
「ありのありあり」と「ありありのあり」はどっちがありか? 5千個の絵文字を創った人と整理する
こういう絵を見たことないだろうか。チャットの投稿に対して、スタンプみたいなものが押されている。
これは、チャットツール「slack」のカスタム絵文字という機能だ。書き込みに対してリアクションを押せるのだが、その画像を自分で作れるのである。そのため社内には多様な絵文字があって、この間とある発言に同意すべく「あり」を押そうとしたら、
選択肢が多すぎる。なんだこれ?
代わりに「わかる」と押そうとしたら、
めちゃくちゃあるな。
その状況に、ふと疑問を抱いた。
「ありありのあり」と「ありのありあり」は、どっちがありなの?
「わかりマンボ」と「ワカリマクリスティ」はどっちがわかってるの?
整理心がくすぐられて、曖昧な絵文字たちに全て序列をつけようとした。しかしその作業は難航を極め、一人では収拾がつかない。もっと人手が必要だ。
こうして物事のあり/なし、わかる/わからないに強い関心を持った者たちが集って、大量の絵文字を整理し並び替える会が緊急開催される運びとなった。
さらに今回は特別ゲストを招くことになった。とある筋の情報によると、この「あり/なし・わかる/わからない系絵文字」のほとんどは、社外のある人物によって作られたという。てっきり会社の誰かが作ったと思っていたけど、それはごく一部らしい。なんでもとにかく絵文字を大量に生産している、界隈で有名な人がいるようなのだ。
その人物こそ、卵かけご飯がアイコンの「越智」さんだ。
例えばこの画像。
目がチカチカする。これらは全て越智さんが製作したものだという。ここには冒頭のあり/なしや、わかる/わからないの絵文字も含まれている。知らず知らずのうちに、僕らは越智さんの生み出した言葉を使ってコミュニケーションをとっていた。
そして偶然にも同僚に越智さんの知り合いがいて、急遽今回の会に参加してもらえることになったのだ。曖昧な絵文字を整理する上で、作者の意見は何よりも重要である。僕らは万全のメンバーで会に挑むことになった。
絵文字を5千個創った人物
金曜の夜になってビール片手にWeb会議に入ると、すでに同僚たちは勢揃いしていた。加えて初対面の方がいて、それが越智さんだった。
「あの、いつも使わせてもらってます」
好きな漫画の作者にあったみたいでなんだかドキドキする。気づくと僕はインタビューを始めていた。
ー これまでどれくらいの絵文字を作ったんですか?
越智さん:僕はこれを「デコモジ」って呼んでるんですが、色々含めるとだいたい5千種類くらいですかね。
ー 5千...?
越智さん:年内に1万を目指そうと思っています。
ー 単位がおかしい。
越智さん:GitHubで全部公開していて、誰でも使うことができます。
ー デコモジという名前をつけているのは、普通の絵文字とは区別しているからですか?
越智さん:そうですね。特徴として、デコモジはカラフルなテキスト画像を用いていて、高精細ディスプレイにも対応しています。リアクションだけでなく、slack上のステータスや平文にも使ってもらえるようになっています。
ー 確かに普通の絵文字よりも見やすいし、使っていて楽しい気がします。どんどん押したくなるというか。いつからこういう活動を始めたんですか?
越智さん:2015年くらいですかね。slackを使ってたら「ナルホド」ってカスタム絵文字を作ってる人がいて、いいなと思って。
ー 「ナルホド」、便利ですもんね。デコモジは普段どうやって思いつくんでしょうか。
越智さん:普通に会話してて、いいな、面白いなと思ったフレーズを追加していく感じですね。あとはネットで良さそうな表現を見つけたりとか。まだまだ数は増やしていくつもりです。
ー 何を目指しているんですか?
越智さん:言語ですね。デコモジを新しい言語として一般的にしたい。
ー 壮大すぎる。でも確かにたまにデコモジだけで会話することもあるし、あながち遠い話ではないのかも。他に色分けとかは...(省略)
「ありありのあり」と「ありのありあり」はどっちがありなのか?
