世界しか救えないRPG、聖剣伝説2
基本、RPGは世界を救うものであってほしい。
そして、エンディングは報われるものであってほしい。
最近遊んだ『聖剣伝説2』は、間違いなく世界を救うゲームだった。だけど、世界しか救えなかった。そんなオチなのに、素晴らしい作品だった。
だから私になりに、この『聖剣伝説2』という、壮絶にして美的で、傑作にして怪作なゲームについていろいろと書いてみた。もはやこれは、私自身が『聖剣伝説2』という作品に納得するために書き上げたような内容だと思う。この虚脱感、どこかにぶつけなければ気が済まない。
ぜひ、よろしくお願いします。
世界しか救えなかった
『聖剣伝説2』は、無事に世界を救って終わるRPG。
それだけは間違いない。でも、「無事に世界を救って終わる」以外の、多くのものが抜け落ちている。というか、いろいろ失いすぎる。
操作キャラの3人を例に挙げてみよう。
まずは主人公。旅立つ時、故郷の村を追放される。実質的に故郷から出禁になる。旅の中で、父と母の真実を知る。母はマナの木だった。そして母は、目の前で消えてしまう。いやしんどっ。この旅路しんどっ。
次はプリム。
旅の中、プリムはずっと「ディラック」という男のことを口にし続ける。もはやディラックが旅のモチベーションとなっているし、彼女にとっては「ディラックを救うこと」こそ旅の最終目的とも言える。
なんとなく、プリムに対して複雑な気持ちを抱いていた。
だって、明らかにメインヒロインっぽい雰囲気で登場したのに、いざ蓋を開けてみたらディラックディラックディラックと……主人公の立場はどうなるんですか? ここまでハッキリと「彼氏いるんで」ガード決めてくる紅一点がいるのか? 自分以外の男の話しかしないじゃないか?
そのせいで、なぜかディラックに私怨を燃やしたりした。これは嫉妬なのか? 一方的な憎しみなのか? 私の『聖剣伝説2』に対するやりきれない気持ち、確実にディラックの存在も寄与していると思われる。
だけど、流石にゲームを進めるうちに心が傾いてくる。
「ここまで言うなら、ディラックとプリムには幸せになってもらわらないと俺が報われん」と。ディラックもいいやつだし、プリムも必死に頑張ってるし……フラれたやつがその後も好きな人の恋路を応援するのってこういう気持ちなんですかね? オレ、無自覚負けヒロインしてますか?
なにより、主人公があんまり報われていないのだから、せめてプリムくらいは幸せになってほしいものだ。そもそもプリムは幼い頃に母を失っているし、旅の途中に友人(パメラ)も洗脳されたりする。なんかもう、せめてディラックと結ばれなきゃ……プリムがかわいそうじゃないか!!
ところが、ディラックも最後に死んでしまう。
ここでタナトスの力を抑え込みながら「あえなくなってしまうけど、ごめんね…」と詫びるところに、ディラックの男としての度量のデカさを感じる。段々私がディラックに惚れていってます。
ディラック、プリムを幸せにできるのはお前しかいない。
お前しかいなかったはずなのに!!
そもそも、プリムはあまり旅そのものに前向きではなかったような気がする。常に「奪われてしまったものを取り返す」ことが動機だったし、なによりディラックが好きな一心で世界を救ってしまった。世界は救ったが、最愛の人は帰ってこなかった。なんか書いててしんどくなってきた。
ラストにポポイ。
別に死んだわけじゃないけど、ポポイも最後には主人公たちと出会えなくなってしまう。ポポイは明確に「お別れする仲間」とも言える。そして個人的に、ポポイはド終盤のこのやり取りがすごく印象に残ってるんです。
なんかもう、「壮絶」ですよね。
「世界がここまで追い詰められてしまったんだから、もう俺たちがどうにかするしかないだろ」という悲壮な覚悟に満ちた会話だと思います。別に、旅の見返りが欲しかったわけじゃない。世界をどうにかできるのは自分たちしかいない。だから戦ってきた。ここまで来たら、犠牲もクソもない。
すごい、後ろ向きに世界を救ってるゲームだとも思ってます。
この「世界からマナが失われている」、「マナを回復する唯一の手段は神獣」、「だが神獣を放っておけば世界は滅んでしまう」という前提が詰んでいる気がする世界構造、なんかマジで『FF10』を思い出しました。
もはや何かしらの犠牲を払わなければ、世界を滅ぼす厄災を沈められない。こうなった以上、こんな世界になってしまった以上、もう自分たちがどうにかするしかない。『FF10』の「後ろ向きな覚悟に満ちてる空気の物悲しさ」を、『聖剣伝説2』からも感じました。
神獣を打ち倒し、世界を救い、お別れも言えずにポポイはいなくなった。
一面の白銀に包まれる世界。雪が降りしきる中、『聖剣伝説2』は終わりを告げていく。この「雪が降るエンドロール」、自分にはものすごく衝撃的でした。少なくともRPGでこんなエンドロール、なかなかない。
たしかにこの作品のカラーを考えたらこのオチがピッタリだけど、にしたってクリアのご褒美であるエンドロールが……こんな物悲しい画面なことがあるのかと!! 間違いなくみんなの心にも雪が降り注いでいるけど、それにしたって……なんていうか……すごい判断じゃないか!?
