【1万字インタビュー】大谷氏&とっちゃんが語る“地下生活者”とその時代、そして恋の話
──今回のインタビューは「これを読めば大谷氏withとっちゃんの活動の全てがわかる!」という趣旨ですので、まずは音楽を始めたきっかけを聞かせてください。
大谷氏 きっかけとしては、中学校の頃がちょうどフォーク流行ってた時期だったし、友達が(フォークを)やってたのが面白そうで、自分でも始めてみたら、どんどんハマっていった……って感じですね。
──そのころ、憧れのアーティストは?
大谷氏 当時はほら、メジャーのアーティストしか知らなかったから。あの頃はやっぱり陽水・拓郎の時代やったから、その辺から入った感じですね。ギター弾いて、歌うスタイル。いろいろ憧れたね~、高田渡さんに憧れたりね。70年代のいわゆるフォークシンガーの人たちは憧れでした。
とっちゃん 私は保育の専門学校の軽音同好会に入っていて、それでギターを弾き始めたら、先輩から「曲、作った方がいいよ」と言われて。その頃は普通にイルカとか聴いてましたね。後に“地下の人たち”と出会ってからはいろいろ聴くようになったかな。
──“地下の人たち”との出会いのきっかけは?
大谷氏 まあ、そのころに上京してね。中学ぐらいからギター始めて、どんどんのめり込んで、いろんな人のカバー歌ってて、そのうち自分でも曲を作って、それが面白くってさ。高校の途中の頃にはもう「俺は音楽で食って行くんだ!」って決めちゃったというか、思い込んじゃったというか、いわゆるプロを目指したんですよ。で、とにかく東京に行かなきゃと思って、鍼灸の専門学校に行くという口実で富山を出ました。とにかくもう、東京出てしまえば絶対に何かはあるだろうと思ったんです。
──「とりあえず東京に出る」のはみんながやることですよね。
大谷氏 高3の時に某レコード会社のオーディションに応募したら、全国大会まで行って「特別賞」貰ったりしてね。もう完全にプロになれると確信してたわけですよ。「プロになれる」どころか、その当時の音楽業界は70年代のフォークの流行が終わって、その反動で冬の時代が来てて、80年代には“ニューミュージック”なんて言われとった、僕らにしたらあんまり面白くない人たちが世の中を席巻してまして。そこに俺が殴り込んでやる!みたいな、フォークの救世主のつもりで富山から上京したんです。(笑) で、とりあえずライブハウス情報誌を見たら、今で言うオープンマイクみたいなことをやってる店があって、じゃあ……と思って行ったのが、両国にあるフォークロアセンターだったんです。
──両国フォークロアセンター!今や伝説の場所ですね。
大谷氏 そう。フォークロアセンターに行ったんですよ。そこでもうホント、今考えたら奇遇というか縁というか、石川浩司と出会って……知久寿焼もいたっけな。そういう人たちと出会いました。それまでは完全に“お山の大将”というか、富山ではダントツの個性みたいな気持ちでいたんですけど、東京のライブハウスでいきなりとんでもないのと出会って、「東京にはこんなのがゴロゴロいるのか!」と思ってさ。俺は井の中の蛙だったのかとショックを受けました。(笑)
──後から考えると石川さんたちが特殊なんですけどね。(笑)
大谷氏 そうなの。(笑) そのあと何軒かライブハウスやオープンマイクを回ったけど、そんなに面白いヤツっていなくてね。結局石川とかと一緒になるようになったんです。なんとなく気が合ったというか、お互いの音楽が面白いと思って。
──当時のフォークシーンに対してはどんな立ち位置でしたか?
大谷氏 周囲からは浮いてました。“ちゃんとしたフォーク”をそのまんまやってる人たちや、ガラッと(音楽性を)変えてニューミュージックをやってる人たちがいる中で、浮いてたもん同士で、なんとなく波長が合って、お互いのライブ行ったりしてたから。まあ浮いてましたね。(笑)
──当時はどんな曲を書いていたんですか?