このままだと永遠に話を聞いてしまいそうなので、会の本来の目的に戻ろう。そう、まずは皆で「あり」と「なし」を整理するのだ。
だがなんの取っ掛かりもなく作業を始めるわけにはいかない。物事にはまず基準が必要である。デコモジの序列はパワーで決まる。言葉とはパワーだ。そしてそれは数字で表現される。ゼロを中心に置いて、右側(プラスパワー)にいくほど「あり」が強く、左側(マイナスパワー)にいくほど「なし」が強い。その間に全てのデコモジをプロットしていくのである。
プラスの基準となる「1」には「ありです」、マイナスとなる「-1」は「なしです」を置く。ここに異論はないだろう。問題は間に立つゼロである。議論の末、ゼロにはこれを置くことにした。
ありやなしや。もののあわれを感じる美しい日本語。究極の中庸ではないか。これで「あり」「なし」の基準ができた。
この間にそれぞれのデコモジをプロットしていく。ここからが大変だ。例えば「ありえない」。これはなんとなく「なし」よりもさらに強いマイナスな気がするが、果たして「なしのなしなし」と比べるとどうか。
これは白熱した議論の末、「なしのなしなし」に軍配が上がった。「ありえない」はあくまで「なし」に「ありえ」というスパイスを添えた強調表現であり、「なし」を3回もリピートしている「なしのなしなし」には至らないと判断したのだ。僕は何を書いているんだろう。
また、「なしなしのナシゴレン」。こういう言葉遊びを交えた表現をどう扱うのか。「ナシゴレン」と「なし」はどっちがなしなのだろう?結論から言うと、「なし」のほうがなしである。
なぜなら言葉遊びを交えるということは一種のごまかしであり、恥じらいであるからだ。ストレートに物事を伝えることができないから、ナシゴレンとか言ってお茶を濁しているのである。という事は、普通に表現するより若干ニュアンスが弱まるはずだ。
つまり「なしなしのナシゴレン」は「なしなしのなし」より弱いし、「ありありのウェイアリア」は「ありありのあり」よりも弱い。ちなみにウェイアリアとは「Web Accessibility Initiative - Accessible Rich Internet Applications」の略だそうだ。勉強になる。
「パリえる」「パリえない」も同様だ。パリえるってなんだ。
そしてついにやってきたのが、疑問の出発点となった「ありありのあり」と「ありのありあり」。これはどちらがありか?結論から言おう。「ありありのあり」の方がありである。
越智さんによると、デコモジ言語においては前半の表現の方により大きな判定が置かれている。つまり前半に「あり」が1つだけあるよりも、2つ重ねられている方がパワフルなのだ。これは例えば「下の上」より「上の下」の方が上であるのと全く同じ理屈である。
こうして完成したのが以下の図だ。
それぞれ極限のパワーには「ありごえのあり」「なしごえのなし」が置かれている。「ごえ」を「越」と解釈し、ありを越えたあり、パワーの頂点であると認定したためだ。
よし、この調子だ。次はいよいよ「わかる」「わからない」の整理に挑む。
「わかりマンボ」と「ワカリマクリスティー」はどっちがわかっているのか?
こちらはより難易度が上がる。「ある/なし」は言わばファクトであるが、「わかる/わからない」は主観である。言葉のニュアンスも文脈に大きく依存してくるはずだ。
案の定我々はすぐに頭を抱えた。創始者の越智さんでさえ悩んでいる。
とりあえず基準値の-1は「わからん」、+1は「わかる」を置く。ここまでは簡単だ。問題はゼロである。わからないとわかるのちょうど中間ってなんだ?しかしデコモジの海に飛び込み、潜水を続けた我々は一筋の光明を見出した。それが、
どうだろう。わかりますん。これぞ「わかる」「わからない」の中間ではないか。どちらとも言えずに、しれっとはぐらかしているその態度。曖昧を許容する懐の深さ。これぞゼロパワーにふさわしいデコモジではないか。
ちなみに他にも「わかめ食べよ」という明らかに「わか」の検索で間違えて入ってしまったデコモジがあったが、なんだか平和なのでゼロパワーとした。
スタンダードが確立されたことで、議論に一気に火がついた。酒の勢いも借りながら、次々に新たなデコモジがプロットされていく。
「『なるほどわからん』は歩み寄りの姿勢があると思う。」
「それで言うと『わろたしわからん』も同じだ。」
「『まるでわからん』はわからんの最上級じゃないか?」
