ある一日に乾杯する
Today I didn't even have to use my AK
I gotta say, it was a good day
――Ice Cube
2022年7月8日に私はこの文章を書き始めている。以下で触れるような書物を引っ張り出しながら、いくつかの音楽を聴いた。私は明日の朝が早いにもかかわらず、思わず一杯だけ酒を飲み、「乾杯」をささげ、「今日はいい日であった」と眠るだろう。
酒井隆史の名著『暴力の哲学』は、「暴力はいけません」というモラルを批判するところから始まっている。その言表は、次のような連鎖をたどり、逆説的にも新たな暴力を生み出す。つまり、「暴力はいけない、だから、暴力を憎むのだ、暴力をふるう者を憎むのだ、暴力をふるう者の抑止が必要だ、だから暴力もやむをえない」。2004年に出されたこの本が、9.11のテロリズムがもたらしたパニックに際して書かれたのであることは明白である。
恐怖は事故増殖的だと言う。キング牧師は、最終的に恐怖は、恐怖すること自体を恐怖するという「恐怖恐怖症」にまで行き着くと言ったそうである。たとえば、権力者の暗殺は悲劇として表象されるが、入管の外国人は恐るべきものとして、殺害されるべきものとして表象される。本来なら、恐れるべきは権力者の方であることは明らかであるにもかかわらず。これは、白人や警察による黒人のリンチ事件に多く見られるものであり(エメット・ティル、ロドニー・キング、ジョージ・フロイド)、酒井は「想像的な転倒」と呼ぶ。さらに問題なのは、このような恐怖のメカニズムを、権力が統治に利用しているということである。マリリン・マンソンの発言が紹介されている。「テレビ・ニュースが、エイズ、洪水、殺人事件などを怒濤のように報道することで恐怖をたっぷりと視聴者につめこんだあと、CMに移るやいなや、身だしなみやセキュリティにかかわる商品が売り込まれる」。ここまでは別段目新しくはないことだが、重要なのは次のことである。テロをなくすためには、セキュリティを強化しても根本的な対策にはなりえない。なぜならセキュリティの穴をついてでも吹き出てくるのが、犯罪やテロだからである。なにをしても決してゼロにはならないのが犯罪やテロである。であるからセキュリティを進めるのではなく、社会的要因から来る犯罪やテロを減らすために、まともな政治をすればよいだけである。これはリベラルな正論であり、この程度の正論は権力者たちも承知していよう。しかし、決してそうはしない。なぜか。フーコーが言うように「権力は失敗して成功する」からである。イラク戦争が、アメリカの掲げた大義名分とは裏腹に、テロ対策になどなりえないことなど誰もが知っていた。しかし、その失敗こそが成功だったのである。「何度やっても失敗するであろうテロリズムとの戦争によって、アメリカはいわば「統治形態としての恐怖」を戦略的要素のひとつとして活用できる」からである。
この程度の分析は、ごく常識的なものである。これ以下の認識の言説は取るにたらないだろう。しかし、私はこのような冷静な分析ではまったく満足しえなかった。私はすぐさま、マルコムXを読むことにしたのである。
有名なエピソードだが、63年にマルコムは「炎上」している。むろん、あらゆる発言が炎上していたのがマルコムだが、そのなかでもとりわけ規模の大きかった炎上が、この発言である。ケネディ暗殺事件について、本来イライジャ・ムハンマドから黙秘しておくように言われていたマルコムはしかし、記者にその質問をされると、思わず本音を言ってしまったのだと言う。「鶏がねぐらに帰って来たようなものだChickens coming home to roost」と、つまり当然の帰結だと言い放ったたのである。国中がその暗殺者を憎み、ケネディを追悼しているときに、である。マルコム自身、こう振り返っている。「いまでもそのときのことを考えるとうんざりする。全米、いや世界中で、世界的重要人物たちが私よりもっと強い調子で、大統領の死を招いたのはアメリカにみなぎる憎悪のせいである、といっていた。同じことを私がいうと、いかにも底意地が悪いものとして報道されたのだ」。
