新刊無料公開『なぜアジはフライでとんかつはカツか?』 その1「序」
新刊ではカツレツ、とんかつ、魚のフライ、コロッケの様々な謎を解き明かすとともに、嘘・デタラメだらけの日本西洋料理近代史を、膨大な資料をもとにゼロから書き直します。
それでは『なぜアジはフライでとんかつはカツか?』、冒頭部分をお楽しみください。
1853年7月8日、黒船来航。1858年7月29日に日米修好通商条約が結ばれ、翌年横浜が開港することとなる。
外国人を迎えるにあたってまず日本人がしたこと。それは遊女街すなわち遊郭の設置であった。
日本各地から横浜に遊女を集めるとともに、饗応の場(揚屋)において西洋料理も提供されることとなり、メニュー表「横浜揚屋料理献立」が作成された。
雑誌『食道楽 昭和6年5月号』記事「横濱開港當時の西洋料理」(高岸拓川)に、横浜開港の年、1859年の「横浜揚屋料理献立」の内容が転載されている。
そこには上の画像にあるように、“こてれつと”なる料理が登場する。
鶏肉を叩いて紙に包んで焼いた料理。これが日本最古の、カツレツの記録である。
横浜開港の二年後、1861年に、19世紀イギリスを代表する料理書(家政書)が出版される。編集したのはイザベラ・ビートン。
彼女が編集した『BEETON'S BOOK of HOUSEHOLD MANAGEMENT』はたちまちベストセラーとなり、現在も出版され続けている。19世紀はおろか、イギリス史上最も有名な料理書(家政書)といえるだろう。
その『BEETON'S BOOK of HOUSEHOLD MANAGEMENT』に、「横濱揚屋料理献立」と同じ鶏肉のカツレツ(CHICKEN CUTLETS)レシピが載っている。
しかしながら、そのCHICKEN CUTLETSの調理法は、紙で包み焼く「横濱揚屋料理献立」のそれとは全く異なるものであった。
その調理法は、溶き卵を塗ってパン粉をつけてフライする、というもの。
『BEETON'S BOOK of HOUSEHOLD MANAGEMENT』には、豚の一枚肉に溶き卵を塗ってパン粉をつけフライするPORK CUTLETS=ポークカツレツレシピも掲載されている。
現代日本のポークカツレツ、チキンカツレツに通じるパン粉フライのレシピが、明治維新前後にベストセラーとなっていた、イギリスの料理書に掲載されていたのだ。
後ほど述べるように、『BEETON'S BOOK of HOUSEHOLD MANAGEMENT』の一部のレシピは翻訳され、現存する中では最古(1872=明治5年刊)の西洋料理書『西洋料理通』(仮名垣魯文)に転載される。
その翻訳されたレシピの中には、羊の一枚肉に卵液とパン粉をつけて揚げた、マトンカツレツのレシピも含まれていた。
1890(明治23)年、東京に帝国ホテル開業。本格的な西洋料理を提供するレストランを開設し、精養軒とともに東京の西洋料理シーンをリードする店となる。
その初代料理長吉川兼吉と、同ホテルで料理人を務めた息子・林造が書いた料理書が、帝国ホテルに保管されている。
料理名はフランス語を基調としているが、その中に記載されているカツレツレシピは英語表記、「Chicken Cutlets チッキン カツレツ(純英国式)」である。
その調理法はと言うと、イザベラ・ビートンのCHICKEN CUTLETSと同じく、卵を塗ってパン粉揚げにしたもの。ただし鶏肉を細かく刻んで整形して揚げている。
そして最後に「備考」として、奇妙な言葉が踊っている。
つまりチキンコロッケの形を木の葉の形にして揚げると、チキンカツレツになるというのである。
これから続く章で詳しく説明していくが、結論から言うと、「横濱揚屋料理献立」、『BEETON'S BOOK of HOUSEHOLD MANAGEMENT』、帝国ホテル初代料理長の料理書、いずれのチキンカツレツも、間違いなく当時のイギリス料理=chicken cutletsに他ならない。
レシピごとに千変万化する謎のイギリス料理、cutletとは、いったいどのような料理なのであろうか?
チキンカツレツ、ポークカツレツだけではない。『BEETON'S BOOK of HOUSEHOLD MANAGEMENT』には、パン粉をつけて魚をフライしたレシピも13種類掲載されている。パン粉をつけて揚げる料理は、この時代のイギリスの定番料理と言ってよい。
近代フランス料理の父ジョルジュ・オーギュスト・エスコフィエによると、当時のフランスでは卵を塗ってつけたパン粉の衣のことを pané à l'Anglaise(イギリス風パン衣)といった。つまり、フランス人にとってのイギリスの典型的料理とは、パン粉揚げの料理だったわけだ。
もしとんかつがフランスから渡来していたとするならば、その料理名はとんかつではなく、トン・ア・ラングレーゼ(豚のパン粉揚げイギリス風)という名前になっていただろう。
このレシピは『BEETON'S BOOK of HOUSEHOLD MANAGEMENT』の舌平目のフライ(FRIED SOLES)。パン粉揚げの舌平目に、揚げたパセリとレモンを添えている。
パセリとレモンは、イギリスにおける魚のパン粉揚げ料理の付け合せである。パセリは揚げる場合と、生の場合がある。
この絵は1895年のイギリスの料理書、『The Housewife's Manual of Domestic Cookery』(Mrs. H. M. Young)における舌平目のフライ(FRIED SOLE)の絵。舌平目のパン粉揚げの周辺に、生のパセリとカットレモンを添えている。
現在の日本の魚のフライ、パン粉で揚げてパセリとカットレモンを添えた洋食の定番料理は、19世紀のイギリスから渡来したものである。
ところが現代のイギリスでは、パン粉で揚げてパセリとレモンを添えた魚のフライを見ることはほとんどない。なぜイギリスではこの伝統料理が失われてしまったのだろうか?そしてなぜ、日本に継承されているのであろうか?