大谷氏 一風変わったフォークでした。生ギターの弾き語りでね。その時に、池袋で毎週日曜にストリートシンガーをやってる青木タカオという人と知り合って、「大谷さんもどうですか?」と誘われたんです。当時の僕はもうとにかく歌いたくてしょうがない時期で、ストリートシンガーになんとなく憧れもあったし、道端で歌ってみようと思って、毎週日曜日、池袋に通い詰めたんです。
──今ではなかなか見られない光景になりましたね。
大谷氏 そしたらさ、とある2月、すっごい寒い中、ずっと(歌を)聴いてくれる女性がいたんですよ。もう2時間、3時間も聴いてくれたので、さすがにちょっと声をかけてみようかなと思い、「今度ライブやるんで、よかったら来てください!」みたいな感じで声をかけたんです。それが後の女房(とっちゃん)だったという。(笑)
──え~?! ロ、ロマンチック~! 映画みたい!
とっちゃん 私は学生の頃、路上で歌ってる青木さんを何回か観に行ってたんだけど、しばらく行かない時期があり、久しぶりに行ってみたら、たまたまこの人(大谷氏)と知久くんとイシ(石川浩司)が歌ってたんです。「面白い人たちがいるな~」と思って聴いてたら、「今度ライブあるので来ませんか?」って言われまして。(笑) そんな流れで、両国フォークロアセンターに行ったんです。私、それまでライブハウスってあんまり行ったことがなかったので、「ライブハウスってこんな畳敷きの蕎麦屋の2階にあるんだ……」って思ったんですよ。(笑)
──私の中で“保育の専門学校”と“両国フォークロアセンター”が繋がらないのですが、とっちゃんさんはどうしてこの世界に飛び込んだのでしょうか。やっぱり青木さんのお誘いで?
とっちゃん 専門学校に行ってた時は青木さんのことだけを知ってて、たまに何回か(ライブを)見に行って……という感じでした。特に私は、もともとそんなにいろんなライブに行ったりするタイプではなかったのですが、偶然、駅前で出会ってしまって。(笑)
大谷氏 出会った当時は“地下イベント”も無かったし、石川も地元から出てきた頃でさ。
とっちゃん 知久くんとか高校生で、ほんと“歌い始め”って感じだったよね。(笑)
大谷氏 で、だんだんお互いに面白いと思えるシンガーが集まってきたら、誰からともなく「路上は路上だけど、どっかでイベントやろうか」っていうことになったのが<地下生活者の夜>の始まりでした。始まりって言っても、ただ一緒に「なんかやろう!」ってだけで、大層なものじゃなかったけど。
とっちゃん 今は亡くなってしまったけど、山下由さんの存在が大きかったね。
──そうして結果的に出来上がったのが<地下生活者の夜>だったんですね。山下由さんのお名前はよく伺います。
大谷氏 カミソリのように尖った詩人だったよね! ちょっと怖いの。(笑)
とっちゃん ちょっと怖かった。(笑) でも、かっこよかったです。
大谷氏 かっこよかったよね。社会性が薄くて「この人、どうやって生きていくんだろう?」と思ってたけど、頭だけは異常に良かったから、結局、貝類学者になってね。そんな一風変わった人たちが集まってました。
──やっぱり当時としても尖ってらっしゃる人たちが集まってたのですね。
大谷氏 とんがってるって言っても、喧嘩っ早いとか暴力とか、全然そういうのじゃなくて、むしろみんな気が弱くてね。(笑) でも、内に秘めたるものがあって、変に融合しない、価値のある尖り方した人たちでした。
──とっちゃんさんは当時、どんな曲を書いていらっしゃったんですか?
大谷氏 当時はもう本当に、保育園の先生になるような曲でした。俺らとは違う感じ。
とっちゃん 可愛い感じでしたね。ギターの弾き語りで、ひとりで歌ってました。
──その当時、仲が良かったのは?
