「どうしても息子には食べさせられない……」出荷できた米を捨てる農家
2011年、福島第1原発事故が起きた年の秋である。
遠藤眞也さん(49歳)は、自宅裏にある小高い山に自分が作った米を捨てた。
場所は、原発から南に27〜28キロに位置するいわき市末続地区だ。
彼は周囲に人目がないことを確認し、袋から撒くようにして捨てている。
量にして240キロ、つまり1年間で自分たちが食べる分すべてだ。
バーッと流れていく音が遠くで聞こえているような気がした。
この年、原発のもっとも近くで収穫された米である。検査をクリアし「人には食べてと勧めることはできた」。
だが、当時5歳になったばかりの息子に食べさせるという決断が、どうしてもできなかった。
本業は、家の基礎工事などを請け負う土建屋である。
しかし、兼業とはいえ米農家の端くれという自負はある。
自分の信念に反していることも、農家としての倫理に反していることもわかっていた。
「せづねぇぞ〜」。時計は午後11時をまわったあたりを指していた。
2017年1月。夕方から始まったインタビューは、グラスを傾けながら、深夜まで続いていた。
赤ワインを片手に遠藤さんは大きな声で叫ぶ。
「リスクが低いことなんてわかってんだよ。でも、どうしても無理だった」
「人には勧められたし、出荷もしたのに、どうしても息子には食わせられねぇって……。俺の罪悪感はずっと消えないんだ」
最前線になった集落、末続
遠藤さんが住む末続は、福島県いわき市最北端にある小さな地区である。
震災前は約130世帯、500人前後が暮らしていた。
常磐線の小さな駅と国道6号線が通っている。
国道を東に折れれば海が広がり、西に行けば中央線もない道路の両脇に田園風景が広がる。
昔ながらの日本家屋がぽつぽつと並び、多くの住民は昼間の仕事とともに、季節になれば米農家として畑仕事に勤しむ。
居間に入ると、仏壇と亡くなった先祖の写真がある。
末継地区で暮らす人たちにとって田んぼは、先祖からの受け継ぐものであるとともに、次世代に引き継ぐものである。
原発事故が起きた2011年、すぐ北にある広野町が住民の避難を決める。
末続地区は、原発にもっとも近い、人が住んでいるエリアになってしまった。
自分たちは住み続けていいのか?いまの生活を続けていいのか。
多くの住民が悩み、答えをだそうとした。遠藤さんもまた、その一人だ。
これは原発事故で奪われた日常を、もう一度つくり直そうとしたある家族の話……。
ヤンキー、飯場で社会のルールを学ぶ
遠藤さんは東京の出身である。
生まれて間もなく両親が離婚した。
母の実家があるいわき駅(当時は平駅といった)近くに引っ越すことになった。
父の姿はうっすらとしか記憶にない。母に手を引かれて、どこか建物に向かう記憶があるという。
いまから考えれば、それは裁判所や役所で離婚の手続きを進める母の姿だった。
中学を卒業すると、本人曰く「やんちゃ」になっていく。要するに不良だ。
当時のヒーローは横浜銀蝿、ハマショー、少し大人ぶりたいときは矢沢永吉と決まっていた。
高校はバイクに乗っては停学、タバコを吸っては停学を繰り返す。
バイクの無免許運転が決定打となり、見事に退学となった。
見かねた親族から声をかけられる。
「このまま道を外し続けるのか?それだったら手に職をつけろ」
16歳で飯場に放り込まれる。
そこには、道路工事を目当てに日雇い労働者たちが全国から集まっていた。
当時のいわき市は高速道路の工事が次から次に舞い込み、世の中のはぐれものたちが仕事や金にありつけるエリアだった。
町では不良として鳴らした遠藤少年にとっても、飯場の光景は衝撃的だった。
いい年の大人が酒に酔った勢いで、いきなりケンカをはじめる。
「てめぇ、この野郎」がエスカレートし、その辺に転がった包丁や彼らが持参している刃物が持ち出されるのである。
ケンカは四六時中、続く。その中であっても、黙って飯を食わないと生きていけない。
そこで生きる知恵を身につけたと思っている。
