インドを見る視座 ②印僑とインド民
(以下は、2023年末に投稿した内容をNoteにまとめたものである。連投という形でXには投稿したが、やはり文章としてまとまっていたほうが読みやすいので、こちらに投稿。)
今回は、インドを見る視座として、次の三つの中から、②印僑とインド民に関する章の投稿である。
① 国ではなく「地域」として捉えるインド
②印僑とインド民
③インドとの選択的関係性
インドを見る視座の二つ目は、実際に接するインドの人々をどのように見て、対応していけばよいのか、という問いに関係するものである。世界にはインド国内外に、インドに血統的なルーツがあり、我々日本人から見れば、インド人とみなされる身体的特徴を持つ人々が住んでいる。外国に定住していれば、彼らは印僑と呼ばれる。それとは対照的に一度もインドから出たことがなく、インドの物理的、文化的コンテキストの中で生まれ育ち、今も暮らしているネイティブインド人、「インド民」がおり、彼らが世界のインド系全体の98%を占める。これら二つのグループは、我々日本人から見れば同じインド人のという括りになるが、この二つの集団はまるで異民族かのように異なる文化的性質を発現する場合がある。極端な言い方をすれば、インドに来なければ本当のインド人である「インド民」に接することはできない。印僑として、インド地域の外で生活し、適応している人々に接するだけでは、インドという地域を動かす力、ロジックの大部分を担うこの「インド民」が、どのような人間であるか理解することはできないし、むしろ彼らを誤解することになる。
印僑とインド民をなぜ区別してとらえないといけないのかは、ちょうどコンピューターのハードとソフトを例に考えてみるとわかりやすい。Macの筐体であっても、WindowsのOSを走らせれば、外側はMacだが、中で走っているプログラムはWindowsであり、Macのコンピューターとは言えない。インドという地域が持つ特性に合わせたOSと、他の世界でも適用できるOSとがあまりに異なるので、もはやこれらは同じ筐体をしていても異なる扱いをしないといけない。昨今はグローバル企業のインド系CEOがクローズアップされ、インド人の能力や特性とともに紹介されるが、印僑である彼らの中身というのはインド民と全く別であり、インドを語る際の代表としてピックアップするにはあまりに不適切である。インド民に対する方法と同じような前提で印僑と接してしまうと、不必要な警戒と非礼を起こす可能性がある。印僑とインド民を全く別のものであると理解するとともに、「インド民」の特徴を知り、彼らが主導する組織や社会を理解し、必要に応じたコミュニケーションモードを選択できるようになることが我々日本人にとっては必要である。これが、インドを見る視座の二つ目である。
インド人の特徴について、インドを見る視座の一つ目で、次のように列挙した。①競争意識と自己防衛本能、言い訳文化。②時間感覚の緩さと、短期思考。③親族第一主義とその連帯(裏を返せば約束や法律などは二の次)、④これらを裏打ちする強い自己肯定感である。さらに、⑤ゲンキンで物質的な損得勘定の優先、⑥楽観思考と他責、⑦口頭主義と記録や文書化の弱さ、⑧人命価値の相対的小ささも加えておくこととする。これらをインド人の特徴と説明したが、正確に言えば、「インド民が持つ特性」であると言い換えなければならない。
ここまで列挙された特徴を見て、どう感じるだろうか。日本人としては、自分たちの倫理観と照らし合わせて、ポジティブな印象を持つ人間は少ないだろう。実際インド民の持つ特性は我々日本人を往々にして不快、不安にさせている。現地に住んで彼らと仕事をして生活を営んで、真剣かつ長期に彼らと付き合うことになればなおのことである。欧米人は我々よりもさらに強烈にインドのショックを感じているようで、彼らはできるだけインド民と接点を少なくするように生活しており、デリーでもショッピングモールなどであまり多く見かけない。そもそもインドまでわざわざ自国民を派遣し、苦しめるようなことをせずに、インドのことはインドに任せている欧米企業が多く、駐在員の数も日本や韓国企業と比べて多くはない。