さて、今まで見てきたイギリス料理のレシピには、鳥獣肉のパン粉揚げの場合はcutlet、魚のパン粉揚げの場合はfryという料理名がついていた。
ところがこの命名規則には、例外がある。『BEETON'S BOOK of HOUSEHOLD MANAGEMENT』のフライドファウル=鶏肉のフライ(FRIED FOWLS)。
この時代のchickenは若鶏、fowlは年齢雌雄にかかわらずニワトリという意味。同じ鶏肉のパン粉フライレシピなのに、chickenはcutlet、fowlはfryと命名されているのである。
『BEETON'S BOOK of HOUSEHOLD MANAGEMENT』には魚介類のカツレツレシピも存在する。ロブスターカツレツ(LOBSTER CUTLETS)はロブスターのパン粉揚げ、鮭のカツレツ(SALMON CUTLETS)は「横浜揚屋料理献立」の鶏肉の“こてれつと”のように、鮭の切り身を紙に包んで焼いた料理だ。
混迷を極めるcutletとfry。いったいイギリス料理の命名規則はどうなっていたのだろうか?
そしてなぜ日本では、アジのような魚介類のパン粉揚げをフライ、とんかつのような鳥獣類のパン粉揚げをカツレツと呼び習わすのであろうか?
当書はカツレツ、フライの歴史に加え、同じパン粉揚げ料理であるコロッケの歴史も追っていく。
コロッケは、もともとはホテルのレストランで出されるような高級フランス料理であった。戦前に日本に定着した三大フランス料理といえば、コロッケ、メンチカツ、スパゲッティ・ナポリタンである。
フランス料理のコロッケの種類は多彩である。ところが日本ではコロッケと言えばすなわちポテトコロッケということになっている。それはなぜなのか?
そしてなぜ、もともとフランス料理であったコロッケに、イギリスに起源を持つ調味料ウスターソースをかけるようになったのか?
フライにスープ、シチューといった料理名。ナイフやフォークなどの食器の名前。日本の西洋料理用語は、英語が基本となっている。なぜ、英語なのか?そしてその中で、なぜパンは英語のbreadではなくフランス語のpainなのか?
帝国ホテル初代料理長の料理書における料理名は、英語ではなくフランス語の料理名が多い。とはいえ、チキンカツレツのような英語名のイギリス料理、アメリカ料理も記載されている。
後の章において、戦前の帝国ホテルで実際に出されていた料理を検証するが、やはりフランス料理だけでなく、イギリス/アメリカ料理も提供されていた。戦前の精養軒も同様である。
なぜ、現在ではあまり評判が良いとはいえない、イギリス/アメリカ料理の影響が、日本の西洋料理の随所に見られるのか。
そもそも日本の西洋料理は、どの国から、いつ、なぜ、どのようにやって来たのか?
当書では日本の西洋料理史を、この基本中の基本の謎から解き明かしていく。
昭和6年、東京において「とんかつ革命」が勃発。
明治末期に生まれた「とんかつ」という言葉は、「ポークカツレツ」のあだ名に過ぎず、昭和6年までは、この2つの言葉に意味の違いはなかった。
そして安洋食屋において安く提供されていたポークカツレツ=とんかつという言葉は、「平凡」「安物」というニュアンスを帯びていたのである。
大正14年4月8日の朝日新聞東京朝刊記事「噂の人」に、ある官僚の人物評が書かれている。
そんな冴えない印象を持たれていた料理、とんかつ=ポークカツレツ。ところが昭和6年以降、「とんかつ」という言葉は「ポークカツレツ」と分離し、それまでの安物というイメージから、こだわりの一品という正反対の意味を付与されるようになる。
そして「とんかつ屋」という新カテゴリの店舗が生まれ、モボやモガが殺到し、東京中に急増するのである。
昭和7年の雑誌『料理の友』に載ったコメントである。下品な安物だった「とんかつ」が、突然最先端の流行グルメになった事態に、戸惑う様子が描かれている。
それにしてもこの「とんかつ屋」というのは奇妙な業態である。
西洋料理店ではドアであるべき入口は、とんかつ屋においては引き戸。そこには暖簾がかかり、英語やカタカナではなく、ひらがなで「とんかつ」と書かれている。
店の造作も日本料理店を模しており、コックではなく和食店風の服装をした店員が、まるで天ぷら屋のように、客の目の前のカウンターでとんかつを揚げている。
いったいこの「とんかつ屋」という突然変異種は、誰が、何を目的に生んだのであろうか?そしてなぜ、昭和6年に生まれるやいなや大流行を生み出し、東京中に増殖したのであろうか?
当書は当時の記録を詳細に追うことで、現在の「とんかつ」が生まれた昭和6年の東京の状況を再現していく。
当書はまず最初に、カツレツの歴史について検証していく。
カツレツの歴史を語る際に、避けては通れない店がある。
銀座の老舗・煉瓦亭。
ポークカツレツはこの店が発明した、というのが現在の定説となっている。
カツレツはフランス料理コートレットが日本で改変された料理、天ぷらをもとに発明された料理という説も、全てこの煉瓦亭の主人の証言を、根拠としているのである。
その2「第一章 煉瓦亭という名のモンスター 」1.煉瓦亭という名のモンスター に続く→