つまり人生で大事なのは、人を見る目があること、そして最後は自分で決めることだ、と少年は感じ取った。
「俺は中卒だから、頭で勝負してもダメ。自分で考えるだけじゃなくて、まずこの人は頼れるかどうかをよくみる」
「大事なのは裏切りそうにないかだな。大丈夫そうだと自分で決めたら、ついていくんだ」
工事にありつけるかどうか、どんな仕事ができるかは人と人のつながりで決まっていくのが、飯場の掟だ。
そこがわかると、まとまった額を稼げるようになった。
運転免許をとり、頭に剃り込みをいれ、20歳前にはアメ車を乗り回した。
そこは夜にホタルが輝いていた
のちの妻となる美香子さんと出会ったのもその頃だ。
末続に住む美香子さんに会うために、アメ車のうるさいエンジン音を響かせ、彼女の自宅に送る。
そこは、のちに自身が婿養子になる遠藤家だ。
結婚話がトントン拍子に進んでいったが、遠藤家とは結婚後どこに住むのかで、揉めに揉めた。
美香子さんの父、祖母は「末続に住んで通え」という。
美容師の見習いだった美香子さんや遠藤さんは当然、市街地に住みたい。
「なんで、こんな田舎に住んで、仕事にでないといけないんだ」
いわき市は広く、地域ごとにカラーは違う。
中心部である平の暮らしが長い遠藤さんからすれば、車で40分以上かかる末続は「田舎」という位置づけになる。
結局、2人の付き合いは続いていくが、結婚話は破談となった。
もっとも遠藤さんだって、こんな田舎にと言い放ったわりに、そこまで悪い印象を持っていたわけではない。
「送り届けていったら、車のライトじゃないのにやけに明るいなぁと思ったの。そしたら、道端にホタルがいたわけ」
「いわき市にもまだこんなところがあるのか。こんなところで子育てもいいなぁとは思ったんだよ。今じゃねぇなとは思ったけど」
工事現場を求めて、いわきを拠点に全国を転々としていた遠藤さんだったが、バブルも崩壊し、いよいよ仕事もなくなった。
転々とする生活も、そろそろ潮時だった。
いわきで職を見つけ、このタイミングで、15年以上付き合いを重ねた美香子さんと30代半ばにして結婚した。
新居は、あれだけ嫌っていた末続の家に決めたのだった。
旧家のしきたり
遠藤家は代々、その土地で生きてきた旧家である。独自のしきたりもあった。
その一つが米だ。米は本家が作り、親族に配ること。
義父は遠藤さんにもそれを求めた。
遠藤家の田んぼからは、30キロ袋換算で50袋前後の収穫が見込める。
それを自分の家だけでなく、親族にも配り1年かけて食べる。
「米なんて、そんなに苦労して作らなくてもスーパーで買えばいいだろう」
毒づく遠藤さんに、義父は少し悲しそうな顔をしながら「俺が死んだら、お前が決めていいから、いまはそんなことを言うな」と言った。
米作りのシーズンになると、遠藤さんの休日を狙ったかのように畑仕事をわりふり、手伝わせた。
「わざわざ、休みの日に無駄なことをさせやがって。こっちは働いてるんだから休ませろ」
米作りを巡って諍いが起きたことは何度もある。
手伝わせようとする義父、拒む遠藤さん。
遠藤さんに父はいない。
30代も半ばになって、初めて「父」と呼べる人があらわれたが、どう接していいのかわからなかった。
口論は決まってエスカレートし、大抵は遠藤さんがこう言い放っておわる。
「婿養子にきてやっただけありがたいと思え」
この時も、義父は少しばかり悲しい顔をするのだった。
今から思えば、ここまで毒づけたのは、日常が当たり前のように続いていくと思っていたからだ。
当たり前のことを失わない、と思っていたから言えたことだった。
2006年、妻と知り合って25年以上、やっと生まれてきた息子に優将(ゆうしょう)と名付けた。
孫ができたことをことさら喜んだのは義父だった。
それなのに、やっと息子が大きくなってきたころ、義父は逝ってしまった。
肝臓が悪かった。
「ちょっと入院してくる。もし死んだら、この家は頼んだぞ」と言いのこして出ていったきり、そのまま帰らなかった。
2010年のことである。
米づくりという「生きがい」
ショックはあったよ。うん。