しばしば指摘されるが、マルコムは狭義の運動という点からすれば、さして功績はない。キング牧師のように大規模なマーチを率いたりしてはいないし、ブラックパンサーのように新しい運動や理論を作り上げたのでもない。そもそもネイション・オブ・イスラムは政治組織ではない。思うに、マルコムは本当のことを言う、というただそれだけのことしかしていない。しかし、本当のことを言うということは、実は誰にも真似のできないことなのである。それは、黒人大衆の声を代弁したというのでもない。現実の権力の力関係を見つめながら、それを鮮やかに分節して世界の見え方を変え、まったく新しい敵対性の線を引くレトリックを発明することの天才だったのである。パレーシアとは、マルコムXのための言葉ではないかとさえ私には思われる。
だからマルコムが、なぜ似たような発言は多々されていたのに、私だけが炎上したのかと訝るのには理由がないわけではない。マルコムが言うと、それはあまりに真実だから、スキャンダラスになるのだ。そして、そのこと自体をマルコムは承知の上で話しているはずだ。なぜ私だけが炎上するのかというのは、一面では本音だが、他方ではすっとぼけである。このような両義性がつねにマルコムの発言にはある。
「鶏がねぐらに帰って来た」という比喩的な表現は、しかし直接的な真実であった。一見、因果応報というような、なんら目新しいことではないかのようである。しかし、暴力についてのマルコムの理論的な中心から導かれてもいるからである。マルコムが暴力を肯定したとは簡単に言えない。ここにも天才的なレトリックの戦略が込められている。黒人が暴力的だと言う言説に対し、そもそも暴力的なのは黒人を奴隷にし、差別し続けてきた白人だと返す。マルコムが常に言っているのは、このごく当たり前の構造を認識しろということである。マルコムはその先のことは宙吊り状態にとどめておく。つまり、結論、暴力および革命という選択肢をどうすべきかについては、仄めかす(シグニファイ)にとどめるのである。その態度が、「鶏」発言にも共通している。大統領を殺すべきか殺さないべきかは言わない。殺されても仕方ないだろうとは言う。かといってマルコムは殺せと言ったのではないし、殺されてよかったとも言っていない。
たとえば、あるスピーチではこう黒人に問いかけている。白人が黒人を、朝鮮戦争に、あるいは太平洋戦争に送り込んだとき、「あなた方は白人のためには、流血をいとわなかったのだ。そのくせ、自分達の教会に爆弾が投げ込まれ、黒人の少女が殺されたとき、あなた方は血を流そうとはしなかった」。暴力がいけないのなら、海外でアジア人に振るう暴力もいけないはずである。もし、戦争の大義がそうであるように自衛のための戦争=暴力が許容されるのなら、アメリカ国内で黒人が白人に対して武装し自衛するのも許容されねばならない。重要なのは、マルコムはこのジレンマを指摘するにとどめているという点なのだ。暴力反対ならば白人の暴力をやめさせればよい、暴力が時と場合によって許されるものならば、黒人の暴力も許されねばならない。前者はリベラルな解決法で、後者はラディカルな解決法である。マルコムはそのどちらでもなく、どちらでもある。
マルコムの有名な発言がある。「一九六四年はアメリカで最も暑い年になるだろう。これまでになく暑い年に。人種的紛争の年、血なまぐさい人種闘争の年に」。これを白人は脅しだと受け取った。マルコムは実際次のような発言まではしている。「昨日は石だったが今日はモロトフ・カクテル、明日は手榴弾、その次はもっとちがった有効な手段がとられるだろう」。しかし、すぐさまこう付け加えている。「私が暴力を煽っていると考えるべきではない。私はただ一触即発の事態だと警告しているのだ。この警告をとりあげてもいいし無視してもいいが、もし警告をとりあげれば、まだ助かる道はあるだろう。だが警告を拒絶しあるいはあざけるならば、死はすでにあなたの玄関先まで来ている」。マルコムはアポリアを指摘し、結論を宙吊りにする――まるでデリダのように? 宙吊りとは「ポモ」的な脱政治性の言葉遊びではいささかもなく、むしろ最もラディカルに政治的であるということを、マルコムほどわかりやすく体現している者はいない。マルコムの発言は字義通りには究極の改良主義のようである。革命が嫌ならばいますぐ改良しろと言い、もしも事態が改善するならばそれでよしとするからである。しかし一方でそのメッセージはパフォーマティブには、革命を強烈に扇動してもいる。革命を起こしたければ起こせばよい、と言っているかのようである。