この旅を終えて、最後に残ったものはなにか?
世界の平和。あと旅の記憶。
逆に、失ったものはなにか?
主人公の母、プリムの最愛の人、ポポイという仲間……その他もろもろ。ちょっと犠牲が多すぎる。「世界しか救えなかった」とは言うけど、もっと正確に言うなら「いろいろ大切なものを失って、世界だけは救うことができた」ということなのかもしれない。
私は、別にこのオチに納得が行ってないわけじゃない。だけれど「素晴らしいハッピーエンドだ」とは到底思えない! そこまで大人に徹せないね、私は! 「世界しか救えない」って、こんなにツラいことだったのか!
「別れの悲しさ」と「報われてなさ」
クリアしてから数日たってもなお脳裏に焼きついているのが、この「The End」の画面。主人公たちと別れ、ひとり夜空を見上げるポポイ。世界を救った達成感に浸っているのか、孤独を感じているのか、それともすべてか。
これはスーファミの仕様でもあるけど、「この画面から動かすことができない」のがものすごく演出として作用していると思います。聖剣伝説2に、これ以上の物語はない。私たちも、ポポイを見つめることしかできない。
怒涛のエンディングから解放され、やっとひと息つく画面。だからこそ、「別れの悲しさ」がドッと押し寄せてくる。もはや災害のように。もうポポイに出会うこともないし、これ以上なにかが起きることもない。
ポポイは元気にやっていることを証明する「最後の救い」であると同時に、覆らない「事実」を突き付けてくるEND画面だと思います。
初代『聖剣伝説』を遊んだ時に最も強く感じたのは、「別れの悲しさ」でした。徹底して「別れの悲しさ」を描いていたゲームで、それが「ヒロインとの別れ」という形で、最後に大花火を打ち上げる。上の記事でそんな感じのことを書いています。
そして『聖剣伝説2』も、また「別れの悲しさ」を描き続けている。より濃密に、より鮮明に、「大切な誰かを失うこと」を焼き付けてくる。スキルツリーの伸ばし方エグイって。「離別」を、より力強く描いてきた。
だから、どちらも余韻が残り続ける。確実に「嫌でも忘れられないエンディング」になる。正直私も、初代をクリアしてから「自分の中で想像以上にあのエンディングが深い傷になっている」ことを自覚しつつありました。そして聖剣2でその傷口に塩を刷り込まれた。
ワガママだけど、ただ「お前たちの旅は無駄ではなかった」と言ってくれればよかったのに。でも、そうは言ってくれないのが聖剣伝説。基本、あんまり報われない。頑張ったけど、それでもいろいろ失った。
だけど、その「失うもの」をハッピーエンドのために捨てない。あんまり報われてないけど理不尽さは感じないのは、その信念があるからだと思う。
誰しも、絶対になにかを失って、それでも生き続けている。人生は離別の連続で、それを繰り返しながらも日常は続いていく。そんな事実をむしろ心地よく感じさせてくれるのが、このゲームのいいところだと思います。
ちょっと話が脱線してしまうけど、人間は「負の感情」をより強く受け取るようにできていると思う。
楽しかった思い出より、辛い出来事の方がずっと覚えてる。幸せな人を見るより、苦しそうな人を見ると心が揺れ動く。子どもが生まれたニュースより、誰かが殺されたニュースの方が話題になる。どこまでも幸せな物語より、どこか物悲しさを感じる物語の方が記憶に残る。
その人自身が明るいか暗いかどうかに関係なく、構造的にそういう風にできていると思う。誰しも、「負の感情」からは絶対に逃げられない。だから、「悲しい話」は全然間違っていないし、むしろいいものだと思う。
「負の感情」は、人として生きていくために、たくさん味わっておいた方がいいと思います。負の感情に疎いのは、逆によくない人間だと思います。別れの悲しさや寂しさを知っておくことは、素晴らしいことなはず。
だから、「負の感情」をかき立ててくる創作物は、絶対にこの世に必要だと思っています。そして『聖剣伝説2』も、その一作なのだと思います。
ふわっとした絶望感
私は、「ファンタジーかと思ったらSF(現実の延長)だった」という世界観のひっくり返しが結構好きだったりする。たとえば、『ゼノブレイド2』で、楽園だと信じられていた場所が滅んだコロニーだったり、『魔界塔士Sa・Ga』で塔を登っていったら東京が出てきたりするアレ。
そして『聖剣伝説2』も、意外なことにそういうタイプの世界観だった。
かつての人類は、「マナ」の力を用いて高度な文明を築き上げた。しかしやがて世界のマナが枯渇し、それを巡って大きな戦争が起きた。その最中に作られたのが「マナの要塞」。その要塞を破壊するために、「神獣」がやってきた。要塞と神獣の戦いで、文明は一度滅んだ。
改めて整理すると、なかなかに絶望感のある世界観ですよね。
割とこういうのにロマンを感じたりもするのですが、最終的にやらされるのは旧人類の尻ぬぐいという。なんか、異聞帯じゃないけど「詰んでしまった世界」の香りがしてます。
結局、過去の人類が作り出してしまった「マナの要塞」という武力と、それを阻止する「神獣」という自浄作用がなくならない限り、この世界はどうにもならないのでは? そのために「マナを消す」ことが最終手段になってくるのだけど、なんか……やるせないよなこの世界!!
