厚生労働省の「医師の働き方改革に関する検討会」が取りまとめに向けて佳境を迎えています。
ところが、地域医療を守る病院などに対する特例として、時間外労働の上限が一般労働者の過労死ラインの2倍以上となる「1900〜2000時間」とする案が提示されたことに、医師たちから批判の声が殺到しています。
「医師は死ねというのか?」
「私たち人間じゃないの?」
「過労死ラインの二倍働かせるなんて正気の沙汰とは思えない」
「国は地方の医療を本気で潰したいのか?」
検討会の副座長は、私も構成員として参加した厚労省の「上手な医療のかかり方を広めるための懇談会(以下、懇談会)」で座長を務めていた渋谷健司・東京大学大学院国際保健政策学教室教授です。

崩壊寸前の日本の医療を守るためにこの懇談会で出した「いのちをまもり、医療をまもる」国民プロジェクト宣言!」で私たちは、医師の過酷な労働環境を放置しない方針を明確に打ち出したはずです。
「言っていることが矛盾していませんか?」
疑問に思った私は、SNSで読者の皆さまからも質問を募り、検討会は本気で現場の医師の疲弊を救うための議論をしているのか、尋ねてきました。
時間外労働の上限「1900〜2000時間」ってどういうこと?
ーー懇談会では、医師の過酷な労働環境をこれ以上放置してはいけないという姿勢を明確に打ち出したはずです。渋谷先生をはじめ懇談会のメンバーが4人も入っているこの働き方改革検討会で、なぜ時間外労働の上限1900〜2000時間なんて案が出てくるんですか? 過労死ラインの2倍ですよ。
これは事務局案ですから、これでいいなんて全く思っていません。まず誤解してほしくないのは、あくまでも目指す目標は960時間なんです。検討会でも審議官に国としてどこを目指すのか確認する質問をしましたが、目標は960時間と明言しました。
日本医師会も、960時間を目指す体制にしなくてはいけないと言っていますし、ゴールはあくまでも960時間というのはみんな合意しているんです。
ーーしかし、地域の医療体制を守るためや技能を身につけるトレーニング中の医師を対象として、特例の水準を設けるのですね。2024年度から35年度末まで、特例病院では時間外労働時間の上限を「1900〜2000時間」とする案を出しています。ここで働く人は守られないのですか?
まず、伝えたいのは、全員が2000時間働くわけではないし、そこまで働かせて良いということでもないということです。労働者の視点に立つ社会保険労務士の委員、福島通子さんも『2000時間の労働を容認するかのように報道されていますが、36協定(法定労働時間を超えて働く場合に労働側と使用者側で締結する協定)で違反とされないための上限時間』だということを強調しています。
そもそも36協定を結んでいない病院はたくさんあります。これまではどこまで働かせてもいいのか基準さえなかったんです。
これでは、医師の労働時間に歯止めが効きません。医療は特殊だからという論理で、長時間労働が当たり前だという風潮がそもそもおかしいのです。疲弊している現場の先生方に訴えたいのは、全く労務管理をしない病院はあり得ない、今までのいい加減な労務管理は通用しないということです。
36協定を結んだ上で、どうしても特別な事情があって、労使が合意した場合に、刑事上の責任は問わないという基準であって、決してここまで働かせていいと言っているわけではないんです。
1900〜2000時間という案の理由は、2016年に行った「医師の勤務実態及び働き方の意向等に関する調査」に基づいて出した1920時間という数字です。年間1920時間を超える医師が約1割、年間2880時間を超える医師も2%います。1920時間を超える医師が一人でもいる病院は全体の3割で、大学病院の約9割に及びます。
現状でも、2000〜3000時間働いている大変な人たちがいるから、まずここをどうにかしようという考え方に基づく制限なんです。そのほとんどは、大学病院や救命救急センターがある基幹病院であり、まずは彼らの現状を変えるための制限という考え方です。
また逆に、そこをいきなり厳しくすると医療提供体制が崩壊するのではないか、という懸念も厚労省にはあるのでしょう。しかし、それでは現状維持になりかねません。
ーー一番長時間働く世代は、20代、30代の若手ですね。労使の合意があった場合と言いますが、実際に働く人は組織の中で強制があった場合、嫌だと言える発言権もないでしょう。
確かに大学病院で若い医師が教授に指示されてNOと言えるかというと無理でしょうね。社労士の方も、「労働時間を短くする努力を全力で行わなければいけないのは当然だが、絵に描いた餅にならないような計画を出させてモニタリングしていくのが必要だ」と話しています。現実的な案ですし、その通りだと思います。
報道の中には、「地域においては上限2000時間」と書いていたところもありましたが、地方のお医者さん全員ではないですし、そこまで働かせていいと言っているわけでもありません。そこの誤解をまず正しておきたいです。
とはいえ、2000時間はやはり多過ぎる
ーーそれで、先生は1900〜2000時間が上限でいいとお考えですか?