奇しくも、マルコムの代表的なスピーチに「投票か弾丸か」というのがある。なにがどのようになってそうなったのかは知らないが、投票は弾丸のように有効な手段だ、だから選挙に行こうというようなスピーチだと言っているリベラル系のツイートを見たことがあるが、ありえないだろう。そんなことをマルコムは言っていない。文字通り、「投票か弾丸か」と言っているのである。マルコムは現実をあるがままに分析し、その現状を鮮やかに切り取るレトリックとして「投票か弾丸か」と問いかけている。スピーチの冒頭でこう言っている。今夜の主題はつまり、「私の考えでは、これは、投票させろ、でなければ弾丸をぶちこむぞということだと思う」。弾丸沙汰になるのが嫌ならば投票に行けという意味ならたしかにマルコムはきわめて選挙派であるように見えるが、選挙に行っても無駄であるなら弾丸を迷わず使えとも言っているかのようである。実際、どちらの立場であるかは重要ではない。スピーチ内では、民主主義の欺瞞を厳しく告発しながら、しかし黒人の投票の重要性も言っている。マルコムは、選挙は絶対的なものではないが、重要でもあると言っている。「いかなる手段を用いても」というわけだから、選挙が使えるなら使えばいいし、弾丸の方が有効ならそちらを選べばよい。だから黒人と白人にどちらかを選べと言っているのだ。白人が民主主義をこのまま骨抜きにするなら、弾丸が使われるであろう。黒人がきちんと選挙で意思表示するなら、彼らは弾丸を使わずに済むかもしれない。しかし弾丸を使うというのも、それが有効な戦略を練ったうえであるなら一つの手でもあろう。だからマルコムは、何か新しい主張をしているのではまったくない。ごく当たり前の事実をしか言っていない。しかしそのことが恐るべき力を持つ。
ならば、明らかに民主主義が機能していない状況で、弾丸が実際に用いられた場合、マルコムはどのように言うのだろうか。私はその一点のみが気になって、彼の言葉を読み返したのだった。その国の民主主義を破壊したと批判されるある国の首相だった人物が、民主主義を破壊するような方法であるとされる暗殺によって殺されたならば、それは「鶏がねぐらに帰って来たようなもの」なのだろうか。そのことをいまここで、誰か、マルコムのような勇気をもって口にすることができるだろうか。
私は一日の最後に友部正人の「乾杯」を聴いた。周知のとおり、あさま山荘事件のあった72年2月28日を歌った恐るべき一曲である。電気屋のテレビに人だかりができている。人質が救出されたことを喜んで告げるアナウンサーの声に、大衆は歓喜の声をあげる。「かわいそうに」と言う者もあれば、極左テロリストなど「殺してしまえとまた誰か」。語り手が注目するのは、ふだんは退屈な生活を沈んだ顔で送っている彼らが、今日という日はどこか楽しげであることなのだ。「やり場のなかったヒューマニズムが今やっと電気屋の店先で花開く」。
そんな光景に辟易した彼は酒を飲みたくなり、行きつけの焼き鳥屋へ向かうが、そこで待っていたのも同じような光景で、店員はニュースに釘付けで注文さえ取りに来ないほど。いつも顔を合わせる常連も、今日に限っては酔いが回っていないようである。その薄汚さを語り手は突く。「ついさっきは駅で腹を押さえて倒れていた労務者にはさわろうともしなかったくせに/泰子さんにだけはさわりたいらしい」。テレビでは言っている。「死んだ警官が気の毒です/犯人は人間じゃありません」。そのことに周囲は同調しているが、内心語り手は反論する。「でもぼく思うんだ/やつらニュース解説者みたいに情にもろくやたら情にもろくなくてよかったって」。だから、語り手は、テロを非難するヒューマニズムの方を冷徹な目で眺めているのである。彼らの「情」など偽善にすぎない。
「新聞は薄汚い涙を高く積み上げいまや正義の立役者」、「整列した機動隊員胸に花をかざりワイセツな讃美歌を口ずさんでる」、「裁判官は両足を椅子にまたがせ今夜も法律の避妊手術」。すべてがこのように進んでゆく。いささかの異論を挟むことも許されないかのように。「結局その日の終わり取り残されたのは/朝から晩までポカーンと口を開けてテレビを見ていたぼくぐらいのもの」。
ならば、静かに酒を飲むほかないのではあるまいか。「乾杯!取り残されたぼくに/乾杯!忘れてしまうしかないこの日の終わりに/乾杯!身もと引き受け人のないぼくの悲しみに」。そして驚くべきことに、最後に語り手が密かにグラスをかかげるのは、世界中から憎まれることになった、彼らテロリストたちに対してなのである。「乾杯!今度逢ったときにはもっともっと狂暴でありますように」!
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