾な過去の事件として「数を盛りすぎだろ」という扱いであった。
しかし墓地の発掘調査が行われた際に、赤穂浪士の墓地とされる高輪駅近くの土地を掘り起こして見たところ悍ましいほどの数の人骨が出てきた。
1000を数えたあたりで全部掘り起こすのは不可能と判断されたのだが、泉岳寺で保管されていた当時埋めた記録をもとに、墓地にした四方の角でそれぞれ発掘して大量の骨を発見。
推定で47万人分の遺骨が埋まっていると報道された。
いやまあ、江戸は赤穂事件の後から百万都市となり、それから昭和になるまで何百万人も江戸東京で死者は出ているし各地にある墓地に埋葬もされていたのだが──
それでも、記録に残る大量死事件の証拠が見つかるとなると、なんとも不気味さを感じて周囲の地価が下がったという。
江戸時代から『忠臣蔵』モノと言われる芝居、浄瑠璃、物語本は無数に出てきた。
だがなんというか、人情とも義侠とも言い難い怪奇的な内容であり、敢えていうならばゾンビパニックホラーめいた作風が多かった。
そして令和になり、赤穂47万浪士事件を取り扱ったネット小説を原作に、挑戦的な実写映画が撮影されることになったのである!
『元禄世ミリオン忠臣蔵~47万人の赤穂浪士~』
出演者人数、約47万人!
勿論出演者の9割9分9厘は無料で募集したエキストラなのであるが、本気で47万人も集めた映画を撮り始めたバカな監督と映画会社が現れたのだ!
役者は無料のエキストラとはいえ貸衣装が必要になり、浪人の和服が安めに見積もって1着5000円/日と考えると18億5000万円/日も掛かってしまう!
画面に映る数十人だけ雇って、後はCGで処理しようという提案は素気なく却下された。
そんなトンチキな事件をリアルに映画化してしまうトンチキな監督は、インタビューでこう答えたという。
「なんでこの話をやろうと思ったんですか?」
「誰かに先にやられる前にやらないといけないと思って……」
「やりませんよ誰もこんなの……」
元禄世ミリオン忠臣蔵──近日公開未定!(制作費のクラウドファンディング中)
※この作品はフィクションです。史実とは関係なく、映画化などの事実はありません。
「ところでカレーちゃん、どこに百万がありますの?」
「えっ、ミリオンって万じゃなかったのじゃ?」