キャラ化、ネタ化 vs 無辺の未知

ネット上で女性の胸を強調したキャラクターをポスターに使うことの是非を巡る論争が起きていたが、それについての対立する双方による対談(論戦?)が行われたという記事を目にした。そこに「キャラ化したい人」と「キャラ化されたくない人」の争いのように見えた、という要約があり、とても腑に落ちる分析だと思った。

ここ数年、福島関係を巡って起きるネット上の炎上は、ほとんどのケースで、そもそもの炎上する理由が私にとっては理解できないものだった。「理解できない」というのは、共感できないという意味ではなく、原因そのものがわからないということだ。ただ、ひとつ強く感じていたのは、実際の現実とは関係のない、なにかもっと別の心理的な理由がありそうだ、ということだった。

当然のことながら、福島県内にも様々な考えや状況の人があり、到底ひとつにくくれるものではない。だが一方で、なんとなく大勢の雰囲気をつかんでいるなという意味で、ある種の代弁者的な機能を果たしている声もある。2015年以降は、福島県内にある現実の雰囲気を反映したそうした代弁者的な声まで、しばしば強い論調で否定されることがあり、戸惑いを覚えていた。それは、子供がおもちゃを取り上げられようとしたときに示す駄々っ子のような反応とひどく似通っているように感じられ、あたかも、俺たちの楽しみを奪うなよ、と言外にそう言っているように私には感じられていた。

ここに書いたひとつのアート作品を巡る「炎上」の不可解さも、おそらくそれに通じるものなのだろうと思っている。冒頭に書いた対談では「キャラ化」と書かれていたが、「ネタ化」と言い換えることも可能だろう。「ネタ」としての、原発事故後の福島をめぐる状況分析ーつまり、反原発放射線忌避デマ派と科学的エビデンス主義デマ駆逐派の対立状況ーに充足している人間にしてみれば、それ以外の世界観を提示されることは、自分たちが夢中になっているゲームを妨害されるようなものであり、そうした世界観を提示する意見そのものが邪魔なのだ、とそのように考える。

当然のことながら、現実世界というのは、このような簡単な対立図式で割り切れるものではない。一人の同じ人間でも、デマ的な主張を素朴に信じていると同時に、科学的なエビデンスが大切だと思っている場合は日常的に存在するし、一方、強くエビデンスを主張する人自身がエビデンスの欠けた主張をするのもまたごくごくありふれたことだ。そして、そうした矛盾した主張をする人がなんらかの専門家の肩書きを持っていることも見飽きるくらいありふれている。だから、現実に即した話をするならば、簡単な世界認識を否定する意見を言わざるを得ない。しかし、現在流通している単純な対立構造の世界観で充足している人間には、そうした現実的な声が邪魔で仕方ない。なぜならば、ネタとして楽しむにはそれで十分だからだ。だから、見ないふりをするか、ムキになってその声そのものを否定しようとするーこう考えると、非常にすっきりする。

しばしばネットで起きる対立炎上事案には、往々にして、こうした「ネタ化」して楽しみたい層と「ネタ化」されると困る層との対立があるのではないかとも思う。切実な利害に直面していなければいないほど、「ネタ化」して楽しみたいという要求は通りやすくなるだろう。SNSは、そうした切実な利害層と、ネタ化して楽しみたい層の主張とがまったく同じラインに並べられるという、目眩がしてくるような状況を生み出してしまっている。そこで両者が落としどころを見つけるのは、ほぼ無理なのではないか、とも思う。

原発事故直後の現代アートでは、やはり「ネタ」としてしか原発事故を考えていないのではないか、と思われる作品が目につき、そのことがアートそのものに対する猜疑心と反感を植え付けることになったわけだが、ただこれはアートそのものに起因する問題と言うよりも、ネタとして扱うことで充足する層と、そうされると困る層との深い亀裂でもあったのだろうと思う。(私自身も「これは許せない」と思える作品を目にし、友人のアーティストと喧嘩をした経験がある。そうした作品に比べれば、SNSでたまたま槍玉に挙げられたいくつかの作品は、比べる余地がないほど良質、ないしはマシなものであると私には思える。)

「原発事故のような災害を伝えていく上で、アート作品の果たす役割は少なくないものがあり、とても重要なものとなる。なぜなら、原発事故の被災地は、なにかそれまでの世界とは違う、より深いものを感じさせるからだ。それを表現するには、アーティストの存在はとても重要だ。」とフランス人の友人が言うものだから、「でも、アーティストというのはだいたい放射線に対しては過敏な反応を示す人が多いでしょう? 彼らは変わるの?」と尋ねてみた。

彼は(こういう質問をしたときいつもするように熱を込めて一気にまくし立てるように)答えた。実際に現地に来てもらったら変わる人もいるはずだ。ベラルーシでアーティストを招いたプロジェクトをした時も、当初は被災地に来ることそのものをアーティストは渋っていた。だが、関心を示しつつためらっていた何人かのアーティストを説得し、連れてきたら、彼らの変化は目覚ましいものだった。そして地元の子供たちと行ったアートプロジェクトも素晴らしい成果を残すことができた。けれど、連れてこなければ彼らはずっと変わらないだろう。ふんふん、なるほどね。と頷く私の表情を確認して、彼も納得したような表情をし、また別の話題に移った。飛行機の中で読むための本を買いに書店に寄りたいのだけれど構わないか、と確認してから、彼のお気に入りの書店へと向かった。

経験しない者にとっては未知の領域が無辺に広がっている。そして、未知の領域を理解するには、自分自身も経験してみるしかない。情報化社会では簡単に失念されることであるけれど、何度刻んでも刻みすぎることのないことだと思う。

いいなと思ったら応援しよう!

安東量子
気に入られましたら、サポートをお願いします。