やっぱり俺にとって「父」と呼べるただ一人の人だったし、背中をみて学んだところもあったと思うんだ。
父を知らない、俺が父になって、だれを見たらいいってそりゃ親父になるわけだよ。
親父にしてみれば、米作りは「生きがい」なんだよなぁ。
この家にとって、俺は中継ぎなんだよ。
息子が生まれて、親父が亡くなって、すっとそう思ったんだよね。
俺が継いだときは、さっさと米作りなんてやめて、スーパーで買ってやるって思っていたのに。
休みの日にわざわざ畑仕事をいれてたのは、俺に米作りを教えようとしていたんだよね。
その意味を、亡くなってからやっとわかったんだ。
この土地って俺だけのものじゃねぇなぁって。
先祖代々のもので、外からきた俺が勝手にどうこう決めていいもんじゃない。
親父がこれだけやってきたものができなかったら、カッコ悪いでしょ。
あぁ、あそこの家ってお父さんはすごかったけど、婿養子はダメだねとか言われたら、息子にいい格好できないじゃない。
わかるでしょ。
俺は中継ぎとして、親父がやってきたことをそのままやって、米作りをやめるかどうかの判断は息子が決めることだと思ったんだよ。
選択肢を残すことが俺の役割だって。やっと自分の役割が本当にわかったっていうか……。
父に生きがいをあたえたのは、代々受け継がれてきた米作りだった。
引き継がれたものは、次に渡さないといけない。
それが、この土地に根づくシンプルなルールであり、伝統と呼べるものだ。
親父から受け継いだものを、息子に渡す。遠藤さんが固めた決意は、2011年に試されることになった。
2011年3月11日
2011年3月11日。遠藤さんはいわき市内川沿いの工事現場で揺れを感じた。
「おぉこれは大きいぞ」。
工事は中止になり、勤務先の美容室にいた妻、市内にいる母親と次々と連絡をとった。
無事を確認し、とりあえず末続の自宅に集まることを決める。
あの日の記憶はあまり正確にはないんだよね。
沿岸部の久之浜のほうで津波がひどくて大変だというので、同僚と一緒に見にいったんだったかな。
たぶん、夜だったと思う。
見慣れた風景が全部なくなっていて、ところどころ明るくなっているなぁと思っていたら、それは火災の炎だったんだよ。
えらい渋滞で、いつも使っている幹線道路がとにかく動かなかったんだ。
だから時間をかけて山のほうからぐるっと回って、末続の家についたんじゃないか。
電気は止まっていたし、携帯もろくにつながらないから、内陸のほうは、津波のことはほとんど知らなった。
地震大きかったね〜なんて話をしていたんだよ。
埼玉に住む妹から何度か「大丈夫か」ってメールが入ってたんだ。
俺は地震と津波のことを聞かれていると思って、大丈夫だと返した。
妹はそうじゃなくて、原発は大丈夫か?という意味で聞いていたんだよ。
この辺じゃ、原発は遠足でも行くようなところだし、関連企業も含めて原発で働いている人もたくさんいるからさ。
簡単に壊れるわけないだろうって思ってた。
いま思えば安全神話をすっかり信じていたんだよね。信じさせられていたっていうか。
事故が起きるなんて少しも疑ってなかったんだから。
テレビがつかないため、原発事故のことはまったく頭になかった。
逆にテレビで状況を注視していた妹のほうが、状況には詳しかった。
「原発はもうダメ。早く避難して」
「そうは言っても、ガソリンが…」
「走れるところまで避難したら、あとは私が迎えにいくから」
当時、息子は4歳だ。もし、いま避難しなかったらどうなる。
とにかく逃げようと埼玉を目指して、家族をのせて車を走らせた。
原発30キロ圏内なんて意識したこともなかったが、末続もその中にあることを知る。
やがて、いわき市は圏内の住民に自主避難を要請し、3月15日に国から圏内に屋内退避指示がでることになる。
自分たちで避難を決めたが、あとは時間の問題だった。
ほんの数日前まで、なんの疑問を持たずに暮らしていた地区は、避難を余儀なくされる地区になっていった。
国や行政の言うことは本当に信用していいのか?