とっちゃん あかねさんとか、うつおさんとか、今は活動休んでるけど、くぼあつこさんとか。皆さんと知り合ってからあがた森魚さんや原マスミさん、“地下生活者”の中の橘高祐二さんを聴くようになって、そういった方々の影響もありました。
大谷氏 当時はお互いの歌が面白くて面白くて、ライブに行き合ってたけど、いわゆる仲良しサークルの馴れ合いじゃなくて、バチバチの影響の受け合いみたいな感じはあったね。
──昔の画家たちの「〇〇画派」みたいな感じかもしれませんね。外からの影響をあまり受けず、内側だけで洗練されていったような。
大谷氏 今思えば、狭い世界なんやけど、すごく濃厚なところに住んでました。探しても他にはあんまり面白そうなものがなくて……いや、でも、今思えばね。70年代のフォーク・ブームが終わって、80年代にはパンク、ニュー・ウェイヴからの東京ロッカーズが出て来てたのに、全然知らなかったんですよ。あとから思い返すとホントいろいろ見ときたかったな~って。
──貴重なライブがいっぱいあったはずだったなって。
大谷氏 いっぱいあったはずなの。全然知らんかった。(笑) その辺はむしろ石川の方が詳しくて、突然段ボールとかも知らなかったから、一緒にライブに連れて行ってもらいました。それがだいたい1980年から1985年ごろのことです。
──富山に戻られたのはいつ頃ですか?
大谷氏 1984年になります。完全に音楽でやっていくつもりで上京したんだけど、いざ上京してみたら自分の嗜好はどんどんアングラに行くし、メジャーとのギャップができるばっかりで、自分から売り込みに行くタイプでもなかったし……でも、とにかくその頃はアングラな活動に夢中でやってました。結局5年東京にいたんですけど、俺らのときってほら、「田舎の農家の長男」つったらね、やっぱりどうしても実家に帰らなきゃならないっていうのがあって。
──それは今でも少しありますね。
大谷氏 で、親父もちょっと目が不自由なもんで、それも見捨てられないし、田舎に帰るという悲しい選択をしました。まあ5年間やって、自分でも「しょうがない、音楽は富山でやればいいんだ」と思って、富山に帰ってからはパンクやニュー・ウェイヴも聴くようになりました。
──というと、「富山パンク、ニュー・ウェイヴシーン」があったんですか?
大谷氏 あったんですよ。当時、俺は“地下生活者”にいてフォークをやってたから全然関わってなかったけど、富山に帰ると、もう“地下生活者”みたいな「自分たちとよく似た面白い世界を持ってるコミュニティ」は無いわけですよ。無いんですけど、「変わった人たちが集まってるコミュニティ」はどこにでもあるんです。そしたら(地方だと)嫌でもノイズ系の人たちがシーンからはみ出してしまうので、そっちの人たちと、はみ出しモノ同士で仲良くなっていってね。(笑)
──確かに、地方だとパンクやノイズ、ニュー・ウェイヴ系が一塊になることはありそうですね。
大谷氏 で、富山に帰ってコツコツやってたら、たまのブレイクがやって来たんですよ! 仕事してたらいきなり、ついこの間まで一緒にやってたヤツらの「さよなら人類」が流れてきてさ。もう王様と乞食のようなことになって、びっくりしました。(笑)
──それはびっくりしますよね。(笑) その当時、とっちゃんさんも大谷氏と一緒に富山のほうへ行かれたんですか?
大谷氏 これはもう、恋の話なんですけどね。いわゆる遠距離恋愛を3ヶ月くらいしたんですが、電話代もかかるし、やっぱりちょっと難しいということでね、結局富山に嫁いでもらいました。
とっちゃん 一緒に住んだんだよね、東京で。
大谷氏 そうそう。専門学校が3年で終わって、全然音楽でやっていけないのがわかったから、1回富山に帰ったんだけど、遠距離恋愛が辛くて辛くて、家出したんですよ。(笑) 石川には「20歳までは家出だけど、20歳過ぎたら“蒸発”だ」って言われたんだけど、親に「あと2年だけ好きにさせてくれ! 2年でダメだったら本当に帰るから!」って言って、本当にダメだったもんで、その時はお嫁さんを連れて実家に戻りました。昭和ですね。(笑)
──いや~、素敵な話ですよ。
大谷氏 嫁さんを連れて帰って、向こうに行ったら、もう本当にふたりきりでコツコツやるしかなくてね。地道な活動をやってました。
とっちゃん 東京にいた時はお互いにソロとして別々にやってたけど、なんでかあっちに行ったらふたりになったよね。
大谷氏 だってふたりしかいないんだもん。向こうでバンドメンバー見つけるのにも数年かかったし。でも、逆にね。東京で5年間過ごしたあと富山に帰ったら、なんというか、変な束縛感が無くなったんですよ。なんつーのか、うまく言えないけど、変なこだわりとかが無くなって。一周回ってちょっと素直になったような感じになったんです。
──垢抜けた感じ?