インドでビジネスをしていると、よく見聞きするのは脱税や会社の私物化、公権力の横領である。インドの税理士に聞けば様々な脱税のスキームを簡単に伝授してくれるし、オーナー社長は、たとえ他社の資本が入っていたとしても会社を当然のように私物化し、役所の手続きは、公権力のある人間の口利きですんなりと進むことがある。これらは現代の先進国の社会、少なくともグローバルビジネスの常識からかけ離れたものであるが、インドという土地において最適化された行動であって、これによって彼らの利益を最大化できているという意味で、インド民は何ら修正するつもりを感じない。
インド民が持つ特性に関して、その普遍的な善悪を判断することに意味はない。我々としては、インド民の特性が我々とどのような点で異なるベクトルを持っているのかを認識し、企業社会や国際社会においてそれをどのように修正・活用・防御などの対応をしていけばよいのか見当するだけでよい。インド民は往々にして短期的な損得勘定で平気で嘘や誤魔化しに走り、スケジュール管理が下手で、時間も守らないという観測結果について、何パーセントの人間がそのような行動をしているか統計的な分析を行うことすら意味はなく、「そのような前提を持って彼らに接するほうが、物事がうまく進みやすい、という特性を持っている社会とその構成員が、インド民」という事実が重要なのである。彼ら自身でさえ、他のインド民がこのようなパーソナリティであることを念頭において生活しているのであるから、彼ら自身も否定できない事実である。そして、そのようなインド的な特性を持っていてもこの社会では生きていけるし、むしろ生きていくために適しているという社会がそこにあるという事実が、インド民の特性の力強さと根深さを物語っている。インド系の人間があまりに世界の至るところにいるので、インド人と我々の溝はあまり大きくないと感じてしまうかもしれないが、実際のインド民は、果てしなく隔たりのあるパーソナリティともに生きている。
インド民から、印僑に目を移してみる。彼らの姿形はインド民と何ら変わりはないが、インドの外に生活の基盤を置き、定住した人々である。何世代にもわたり現地で暮らし、国籍も変更済みの家庭もあれば、国籍は変えていないものの、永住者として現地に根を下ろしている場合もある。彼らはその血統と見た目にもかかわらず、前述のようなインド民の特徴をほとんど感じさせないか、薄くなっている。そして、言語的、文化的に現地の社会に溶け込み、インド的な特徴的な性質によって集団の中で軋轢を生じさせたりすることなく生きている(リトルインディアと呼ばれる地域を形成し、その限定的な場所でインド的に生きている場合もあるが)。印僑とインド民は、見た目やルーツが同じだからこそ、印僑を観察するとインド民が持っている特性がさらに鮮明になる。
彼ら印僑が、どのようなパーソナリティを持っているか、そしてどのようにしてそれを獲得できたのか、具体的な印僑の例を見てみるのが最もイメージしやすい。現イギリス首相のリススナク氏は、印僑の代表例であり、最も成功した一人といえる。まず、彼は生物的な見た目はどこからどう見てもインド人である。しかし、インドで生活したことは一度もない。英国民として、イギリスで生まれ、英国の全寮制高校に通い、オックスフォード大学とスタンフォード大学に通い、ゴールドマンサックスを経て、英国の国会議員になった。英語にインドなまりは一切なく、非常にきれいなイギリス英語を話す。もし、この世にラジオしかないなら誰も彼がインドにルーツがあると気づかないだろう。彼が青年時代を過ごしたイギリスの貴族が行くような全寮制学校の伝統は、インド的特性として列挙した要素と真反対を美徳とし、公に対する自己犠牲にも通じるノーブレスオブリュージュの精神を大事にする。彼が活躍した金融業も、信用と信頼、そして時間や法律に厳密で、小手先の言い訳や都合のよい不正など許されない世界である。彼は首相になったからといって、取り巻きを自分の家族で固めたり、親族の会社に便宜供与などはしない。もちろん政教分離の原則に従い、特定の宗教を優遇したりはしない。性意識についてもLGBTに寛容で、人種差別に関する自身の苦い経験とそれに反対する明確な人権意識も持っている。まさに筐体はインド人だが、ソフトウェアはイギリス製で、肉体以外は、インド的要素の香りすら見えてこない。