埼玉に着いてテレビをみると、ニュースは原発事故のことばっかりで本当に驚いた。
あれだけ大丈夫、大丈夫、事故があっても大丈夫だって言ってたのに……。
水素爆発でボーンって原発が吹っ飛ぶなんてね……。
末続はもうどうなるかわからないけど、とりあえず、自分の目でみないことにはどうしようもないと思ったんだよね。
シーベルトとかベクレルとか、数字言われてもよくわからないし。
本当に住めるの?どうなの?ってところが知りたかったんだ。
で、避難して少したった3月中旬から下旬だったと思うけど、妹の旦那の会社が、被災地に支援物資を届けるっていうんだ。
頼むからいわき市に行ってくれってお願いした。俺も行くからって。
友達や職場の同僚も残っていたし、街の様子を自分の目で見たかったんだ。
水だ、カップヌードルだって積んでいったんだよ。
結局、そこから東京といわきを10往復くらいしたと思うんだけど、なんかだんだん街の様子が落ち着いていくのがわかるんだよ。
支援物資も、ものすごく届いているし、そのうち電気やガスが通ったなんて情報も入ってきて、いわき市内は大丈夫だ、帰れるなって思った。
決め手?
市内を歩いても人がいて、みんな生活していたこと。
これ以上の決め手はないよ。
嫁さんの美容室がいわき駅近くの平にあるんだけど、そこの上が住宅だったし、ここならしばらく住めるかなぁって。
国は30キロ圏内の屋内避難指示を解除する。4月22日のことだ。
そのとき遠藤さんは、一方的に「大丈夫だ」と言われたように感じている。
避難が必要です、と言われて避難をしたが、それがどうして戻って良くなるのか。
国や行政の言うことは本当に信用していいのか。
生来、自分のことは自分で決めたがる遠藤さんは、腹をくくり単身、調べに行くことを決める。
末続で暮らせるとは思ってなかった。
30キロ圏内は線量が高い、高いってずっと言われてたし。
国もマスコミもみんな騙していると思ってたからね。
この先、補償金ってでるのかなぁとか、俺はそれで生活していくことになるのかなぁ、とか。
でも、「家を頼む」と言われたし、本当のことがどうなっているのかは、自分の目で確かめないと、と思ったんだ。
「もしかしたら、死ぬかもしれない」
「こんな話をしていいのかな。笑うかもしれないけど、当時の気持ちをそのまま話すよ」
だいたい、声は大きく冗談も交えながら話す遠藤さんが、このときだけ少しばかり真面目な表情をみせた。
タバコに手を伸ばし、そっと吸い上げ、紫煙をふうっと吐き出す。呼吸を置いて、話は続く。
あのとき、俺の頭にあった放射能のイメージって「はだしのゲン」なんだよ。
30キロ圏内に入ったら、鼻血がでて、少しずつ体力が落ちていって、病気になる……、みたいな。
いま思えば失礼な話なんだけどね。
でも、当時は大真面目に末続の様子を確かめたら俺は死ぬかもしれない、と思ってたんだ。
怖かったし、不安なんて山ほどあるよ。でも、頼むって言われた家を誰が確かめにいくんだよって思ったんだ。
だって、山一つ、トンネル一つで避難するところと住んでいいところが分かれるって普通に考えたらおかしいよね。
納得できるわけない。
あっちは避難、こっちは住んでいい。どこで線引きできるんだよ。おかしくねぇか?