大谷氏 まあ、プロを目指して上京したので都落ちは挫折だったんですけど、挫折した事で自由になれたと言うか……もうプロを目指さなくてもいいし、好きにしていいんだと。音楽にプロもアマも無いぞ、と腹がすわったと言うか。活動面では田舎だとデメリットも多いけど、創作面では周りを気にせず、よりマイペースに創作に没頭出来るようになったかもね。周りを見渡しても海か山だし。(笑) 若かったからネオンも恋しかったけどね。(笑)
──それは音楽性に対して良い影響だったかもしれませんね。
大谷氏 うん。で、自分なりの音楽を地道にやってた。それがだいたい1985~1988年ぐらいです。たまが90年代にヒットしたときには富山でバンドやってました。ただ、富山に帰ってたけど、やっぱり2~3ヶ月に1回は東京で定期ライブやってたんですよ。なんかやっぱり、全く繋がりが無くなったらアレだからね。
──そのころ、交通的には今よりだいぶ不便でしたよね。
大谷氏 そうですね。新幹線はなくて、特急で6時間とか8時間とかかかりました。でも次のライブ目標が無いと、自分を持て余しちゃって生きづらい所があってね。ずっとやってます。
とっちゃん 車で来たりもしてたよね。
大谷氏 今は2時間半で着きますが、当時はホント、東京に行くって言ったら一大イベントだから、2~3ヶ月に1回か、年に4~5回しか(東京に)行けなかったんです。やっぱり東京との繋がりも欲しくてライブしに行ってたけど、細々としてたんですよ。でも、たまがドカーンとヒットしてさ。今思えば、そのおかげでたまのファンが<地下生活者>イベントにも流れてきて、賑わってきました。コアなファンは私のことも見つけてくれて、面白いと思ってくれたりして、ちょっとお客さんも来るようになって……今思えばありがたい話ですね。
──でも、その当時もホルモン鉄道はあったんですよね?
大谷氏 まあ、たまが忙しい時はそれどころじゃなかったし、こっちもたまの七光りでやるのも癪だったから、「俺は俺でやるぞ!」って感じでやってたんですけどね。(笑) 数年経って、たまブームが落ち着いてきて、石川にも余裕ができたころ、「ちょっと一緒にやるか」となりました。あいつら(たまメンバー)もメジャーに疲れてさ、ちょっとアングラが懐かしくなった所もあったりして、「じゃあちょっと一緒にやるか」って、ホルモン鉄道みたいな活動をやりだしたんです。
とっちゃん でも最初は偽名とか使ってたよね。
大谷氏 いろんな偽名使ってたね。(笑) 一応、ちょっと「たまを出さないでやろう」って感じがあって。でも出てくるのは結局あいつ(石川)だから。(笑) たまの活動が落ち着いてからはホルモン鉄道を(本格的に)やるようになったね。
とっちゃん そもそも“ホルモン鉄道”っていう名前もアルバムのタイトルだったんだよね?
大谷氏 そうそう。『ホルモン鉄道』ってタイトルのアルバムを作ったんだけど、みんなが俺たちのこと「ホルモン鉄道、ホルモン鉄道」って呼ぶからホルモン鉄道になったの。
──そうしてホルモン活動の活動が本格化(?)していったわけですが、その間にはお子さんも生まれたりしていますよね。そのときはいったんお休みなどされていたのでしょうか?
大谷氏 いや、全然。(笑) 子どもをおぶってやったりしてたんです。他の共演者やお客さんに「歌ってる間だけ(赤ちゃんのこと)見ててください!」みたいなこと言って、結局一度も休んだことないの。もうライブ中毒というか、ライブ無いとダメなんですよね。3ヶ月以上空いたことないもん。出産の時はさすがにだけど、それでも3ヶ月ぐらい休んだだけ。次のライブ目標がないと生きづらいって所があってね、ずっとやってます。
とっちゃん 子どもを産んだのが24歳くらいで、まだいろいろやりたい時期だったから、結構子ども連れて行ってたね。
──ちなみにお子さんは音楽をやってらっしゃるのでしょうか?