そうは全く思いません。2000時間を出してきた厚労省の言い分をまず言うと、一つには医師需給の兼ね合いがあるというんですね。今は医師が不足していますが、2028年には医師の需要と供給が均衡するという。地方によって医師が足りないところもある医師の偏在がなくなるのが2036年になるとし、そこを見越してやっていかなければいけないとしています。

しかし、医師の需要と供給の推計は仮定によっていくらでも変わります。厚労省の推計は、医師の仕事を他の職種に振り分ける「タスクシフト」が7%と想定していますが、これは医師の代わりにカルテの下書きをしたりする医療クラークしか想定していません。しかし、医療クラークが受け持つ作業はタスクシフトの本丸ではありません。
医師の指示なく診療行為の一部を行えるナースプラクティショナー(NP、診療看護師)や外科手術の補助をするフィジシャンアシスタント(PA)などを積極的に取り入れていけば、もっと前倒しで医師不足や偏在は解消するはずです。厚労省の推計は先延ばしの論理に過ぎないなと思います。
ーーしかし、今回の数字を出した根拠となったのは、実態調査から出てきた1920時間という数字なんですよね?
そうです。一つ重要なのは、この実態調査の時点から、医師の労働環境はかなり変化しているということです。2016年には聖路加国際病院に労基署が調査に入って、是正勧告を受けました。土曜日の外来を廃止し、今まで若手ばかり行なっていた当直を40、50代も担うなど大きく診療体制を変えざるを得なくなりました。
あの有名病院の働き方にメスが入ったことで、他にも労基署が入ったと聞いています。あの時とは労基署の考え方も、病院経営側の意識もかなり変わったはずです。 1920時間という数字は2年前の数字ですし、労基署が入る前の数字です。その時の時流と今の時流は違うので、時間外労働は減っているはずです。
また、宿直の定義や自己研鑽の時間について検討会で整理した内容を当てはめる必要があります。それらを考慮すれば、1920時間よりも短くなるはずです。上限の数字はもっと下げられます。
ーーということは、1900〜2000時間上限は多いと考えられているんですか?
はい。まず、もう一度、データを見直すよう言っています。個々の地域での時間外労働制限の実際の影響を具体的なデータで検証しないと意味がありません。今はマクロの視点での議論ばかりになっていますし、数字ばかりが一人歩きしています。
再分析で労働時間の分布が少し変わってくると思います。最も長く働いている1割の医師の境目が1920時間から1800時間程度に変わることは十分あり得ます。
しかも、始めるのは法施行の5年後、2024年度からですから、それまでにどこまで労働時間を減らせるのか、960時間を目指すならどういう道のりで減らして行くのか。定期的に労働実態調査をして、政策効果を見ながら進めていかないといけません。
今のままでは、目標の2035年度末まで17年間先延ばしにしておいて、とりあえず混乱を避け、後の人に引き継ぐという姿勢がありあり見えます。医師の働き方改革は医療の大きなターニングポイントです。現場からの声を取り入れ、もっと議論を尽くし、前向きに将来を考えてやるべきです。そうでないと大きな禍根を残します。
「労務管理が始まるきっかけになる」
ーー上限基準ができたとしても、実際に運用されたら、結局、上限時間以上働かされて、上限を超えたらお金も支払われないのではないかと疑う声も届いています。
上限を設けることで何が起きるかというと、労務管理をきちんとするようになるはずです。これまで多くの先生たちは、僕が病院で働いていた時もそうですが、労務管理なんて全くされませんでした。
時間外でも報酬は全く増えない。ゼロでした。夜は眠れない当直なのに労働時間と見なされない。そういう働き方をもうなくそうということです。
ーー経営者側はきちんと労務管理を行うでしょうか?