国やいわき市や東電は、個別の家のことを調べてくれるんですか?
どうせ、安全です、住んでいいですよっていうに決まってる。
本当に住めるかどうかを決めるのは、俺だって思ってた。
「息子よ、お父さんはお前の家を調べにいって、力尽きる」
これなら、まだ格好がつくかな、なんてね。
俺が納得できないなら、子供を住まわすわけにはいかない。
土地がどうなっているかを調べないと、選択肢を子供に残すこともできない。
受け継ぐってそういうことで、原発事故があったから俺が勝手に田んぼを処分しましたっていうのはダメなんだよ。
自分の使命を放棄するのは、親父として一番ダメなんだ、と思っていた。
ここで死ぬことも仕方ないって思ったけど、いまから考えれば、大袈裟だよなぁ。
振り切れた線量計
友人から借りた線量計は、振り切れて、エラー表示がでた。
「正確な調査のために必要な校正もできていない」シロモノだったからだ、というのは、これもいまだから言えることである。
当時は「やっぱり国は騙しているんだ。危なくなるのはいつかな……」と考えていた。
ところが、いわき駅前の家に帰っても、体調はいっこうに悪くならなかった。
何日たっても、とりあえず生きている。
そうだ、汚染マップを作ろう
あれ、意外と生きられるもんだなとか、考えていたなぁ。
これは、最悪な状況ではないなというのは、少しずつわかってきたの。
でも、どのくらい危ないのか。自分の目で確かめないと納得できないのよ、俺は。
その頃、ちょうど、同じ30キロ圏内の地区に木村真三さん(放射線衛生学者、獨協医科大准教授)が来ていたの。
放射能汚染の状況を地図にしようって話していて、注目されていたんだよね。
俺は無理やり潜り込ませてもらって、地区の住民対象の説明を聞きにいったんだ。
木村さんはそこで、放射性物質は目に見えないけど、目に見えるようにする方法がある。土壌を測定して、地図を作ることだって言うんだ。
もう、これだ!と思ったね。
末続でも地図を作ればいいんだ。そうすれば、どこが線量高くて、どこが低いかわかる。実際に調べればいいんだって。
俺も迷ってたし、何を信じていいかわからかなったけど、自分でやることなら、責任もとれるし、信じるしかない。
死ぬかもしれない、と思ってた俺は生きているわけだから、死ぬ気でこれをやるんだって。
嫁さんは美容室を再開しようとしてたけど、俺はまだ仕事もなかったしね。
パチンコでもやって終わるんだろうなぁってぼんやり考えたけど、目標ができたんだよね。
守れるもの、残せるものは全部守りたいし、残したい。
「息子よ、父ちゃんはお前のために地図を作る」。これだよ。
結局、頼りになるのは地元の人
2011年の夏の時点で、地区に戻った住民は半分もいなかった。
地図作りを思いついたはいいが、遠藤さんは「よそ者」で強面である。
勝手に他人の家を測定したり、土壌を漁ったりしていいのだろうか?