とっちゃん それが、やってないんだよね。(笑) あんなに周囲に音楽が溢れてたのに。
大谷氏 吹奏楽部でサックスをやってたけど、そこでやめたよね。反発まではいかないけど、興味示さなかったね。全然普通の、メジャーな音楽聞いとったしな。
──大谷氏はメジャーな音楽で好きになった音楽はありましたか?
大谷氏 俺はないね。まあ洋楽でボブ・ディランとかは全然メジャーだけど、それで満足しちゃって、日本ではあんまり無い。10代の時は日本のフォークを聴いてたけど、20代からは洋楽か友達の歌って感じでした。
とっちゃん 私もあんまり聴いてなくて。一時期ハマったアーティストはいたけど、メジャーシーンではないし。
大谷氏 あんまりメジャーアーティスト興味なかったよね。自然とそうだった。まあこれは好みでしょうね。ラジオで流れたり、テレビで見ても全然ピンとこないし。
とっちゃん 子どもが生まれて、テレビからも離れちゃったのもあって、それをきっかけに、ちょっと世の中から離れてしまったのかもしれないですね。
大谷氏 とっちゃんは昔からあんまり買わないね。俺はレコードとかCDとかどんどん面白いのないかと思って探して買ってたけど、とっちゃんはほとんど買わない。あんまりそういう欲求はないのね。でも、「あ、これいいな」と思うものは、不思議とほとんど一緒なんです。なので、俺の好きな音楽の中からとっちゃんが「これとこれ、いいね」って感じで聴いてます。
とっちゃん 確かに私、滅多に買わないね。ライブは見たいと思うけど……音源で聞くより、やっぱり生で見たいなっていう気持ちがあります。
大谷氏 生派だね。俺はどっちかっていうと音源派だ。マンツーマンで、好きな時に好きな気分でじっくり聞きたい。ライブはライブでもちろんいいけどね。
──音楽以外のところで、影響を受けた文学や映画はありますか?
大谷氏 恥ずかしい話、俺、本当、文学音痴というか、小学校の時から漫画ばっか好きでさ、漫画ばっか読んでたの。その後すぐ音楽に行っちゃったもんで、文学はほとんど嗜んでない。(笑) 漫画は好き嫌い無く、少女漫画までなんでも読んでました。子どもの頃は文化も田舎だったんだけど、近所に貸し本屋が3軒あって、そこにある漫画を全部読んでたから。とっちゃんはもうちょっと文学的だよね。
とっちゃん 文学的でもないけど、宮沢賢治とか好きでした。本も読んだりしたけど、それから影響を受けてるかはちょっとよくわからないです。どちらかと言えば、生活の中で感じたことが歌になってるイメージなので。
大谷氏 俺は文学音痴だから、こんだけ何百と歌詞書いてるけど、いわゆる“詩人の詩”はほとんど読んだことなくて。でも、いろんな人の歌詞を読んで育ってきました。
とっちゃん でも、すごい言葉のバラエティあるよね。
大谷氏 いろんなの聴いてるもん。いろんな人の歌詞を聴いてきたから。歌詞カードも読んだりしてさ。
──1番衝撃を受けた歌詞って、なんですか?
大谷氏 どれだろう。わかんないけど、ディランは大きいと思う。でもディランっていうより、山下由さんとか橘高祐二さんとか、そっちの方が大きいかも。マイナーな“地下生活者”のミュージシャンだけどね。
とっちゃん 確かに。私も歌詞から影響受けてる所があるかも。
──当時、“地下生活者”シーンの中で嫉妬はありましたか?