非常に際立った印僑の例としてリシスナク氏を挙げたが、米国や英国やオーストラリアなどを中心に、同じようにインド的要素が薄くなり、中身は現地の人間に近くなった多数の人々が印僑として暮らしている。その中には、現地で生まれて、教育を受け、現地の言葉を母国語として、ヒンドゥー語はあまり話すことができない者もいる。インドで生まれた場合でも、パーソナリティが形成される高校や大学からインドを離れた状態が継続し、現地で職を見つけ、国籍や市民権を獲得するレベルまで現地化している人々もいる。グーグルCEOのサンダービチャイ氏やMSのサティアナデラ氏などもその例だ。彼らはインドの競争の波を勝ち抜いて、自由と資本主義の頂点ともいうべきアメリカの企業社会のなかで最高位にまで上り詰めたにもかかわらず、我々が想像するような、インド的な狡猾さや大胆さを発揮したのではなく、むしろ、彼らは二人とも調整型のリーダーとして社内外で有名な人物である点は興味深い。グーグルのサンダーピチャイ氏と実際に仕事をした社員からも同様の人物評を聞いており、彼は誰からも好かれる人物で、やさしすぎるほど聖人君子で、人の話をよく聞く人物として社内で通っている。彼らもリシスナク氏も、狡猾な自己中心主義と短期的な損得勘定、縁故を使った家族主義的に代表されるようなインド的特性を武器に成功を掴んだのではなく、むしろそれとはまったく異なる現地で重視される素養を発揮して、成功したのである。
パーソナリティが広く知られている著名な人物を例に出して、印僑がいかにインド的要素と非常に距離があるパーソナリティを持った存在であるかを紹介したが、一般の人々を観察してもこれらは見えてくる。日本企業が、国際感覚があるインド人現地社員を日本やシンガポールに人材を送り込むことがある。彼らの動態見ていると、外国で認められる優秀な人間であるほど、インドという地域やそこにいるインド民に対して、徐々にネガティブな感情を持ち始め、何かしら理由を見つけてインドにできるだけインドに戻らないように努力している実態を見た。もちろんそもそもの生活環境の良さもあるが、外国に適用するために、パーソナリティを改造した結果、インド民とは異なる規範が醸成されはじめ、インド民に対する居心地の悪さと嫌悪感を持ちはじめている過程が見え隠れしていて面白い。おそらく、さらに長い時間と世代を経て、インド民から印僑になっていくだろう。
もちろん全ての在外インド系住民を、インド民と印僑に分け、明確に分類するのは適切ではない。その境界はある程度あいまいであることを認めなければならないだろう。インドで仕事をしていると、インドの大学を卒業し、外国の大学院に行ったものの、結局現地で印僑になりきれずにインドに戻ってきて親族のビジネスに紐づいている金持ちのインド人の若者や、ドバイなどの中東地域に出稼ぎに出ているインド人をしばしば見る。彼らはインドと外国を行き来したり、短期的にインド国外に住んでいるものの、実際接してみると、行動規範や倫理観の根幹はインド民の要素が強い人々である場合が多い。それでも、完全なインド民と比べれば多少の外国文化への理解や素養を持っており、少なくともインドの中の常識とその他の国の常識や倫理観の間に隔たりがあることを客観視できている者が多い。一般用語では彼らは印僑と言わないものの、インド民と外国人を僑渡しする存在として、広義の意味での印僑と意識してもよい。
インドを見る視座の一つ目では、マクロ的な視点から、インドの多様性を認識する視座を説明した。二つの目視座においては、個人というミクロ的な視点においても、我々日本人から、「インド人」 に見えている人々の中でも、相互にかけ離れた二つのグループが存在することを説明した。彼らは異なるルールにしたがって動いているので、我々としても相手がどちらの要素が強い人間かによって、予想される行動やリスクを想定しなければならない。今後インドがさらに発展していくと、華僑とインド民の両方に接する機会は増えていく、その時に、この視座を持っているかどうかによって、相手を観察する解像度は違ってくるだろう。
次の記事では、③インドとの選択的関係性、について説明していく。