もう一つ言いたいのは、病院経営者の方からすれば、できるだけゆるいほうが良いという発想で、2000時間でも仕方ないじゃないかと考えていると思います。でも、そうした病院は、本当に特例に当てはまるんですかとまず問いたい。思うに多くの病院は特例にならないし、そもそも36協定をちゃんと結んでいない病院が多い。
特別な事情があって、36協定では運営できないということになれば特例に認定されるかもしれないですが、そもそも36協定も結んでいない病院でその上を認めることは難しいと思うんですよ。
2000時間など、時間外労働の上限設定を維持するために抵抗する、あるいは特例を例外規定で骨抜きにすることを考えるよりは、もっと自分たちの病院の経営をどうしていくかを考えて、前向きに働き方を変えていかなければ。そうしなければ、そもそもその病院は生き残れなくなるのではないかと思いますよ。
医師は聖職か? 「労働者でありプロフェッショナル」
ーーそもそも、960時間を目指す、というのが大変なことのように語られていますけれども、一般労働者の過労死ラインです。これまで、時間外労働が960を超えても放置されてきたのはどういうことなんでしょうね。
ようやく、他の職種と基準を合わせるということです。もちろん、960時間だって長いと考える方がいてもおかしくないと思います。
ーー医師は「聖職」と考える人が当事者も周りの人も多くて、社会に身を捧げて当たり前だと思っている節がありますね。
医師は聖職ではないですよ。労働者だし、プロフェッショナルですよ。専門家です。もちろん、医師側に自分たちは聖職だという矜持はあるかもしれません。
しかし、その前に労働者であるし、同時にプロフェッショナルでもある。だからこそ、人の命を預かるプロとして、時間あたりの給料を本来は高くもらっているわけです。ところが働く時間が長過ぎて、時給に換算すれば低くなっています。

過労死ギリギリラインだから、960でもまだ高いという人がいてもおかしくないですし、それよりも下げられるなら下げてほしい。ただ、4割の医師がそれより長く働いている現状がある中で、まずはここを目指さないと、ゴールが見えないわけです。960がいいと言っているわけではないですよ。
ただ、どんな数字になってもみんな完全にハッピーになるということはありえない。医療の現状や現場の声を踏まえながら、どのへんで合意できるかということを擦り合わせていかないといけません。
ーーなぜこれまで多くの医師が過労死ラインを超えて働いていても放置されてきたのだと思いますか? 医師なら長時間働くのが普通だと思われていますね。
それは医療側がそう思い込んでいるだけじゃないですか?
ーー医師だけではなさそうです。一般の人も、時間外に主治医に説明を求めたり、急変したら主治医が休日も来て当たり前だと思っている人がいますし、それが美談にもされています。医師は時間外に働いてもいいような職業だとなんとなく思っています。
確かに、そうですね。「上手なかかり方を広めるための懇談会」でも、株式会社ワーク・ライフバランスの小室淑恵さんが「昔は教師に対しても同じような考えがあった」と話していましたね。
今議論されている医療の世界での働き方も、患者側のかかり方が見直されて、時間外規制ができれば、「あの時はそんなことも言っていたね」という時代がくるかもしれません。
ーー医師はエリート中のエリートで、ノブレスオブリージュ(社会的地位の高い人に伴う義務)じゃないですけれども、社会に奉仕する職業という期待が医師側にも患者側にも根強くあります。それは変わっていくべきなのでしょうか。
昔は聖職者と医者と弁護士が、プロフェッショナルであって、神へ誓いをたてる存在だとされてきました。プロフェッショナルとは、今は社会に誓う存在だと思います。時代は変わりましたし、プロだからこそ、彼らの健康を無視していいという議論にはならないと思います。
ーーその通りですね。専門性を社会のために発揮してもらうには、疲れ果ててもらっては困るし、睡眠不足でも困るし、本人がまず健康であってほしいです。
そうです。聖職だから、何時間働いてもいい、こき使ってもいいとしたら、医師の専門性を損なうことになる。日本の場合、いつでもどこにでも受診できるフリーアクセスはいいことなんですが、それが専門家としての医師の力を弱めていることに気づいてほしいのです。そして、それは国民の側に不利益として返ってきます。
患者も自分の健康や体のことを一人一人が理解しないといけないし、かかり方も考えてほしい。医師の働き方改革には、医療側だけでなく、患者側の意識改革も必要です。
【2回目】時間外勤務上限が2000時間の特例病院に医師は集まるのか?
【3回目】医師だけでは改革できない 上手にかかっていのちと医療を守ろう
【渋谷健司(しぶや・けんじ)】東京大学大学院 医学系研究科 国際保健政策学教授。
東京大学医学部、米国ハーバード大学博士課程卒。医師、公衆衛生学博士、医療を通じた我が国のグローバル化と社会変革が専門。医学生時代に世界放浪の途中でマザーテレサの施設でボランティア。千葉県房総のER勤務、ルワンダ難民キャンプで医療施設の立ち上げ後、ハーバード大学人口・開発研究センターフェロー。
2001年からは世界保健機関(WHO)本部にて、政策チーフとして世界50ヶ国以上で保健医療政策のアドバイスを実施しながら、ビル&メリンダ・ゲイツ財団や民間セクターとの連携を推進。2008年より現職。