大谷氏 みんな、自分より売れたら嫉妬するけど、そんな根深いもんでもないって感じ。「このくそ~!」とか思いつつね、自分は自分でやるしかないですからね。とっちゃんは全然気にしないよね。名声とか権威とか、全然興味ないんですよ。
とっちゃん 人のことはあんまり気にならないですね。とにかく「歌ができたら歌ってみようかな」って感じです。
──それはすごく歌詞に表れてると思います。清らかですよね。
大谷氏 とっちゃんにはメジャー志向とか、受けたいとか、そういう意識が全然ないから。この人の歌は純粋ですね。
──ところで以前からとっちゃんさんに聞きたかったんですけど、旦那さんが歌う下ネタ曲をサポートするとき、どういったお気持ちなのでしょうか?
とっちゃん 「曲だからしょうがない」って思ってるくらいかな。「これはなあ……」って思ったりはしますよ、もちろん。(笑) でも結局「曲だからしょうがない」って思ってしまいます。ステージの上では、自分が(メインで)演奏してるとき以外、できるだけ存在感を消そうとしてるんですが、気にして見てる人もいるんですよね。
──皆さま、奥様だってわかって見に来てらっしゃいますしね。ところで大谷氏の詞はとても独特ですが、「何かを目指して」このような表現になったのでしょうか。「何かを避けて」このようになったのでしょうか。
大谷氏 何かを目指してるんだけど、それが何かは上手く言えない。(笑)
──例えば「セロテープ」だったら、どんな感情を説明しているのですか?
大谷氏 それもね、上手く説明出来ない。(笑) 説明しきれない何かを表現したいというか……。
──内容を決めて書くことももちろんあるとは思いますが……。
大谷氏 そういう部分もあるけど結局、そこからはみ出したりしてね。そこが面白かったりね。無意識の感性の広がりと言うか。
──「包茎ジョナサン」とかも最高にくだらなくて好きなんですよね。
大谷氏 あれはね、本当にくだらなくてさ、ボツにしようと思ってたら、知久くんが「これ、いいですよ!」って言ってくれて、「そうか~?」と思って。で、今井次郎さんって人にも「自分のことは自分ではわからない……っていう歌ですね」とか言われて、「そうなのか~!」みたいになって。(笑)
──抽象画みたいな感じなんですかね?
大谷氏 そうそう、そんな感じ。
──「ムーンライト・アポロ・ララバイ」も初めて聴いたとき、ものすごく感動したんですよ。私は「喪失の歌」だと思ってます。子どものころの全ての“幻想”が科学によって“現実”になってしまった歌なのかなって。
大谷氏 自分ではわかんないから、そうやって教えてもらえると嬉しいの。無意識ってわけじゃないんだけど、意識外のところで吐き出して(詞を)書いていくからね。でも理論的な頭はないもんで、後で解釈を教えられると面白いのよ。「そういう聞き方もあるんだ!」って。
──じゃあ、積極的にいろんなことを書いていきたいですね。ここからはぶっちゃけ聞きづらい話なのですが、音楽での収入ってどのくらいになるんですか?
大谷氏 無いんじゃないかな? だって東京だったら交通費で終わるし、収益が出ても製作費に消えたりするし。何十年もやってきてるけど、多分黒字でも赤字でもなく、ただただやってきたって感じだと思います。
──その音楽の行き着く先はどこにあるのでしょうか。
大谷氏 わかんない。(笑) だから楽しいんでしょうね、作ることも、歌うことも。それで、やれるまでライブやれれば、良い人生なんじゃないですか?
とっちゃん あんまり考えたことないですね。そこにあることがあたり前という感じで歌ったり、演奏したりしてて、それが無いってことは考えられないから、さらに何かをしようとも思ってないし……やりたいと思う限りはやり続けるんだろうなと思ってます。
──それがおふたりの音楽の良さなんだと思います。
大谷氏 「来年の目標は?」って言われても、もう「来年のライブを頑張る」だけです。その後も、いろんな人と、やりたい感じでいろいろやれればいいですね。
とっちゃん いろんな人とやることで、また世界が広がるしね。
──最後になりますが、せっかくなので、おふたりのお互いの好きなところを伺ってもいいですか?
大谷氏 う~ん、わかんないなあ。(笑)
とっちゃん ね。(笑)
──もしかしたら、わからないことこそが一番の“愛”かもしれませんね。(笑)
Interview&Text:安藤さやか