最終号は全270ページ以上のボリュームで、映画・音楽・演劇・美術・スポーツの各分野の総決算のほか、これまで同誌の表紙を飾ってきた及川正通のイラストの数々と、そのモデルとなった著名人からのコメントなどを収め、さらに付録として創刊号の復活版までつき、まさに「永久保存版」と呼ぶにふさわしい内容になっている。また、各ページの左右両端(いわゆる“柱”)に読者投稿欄である「はみだしYOUとPIA」が最初で最後の復活を果たしたのも、かつての読者にはうれしいだろうし、休刊以降、8月から年末までのエンタメ情報まで収載しているのも、いかにも律儀だ。
個人的にも、東京に住んでいた頃は「ぴあ」にはお世話になった。毎週(1990~2008年までは週刊だった)のように誌面をチェックし、ギャラリーをはしごしたり、劇場に足を運んだものである(何だか、じいさんみたいな語り口になってしまうけど)。また、友人と主催したイベントの告知を掲載してもらうという経験もした。指定の用紙に記入してファックスで編集部に送れば、どんな小さなイベントの情報でも載せてくれた「ぴあ」とはいえ、自分たちの名前が誌面に載ることで主催者としての責任感が強まったのはたしかである。そういった「ぴあ」をめぐるもろもろの体験が現在の自分のコヤシになっていると、信じたい。
■そもそも「ぴあ」は雑誌だったのか?
ここでふと思うのだが、「ぴあ」は果たして雑誌だったのだろうか? 私にはどうも、同じく70年代に創刊された「宝島」「アンアン」「ポパイ」「ビックリハウス」などといった若者向け雑誌と同じ文脈では「ぴあ」を語れないような気がするのだ。
たとえば、物の本には、「ぴあ」の特徴として次のようなことがあげられている。
《[引用者注――「ぴあ」は]月一回の発行で三年目に黒字に転じた。創刊以来の、同好会の催しまでも収載する「情報の完全網羅性」、読者に選択をゆだねる「客観性」、あらゆる情報を等価に扱う「平等性」、時刻表のような「正確性」、引きやすく選択の容易な「機能性」が受け入れられたのである》(『昭和 二万日の全記録』第15巻)
ここにあげられたものはほぼ、グーグルなどに代表される現在の検索エンジンと共通するものではないだろうか。そう考えると、「ぴあ」は、“70年代に登場したグーグルである”ということもできるかもしれない。
想像してみよう。いま、グーグルの社員たちが突如として1970年代前半にタイムスリップし、その時代でグーグルと同じサービスを始めるとしたら、まだインターネットというものが存在しない以上、やはり雑誌という形態をとらざるをえないのではないだろうか。
「ぴあ」については、それまで植草甚一や淀川長治のような街歩きの達人しか持ち得なかった情報を一般に開示した、といった評価がある。また、前出の本では、「ぴあ」の創刊メンバーのひとりである林和男(現・同社取締役)の回顧として、《唐十郎さんからは呼びたくない客まで来るようになったとも言われましたが、小劇団では来る客は知り合いばかりというのが大半で、多くの客が見にいける機会をつくったと考えている》という談話が紹介されていた(ちなみに劇作家・演出家として60年代以降現在も精力的に活躍する唐十郎は、「ぴあ」の最終号の132ページにコメントを寄せている)。それまで一部の人に独占されていた情報を、万人がアクセスできるようにしたという点で、「ぴあ」の創刊はその後のインターネットの登場に匹敵するインパクトをもたらしたといっても過言ではないだろう。「ぴあ」は雑誌という姿をまとった一種の情報インフラだったのだ。
「ぴあ」の創刊時のメンバー(放送局でのバイトで知り合った大学生たち)も当初からそのことに十分意識的であった。それは、創刊号の編集後記での《これまで、映画、演劇、音楽に関する専門誌・評論誌等は数多くありましたが、情報に関しては、皆一様に巻末に追いやられているのが現状です。そこで「ぴあ」は情報だけを独立させ、映画・演劇・音楽の総合ガイド誌として位置することを目指します》という宣言にも表れている。「ぴあ」の情報へのこだわりは、同時期に登場した「プレイガイドジャーナル」や「シティロード」、あるいは後発の「東京ウォーカー」や「TOKYO1週間」といったライバル各誌よりもはるかに強かったのではないか。