ダメに決まっている。
震災前には地域に友人も相談相手もいなかった遠藤さんは考える。
やはり1軒、1軒訪ね歩いて許可をとるしかない。
歩き回っているうちに、見かねたのか、賛同者もでてくる。
「わかったから、ちょっと貸してみろ。俺から頼んだ方が、お前(遠藤さん)から頼むよりうまくいくから」
これまで話したこともなかった、というよりお互いに少し敬遠していた住民から、声がかかる。
誠実そうだし、ここは頼ってみよう。
言われるがまま彼に任せたところ、ほどなくして地区全体の同意がとれたことを告げられた。
やはり、と若かりしころ身につけた知恵を思い出す。
生きるために必要なのは、人を見る目である。
検討に検討を重ねた結果、末続地区全世帯を含む、7000箇所の空間線量を測ること。
そして地区、家の財産でもある田んぼ約500箇所の測定が決まる。
これは地下5センチと10センチの計1000サンプルで測ることになった。
「かわいそうな住民」?そんな人はいない
問題はお金だ。
この頃、原発周辺で人が住める「最前線」になっていた末続には、科学者やNPO関係者が大量に押し寄せていた。
この人たちに頼んでみるかとも考えたが、大半は頼れなさそうだった。
本当は住めないはずの場所に住む「かわいそう」な住民、として接してくる。
調査するなら何度も足を運んでほしいのに、近くまで来たことで満足する。
1度だけの”視察”で、何がわかるのか。
こっちは生活がかかっているんだと思い、腹立たしさだけが残るのだ。
脱原発、脱被ばくを掲げる有名人の講演で質問をしたこともある。
「息子がいて、こいつのために30キロ圏内にある地区で測定をしている。そうまでして、末続に住もうと思う俺は間違っているのか」
回答は引き出せなかったが、周囲から聞こえてきたのは「子供がかわいそうだ」「そこまでして住むのか」という声だった。
遠藤さんは思う。
そういう態度は、口では「ご迷惑をかけた」と言いながら、その後は何も手伝ってくれない国や東電と同じだ、と。
頼れる人をシンプルにふるいにかけていく。
結局、お金を払って、地元の業者に委託することにした。
土下座してでも手に入れろ、100万円
この先、遠藤さんは人生に2度しかない土下座を立て続けに経験することになる。
1度目の土下座は業者に。最初に要求された費用は500万だった。
「え?そんなに」と驚く遠藤さんに、業者は淡々と説明がする。
「採取とあわせたらそれくらいになってしまいますよ。だって1000検体もとるんですよね」
「じゃあ、検体をとるのは自分たちでやります。その代わり、計測だけ100万でやっていただけないでしょうか」
ここで土下座をする。100万に根拠があったわけではない。
なんとなく、最終的に自腹を切れると思った額だった。
業者も折れた。
「わかりました。検体の用意はお願いします。検査だけなら100万円で引き受けます」
そして、末続地区の区長の家にも向かう。
自腹を切る前に、交渉だけはしておこうと思ったのだ。
末続地区には、地区の行事に使うために住民が共同で積み立てているお金があるはずだった。
「区長、お願いがあります」と、ここで人生2度目の土下座をする。
「なんだ」
「放射能の汚染地図を作る調査のために、100万を貸してください」
「貸すのはいいけど、返すあてはあるのか?」
「国と東電から取り返します」
ハッタリである。しかし、国策として原発を進めてきた国と、事故を起こした東電に責任があることは明白だ。
何もやらないから、俺たちがやる。
だったら費用くらいは払ってもらうのが筋ってものだ、と考えていた。
100万円の前借りは成功した。
そうこうして、できあがったデータはファイル4冊分になった。
データを線量別に落とし込んで地図にすると、印刷分にして約4000枚に達する資料ができあがった。
遠藤さんはこれを黒いスーツケースにすべて入れている。
モノサシは自分たちで作る
線量について勉強したし、データの読み方も学んだ。
結論から言えば、もちろん人それぞれだけど、生活するには問題ないと言える線量だった。
この土壌データなら、米を作ることには問題ない、と俺には思えた。
地域の線量は、子供と一緒に住むならこれくらいまで下がったら戻れるという目処を自分なりにつけることもできたのも収穫だったな。
データは交渉にも使えるし。
例えば市役所と除染の交渉をするときにも、ほら、これみろ。
当時はこんな線量だったんだ、と言えるじゃない。
でもなにより、やりきるってことが一番大事だったんだ。
自分たちで、自分たちの住むところの状況を把握する。
国や東電が押し付けるモノサシじゃなくて、自分たちでモノサシから作るっていうか。そういうのが大事だったんだよ。
お金はね、ちゃんと東電から回収できたんだ。
俺が会長になって、「末続ふるさとを守る会」っていうのを作って、その団体から請求することにしたんだ。
交渉も一筋縄ではいかなかったけど、最後まで押し切った。これは払うのが筋だろうって。
そのとき思ったの。
これは、どっかの犬が玄関前に糞をしたとします。さて、この糞を誰が片付けますかって話だ。
飼い主のところに電話して、糞を取りにこさせますか?