「『わからせ』って語気が鋭い。これは相当わかってるはず。」
「『わかりみ』って実際のところ完全にはわかってないよね。理解じゃなくて共感。」
金曜の深夜だと言うのに我々の口は回りに回る。中には若いメンバーもいて、より現代的な言葉感覚を携えていることも強みである。「わかりみ」って完全にわかってることだと思ってたよ。少しづつ形ができてきた。
さて、わかる系の特徴として、言葉遊び成分がさらに強いということがあげられる。
「わかりマンボ」に「わかりマスク」、「ワカリマクリスティー」に「わかり哲也」。なんなんだ一体。
先に「言葉遊びは通常の表現よりも若干弱い」というグランドルールを定めたものの、だからといってこれらを十把一絡げにしてしまうのは雑すぎないか。もっとデコモジについて考えたい。金曜の夜、いま一番この冴え渡った頭で、思考の海を静かに沈んでいきたい。
まず注目すべきは「ワカリマクリスティー」である。他のデコモジが「わかる + 語尾」という構成になっているのに対し、ワカリマクリスティーは「わかりまくり」という要素が含まれている。つまりこれは「わかる」よりも、もっとわかっているはずなのだ。
さらに「わかり哲也」。これはマスクやマンボなど、「マ」しか被っていない言葉遊びと比較しても、言葉全体として洒落を形成している。完成度が高いのだ。ここには「わかっているぞ」という強い意志がほんの少し、ほんの少しだけ多く含まれているとみることはできないか。別にできないと思う。でも少しだけ肩入れしておこう。0.1パワーだけでいいから。
そうやって作業を進めていたら、ほとんど完成してきた。思いのほかスムーズだ。我々はだんだんとデコモジの機微を理解してきたのかもしれない。
しかしデコモジは一寸先が闇。そうやって甘く見ていた我々の前に、最後にして最大の壁が立ちはだかったのだ。それが、
である。
わかってはいるよ。一見容易に見える。わかっていると言っているのだから、少なくともプラスの方角に入れるべきだろうか。しかしデコモジについて2時間議論してきた我々は認識していた。事はそう単純でないことを。
例えば思い浮かべてほしい。わかってはいるよ、というデコモジを押したくなるような場面を。
そう、理解を示しながらも、そこにはどこか抵抗のニュアンスが入っている。ちなみに「わかっているよ」ならこうはならない。「は」という一文字が含まれることで、「わかっちゃいるけどやめられない」という人間の本質的矛盾をついたスーダラ節の世界、親鸞の教えにも通ずると称されたこの世の真理に足を踏み入れたのだ。
元京都大学総長の長尾真氏の著作には、次のように記されている。
「わかる」とは、秩序を生む心の働きである。心は多様な心像から、意味というより高い秩序(別の水準の心像)を形成するために絶えず活動している。意識は情報収集のための装置であり、情報収集とは秩序を生み出すための働きである。秩序が生まれると、心は「わかった」という信号を出してくれる。その信号が出ると、心に落ち着きが生まれる。
-「わかる」とは何か (岩波新書) より
心に秩序が生まれることで、初めて人間は「わかる」。わかるとは頭だけではなく、心の動きそのものなのだ。
では、「わかってはいるよ」に秩序は存在するか? 本当の意味でわかっているのか? わからない。
ただ唯一定かなのは、頭ではわかっていても、その心は「わかる」と「わからない」の間でまるで振り子のように揺れ続けている。理解と拒絶の間の無限を、わかってはいるよが螺旋階段のように駆け下りては上る。
つまり、こうだ。
こうして「わかる」「わからない」の整理が完了した。
多様な形で同意を示したい、そんな思いから越智さんがスタートした膨大な数のデコモジ作り。あるときデコモジは言語の一つとなり、我々の言語感覚もそれをベースにアップデートされていくのかもしれない。
またいつかデコモジの迷宮に入り込んだ時、この会を開催したいと思う。
え、そんなことしてないで仕事しろって?
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後記:越智さんのデコモジは以下から利用できます。なお「ありえる」「わかりみ」「なるほどわからん」「わかり哲也」「わかる」についてはデコモジではなく、筆者の社内で作られたカスタム絵文字です。
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