「ぴあ」の幹部らが1978年にヨーロッパを旅行した際、当時イギリスやフランスに普及しつつあった、コンピューターを使った情報オンラインシステムに驚愕し、帰国後すぐに検討を始めたのは当然だったといえる。このとき幹部たちが抱いた《もし、このシステムが日本にも導入されたら、『ぴあ』のような活字による情報サービスは存在意義を失い、消え去ってしまうのではないか。
オンラインシステムの導入は、その後NECと電電公社(現・NTT)が開発したキャプテンシステムを活用するなどして段階を追って進められ、1984年には「チケットぴあ」という発券システムとして首都圏でサービスを開始した。これは、「ぴあ」で演劇やコンサートの情報を見つけても、チケットが入手しにくいという、当時寄せられるようになっていた苦情に応えるものでもあった。しかも、端末の画面には座席情報も示されることから、自分の好きな席を選べるようにもなった。「チケットぴあ」もまた、「ぴあ」本誌と同じく一種の“情報公開”に貢献したのである。
これと前後して、1979年の「ぴあ」隔週刊化を機に「ぴあMap」の連載が開始され、やがて増刊として毎年改訂版が出されるようになった。雑誌から地図へという流れは、グーグルが検索エンジンからさらにグーグルマップ、グーグルアース、ストリートビューとサービスを拡大していったこととも符号する。もっとも、「ぴあ」の元社員で作家の盛田隆二が、《国土地理院の白地図を画板に貼り、ただがむしゃらに東京の街路を歩きまわった》(『いつかぼくは一冊の本を書く』)と「ぴあMap」の開始当時を振り返っているように、衛星写真を使ったり、街中に車を走らせローラー作戦で撮影を行なっているグーグルとくらべると、「ぴあ」のやり方は地道なものであったようだが。
ともあれ、企業としての「ぴあ」はインターネットの時代を先取りするかのごとく、その事業を拡大していった。しかし、そのネットがこれだけ浸透しても、雑誌版「ぴあ」はしぶとく残り続けた(私が「ぴあ」休刊を知ったとき、正直「ここまでよく続いたな」と思ったものだ)。そのことにもまた大きな意味があったように思う。
■それでもやはり、「ぴあ」は雑誌であった
「ぴあ」が雑誌として発行されることには、どんな意味があったのか。
《時代は移り、インターネットで情報を手に入れるようになった僕たちは、自分の目当てのもの、自分の興味のあるものしかアクセスしなくなりました。いえ、できなくなりました。かつての『ぴあ』のようなシステムで映画や演劇を紹介しているネットのページはありません。観客動員や広告料によって、スペースはチョイスされ、全ての情報を無条件で等価に並べるなんていう、膨大な手間のかかる、消費者に優しくない運営をしている所はないのです》(116ページ)
ネットの検索エンジンで並べられる情報には一見、「平等性」や「客観性」があるように思われがちだが、じつはその裏ではさまざまな「不平等」な操作が行なわれていたりする。その意味では、「ぴあ」とグーグルは似て非なるものなのかもしれない。また、ピンポイントではなく俯瞰図として都市の文化を提示するということは、たしかに雑誌でないとなかなか難しいかもしれない。映画と演劇と音楽とお笑いと美術とスポーツと、あらゆる情報を一冊のなかに収めたことこそ、雑誌としての「ぴあ」の存在意義だったといえる。
もうひとつ、「ぴあ」に雑誌的なところがあったとすれば、それは及川正通のイラストではないだろうか。「ぴあ」が登場する以前、小劇場演劇(当時「アングラ」などと呼ばれていた)の上演の宣伝にはポスターがかなりの威力を発揮していた。及川も寺山修司の劇団「天井桟敷」のポスターをたびたび手がけ、横尾忠則や宇野亜喜良などと並んで傑作を残している。いっぽうで及川は「平凡パンチ」や「GORO」などといった雑誌でブラックで風刺の効いた劇画を連載し、その毒ゆえに、ときには超人気作家だった五木寛之を怒らせるなど、ゲリラ的ともいえる活動を展開していた(このエピソードは、「ぴあ」7月21日号のインタビューで明かされている)。
「ぴあ」の存在意義と熱気は、その雑誌版の休刊によって失われてしまうのだろうか。ただ、惜しんでいるだけではいられない。ウェブ媒体でもその欠落を埋める歩み寄りが必要なのだと思う。せめて文化の俯瞰図という役割だけでも、この「エキレビ!」で引き継ぎたいものだ。(近藤正高)