そんな時間はもったいないから、自分で片付けて、あとで抗議するよね。そういうことなんだよ。
米づくりを、もう一度
残った問題は米だった。2011年は地区全体で作付けを取り止めようと、自主規制がかけられた。遠藤さんはそれが疑問だった。
「実際に作ってみないとわからないだろう」
地図作りを進めながら、規制には従わず、30キロ袋換算で、震災前の半分以下、16袋分だけ作った。
2010年に義父が亡くなってから、自分だけで作るのは2回目だ。
やってみないとわからなかったが、できなくもないだろうという漠然とした思いはあった。
ところが、収穫した米の中に、最大で1キロあたり500ベクレルの放射性物質を検出した米が混ざっていた。
ある袋は1キロあたり80ベクレル、別の袋は200ベクレル前後。
振れ幅が大きすぎる。
米そのものが原因なら、こんなに振れ幅は大きくならないはずだ。
別の混入経路があるのではないか。
結論から言えば、籾すり機、乾燥機に付着したほこりが混入したことが原因だった。
放射性物質はこんなところにも飛散している。原発事故の現実をまざまざと見せつけられた気がした。
問題点がわかれば、さして怖がる数字ではない、と思っていた。
事実、出荷制限をクリアしている袋がある。
玄米からさらに精米して、米を洗えば数値はさらに下がる。
袋を入れかえても下がるだろう。
自家用を8袋分確保し、残り8袋分は検査をクリアしていたため供出分として農協に出荷した。
他人に勧めることだってできるんだから、自家用も問題ない。
しかし、遠藤さんにはそれができなかった。
安全?そんなことはわかっている。でも……
500ベクレルの米っていっても、実際はほこり混入が原因だから、それを取り除いたら80〜90ベクレルなんだよ。
そのあと測ってもそのくらいだったし。
できはいつもと同じように良かったし、決して食べられないものじゃないことはわかっている。
自分だったら食べるし、人に勧めることもできる。現に検査して出荷だってしたんだ。
でも、息子に食べさせることはできなかった。
せづねぇぞ。これは。
てめぇが口にしないものを人に勧めるって罪悪感はどうしたって、残るぞ。消えないんだ。
俺は米農家で、米は大事にしろって言ってるのに、自分で山に捨てたんだよ。
あの日のことは、ずっと記憶から消えないだろうな。
俺は裏山に捨てながら、人にはこれを食べてくれって勧めているんだって思うと、罪悪感しか残らないよ。
もう、これくらいならリスクは低いって頭ではわかっているのに、子供に食べさせようとした時に、ふとよぎるんだよ。
3年後、5年後はどうなるの?