実際にテレビの録画みたいなのが流れる通り、ほんのり「現実の延長線上にある世界」として描かれている節もあるんじゃないかと思います。なんていうか、その事実にふわっとした絶望感を感じるんですよね。
ファンタジーは、私たちからすると「幻想」である。だから本来、夢や理想を詰め込んでもいい対象だと思う。ありえない美少女がいたり、信じられないドラゴンがいてもいい。だけど、『聖剣伝説2』は現実の隣り合わせのファンタジーを描いて、ほんのり黄昏の絶望感を感じさせてくる。
もしかしたら、私たちの世界も一歩間違えると「マナの要塞」が作られるのかもしれない。そして罰を与えるために「神獣」が遣わされ、滅んでしまうのかもしれない。その尻ぬぐいを誰かがするハメになるのかもしれない。
『聖剣伝説2』は、いま暮らしている世界の先にある話なのかもしれない。私たちの世界は、とっくに滅んでいたのかもしれない……考えれば考えるほどうっすら落ち込んでくるのでもう何も考えないようにしよう。
でも、個人的に「マナの要塞」が設定として好きなんです。
ゲーム開始時の時点で、まず「マナの要塞」が出てくるのですが……ここで「え、なんかこの要塞だけSFしてない?」という引っかかりを持たせられていると思います。つまり、世界観に明らかな違和感がある。
始まった段階で「この世界はなにかがおかしいのではないか?」と気になるようになっているし、途中で「実はSF的な要素がある」と明かされた時にも納得感がある。「世界に配置された明らかな異物」として、マナの要塞はものすごい効果を発揮していると思います。
まぁ要するに、「めちゃくちゃワクワクする設定」ということですね。その上で、『聖剣伝説2』のふわっとした絶望感の一翼も担っている。シナリオだけでなく、「世界観」も丁寧に心を突き刺してくる作りだと思います。
俺の心が報われてない
今から、ここまでの流れと全く関係のない話をする。
私は、『聖剣伝説2』は、かなり独特な遊び心地のゲームだと思った。何を言いたいのかというと、このゲーム……本質的にはアクションゲームじゃない気がして仕方がない。パッと見の絵面がアクションっぽいだけで、実際にやっていることはアクションとは似て非なる「何か」だと思う。
まず、前提として攻撃をする時は「溜めて殴る」必要がある。
つまり、連打はしちゃいけない。100%まで溜まってから攻撃する。これが、まず独特な触り心地だった。待つ。殴る。待つ。殴る。待つ。殴る……なんか、あんまり私は触ったことのない感覚だった。
そしてもうひとつ、「魔法」の存在。
バトル中にメニューから発動する、強力な攻撃手段。実際、ほとんどのボスは魔法を連打していればどうにかなってしまう。これも、アクションゲームなんだけど、「止まって魔法を撃つ」ような感覚があった。
なんだか10割私の感覚で書いているのでイマイチ伝わっていないかもしれないけど、要するに「アクションバトルというより、実質的にはリアルタイムターン制バトルを遊んでいる」ような気持ちになるのだ。
止まる。殴る。止まって魔法を撃つ……その場の反射神経というより、時間経過に合わせた最適なコマンド選択と、一定のテンポ感でボタンを押すことが求められる。アクションゲームのはずなのに、止まって魔法を使ったり、アイテムを使ったりしている時間の方が長い気がする。
これ、突き詰めていけばFFの「ATBバトル」に近いのでは? 感覚でしかないけど、稼働している脳の部分は間違いなくターン制バトルを触っている時と同じところなんです! その不思議な触り心地が嫌いになれない。
特にラスボス戦なんか、まさに「アクションっぽく見えるけど実際にやっていることはリアルタイムターン制バトル」が炸裂している気がします。バトル的に「相手のターン」と「味方のターン」がハッキリわかれている。
神獣のターンは、ずっと攻撃を耐え続けるしかない。でも接近してきたら、一気にマナの剣を発動して、攻撃を叩き込む。これを何度か繰り返す。
あの「神獣の攻撃パターンを把握して、段取りよくダメージを入れていく」感じ……なんかすごい独特ですよね。完全に「ターン制バトル」じゃないんだけど、やっていることはかなりタクティカル系というか。
その独自の触り心地を生み出しているのは、やっぱり「リングコマンド」だと思う。戦闘中に止まって魔法を使うのも、アイテムを使うのも、すべてこの「リングコマンド」から発動する。
割とおそろしいのは、戦闘から買い物に至るまで、ゲーム内のほぼすべてのUIをリングコマンドで管理していることである。リングコマンドなくして、このゲームは成立しない。基礎的なアクセスから、バトルの独特なテンポ感まで、ほとんどリングコマンドがベースなんじゃないかと思う。
もっと言えば、このシステムの便利さに対して、「ボタン操作」がおそろしいほどスマートなのだ。リングコマンドを操作する時に使うのは、基本的に4方向の矢印キーと、B・X・Yの3ボタンである。Aボタンは使わない。
このシンプルな操作キーと数少ないボタンで、「戦闘中の魔法とアイテムの使用」「武器や装備の切り替え」「ゲームの設定や買い物」といったゲーム内操作のほぼすべてを完結させている。UIとして、完成されすぎている。
最初こそ上下移動などの独自の操作に困惑するけど、慣れてしまえば、ここまでスマートに集約されたインターフェースはないと感じてくる。プログラムがさっぱりわからない私のような門外漢にすら、「これはシステムとして美しすぎる」と理解できる。オイラーの等式みたいなUIだ。
そして、この独自のバトルバランスとリングコマンドの便利さのせいで、ひとつ大きな悲劇が起きた。私は、ラストダンジョンに辿り着くまで、このゲームの「チャージ攻撃」の存在に全く気づかなかったのだ。
『聖剣伝説2』をプレイされたことがある方は、全会一致で「なに言ってんのお前?」と思うことでしょう。仕方ないだろ、実際ラスダンまで気づかなかったんだから!! ああそうだよ、ラスダンまで全部の敵は通常攻撃でチクチク殴るか魔法で倒すかの2択だったよ!!!
私が嘘をついていると思いますか?
だったらやってみてください、少なくともラスボス戦までは「魔法と通常攻撃」だけで乗り切れるはずです。俺が証明してやったよ、セリフ縛りプレイで! この行き場のない怒り、どうしたらいいんだ!!
ちなみに、なんかチュートリアルでNPCがチャージの使い方を教えてくれているらしいです。よく聞いてませんでした。説明書にもちゃんとチャージの使い方書いてあるらしいです。読んでませんでした。全部コイツの自業自得です。誰か僕を殺してください。
だから本来、私は『聖剣伝説2』のバトルに言及してはいけないのだと思います。ここまで書いてあること、すべて「ラストダンジョンまでチャージ技を使っていなかった人間の言葉」と思って読んでください。
最低最悪のどんでん返しですね。
ラスト5分、あなたはきっとこの記事を読んだことを後悔する。
要するに、「ストーリー上の世界しか救えなかった虚脱感」と、「ゲーム的に必殺技の存在に気がつかなかった自責の念」で、私の心が全く報われていないのです。世界は救えたけど、俺の心が報われていないんだ!!
もう、コメント欄バキの家みたいになりそうですね。誰でもいいから「後者はテメーがマヌケだからだろ!!」と言ってくれないと報われない。
でも、『聖剣伝説2』は傑作だと思ってます。つまり私は、誰にも味わえない唯一無二の虚脱感を味わえたのだ。逆に、「これを読んだ誰も知らない感情」を、私はズルズルと引きずり続けているのです。誰にも共感してほしくない。この救われてない気持ち、誰にも理解させない。
『聖剣伝説2』は、そんな「誰にも渡したくない、私だけの虚脱感」を与えてくれる作品だと思いました。この悲しさ、私だけのものだ。