お前責任とれるのかって。
俺は息子に米作りを続けるかどうか、選択肢を残すために、線量を測って、米が作れる土地と生活を取り戻そうとした。
でも、避難した人の気持ちや、福島産のものを食べたくないって人の気持ちもわかるんだ。
俺は自分が作った米を、米農家なのに息子に食べさせられなかったんだから。
何をどこまで食べるかって個人の自由だから。
親ってそんなもんじゃないかなぁ。頭ごなしに批判しちゃダメなんだよ。俺も否定する権利なんてないんだ。
もう二度とできない、と思ったこともあったけど、できるんだよ
2011年に無念さだけが残った作付けだったが、2012年は地区全体で解禁し、大豊作となる。
1年目の経験に学び、遠藤家の米は放射性物質の基準値をすべてクリアするだけではない。
これなら子供に自信を持って食べさせることができる、と納得できる値だった。
もう二度とできない、と思ったこともあったけど、できるんだよ。
もう住めないし、俺が終わらせてしまうって思った場所で、原発事故の前と同じように田んぼに稲穂が実る光景が見ることができてね。
これなら、食べさせられるぞって。
父との約束も守ったし、親父として息子の選択肢も残したんだ。もう、これで大丈夫だと思ったね。
末続に住む人たちは、まず自分たちの米がいちばん美味しいと言う。
遠藤さんは遠藤さんの米がいちばんだ、と言い、別の家は自分たちこそがいちばんなのだと主張する。
他の地域からやってくる人たちには、とりあえず「末続で取れた米」がうまいという。
たぶん、それが文化であり、伝統と呼ばれるものなのだろう。
ただ暮らすだけでなく、土地とともに生きるということ。
原発事故に直面したのは、こんな、ごくごく普通の田舎なのだ。
憐れみや同情はいらない
「俺、原発事故で苦しいし、辛いこともたくさんあったけど、楽しかったことだってあったんだよね」
「いろんな人とつながることができたし、みんなで乗り越えることができた」
こういったら誤解されるかもしれないけど、と断りながらでてきたのは「楽しい」という言葉だった。
テーブルの上には、遠藤さんたちが作った地図が広がっていた。
それは原発事故で奪われたこの土地の暮らしを取り戻そうとしてきた過程、そのものである。
「楽しい」という言葉は、その過程のなかで遠藤さん自身が役割を引き受け「生きがい」を見つけていったからでてきた。
そして、地図自体も科学的に貴重なものとして注目されていることは、少しばかり記しておいてもいいだろう。
末続地区は原発事故と向き合う地域のモデルケースになっている。
科学者だけでなく、国際機関の視察、調査も頻繁にある。
科学者の先生たちの中には何回も来てくれる人もいるから、そういう人は信頼しているんだ。
頼っても大丈夫だ。
俺がいいなぁと思うのは、何度も来てくれる人。
また来るよっていって約束を果たす人。一緒にリスクを考えてくれる人。
あと、自分で決めたことを尊重してくれる人。
えらい先生だろうが、なんだろうが、大事なのはこれだな。
憐れみとかは同情はいらない。
原発事故で考えたのは、どうやって生きるかってことだよ
いろんな科学者がいたよなぁと、しばらく思い出話にふけっていた深夜2時過ぎである。
「憎しみや怒り、不安って……」
遠藤さんが、また真剣な表情に戻り、ぽつりぽつりと語り出す。
「6年たって思うんだけど、憎しみや怒りって強い力があるじゃない。争いも起こるし、それを利用する人たちもいる」
「それって俺がここでやりたかったことと違うんだよね」
「国や東電に対する怒りは当然あるよ。でも、それは俺の怒りであって他の人に利用されるのは嫌なんだよね」
遠藤さんが末続の家に、家族を連れて、震災前と完全におなじ生活を再開したのは2016年の夏からだ。
一時的な居住先だったはずの、いわき駅前の家に約5年住んでいたことになる。
週末に末続に泊まったり、祭りがあるといえば駆けつけたりしていた。
田植えのシーズンとなればしょっちゅう立ち寄って、「米作りの師匠」という老人と話し込んでいたが、どこで家族を連れて戻るのか。
その決断は最後の最後まで慎重だった。
父親だから、不安があるに決まってるじゃない。
でも、それは放射能の不安だけじゃなくて、交通事故にあわないかな、とかインフルエンザにかからないかなとか、そういうことだよ。
リスクなんて、いろんなところにあるんだから。
息子は(いわき駅前の家近くの)平の小学校にいれたし、そこでの友達関係もあるしね。
生活変えていいのかなぁとかそういうのも考えるでしょ。
息子の話になると、真剣な顔は崩れ、やがて顔がにやけはじめる。
夜も更け、空の酒瓶も増えていく。
結局、原発事故で、遠藤さんが一番考えたことはなんですか?
こんな私の質問に、”親父”はアジのある言葉で返してくるのであった。
「原発事故で考えたのは、どうやって生きるかってことだよ」
「辛くて、これはもうダメだ、と思っても知恵と行動で乗り越えられることがあるってことを、息子よ、親父は背中で教えたかったのだ」