5 #移民とカルチャー

2010年代ハリウッド映画を代表する「三大メキシコ系移民作家」の作品を、メキシコ系移民たちは必要としているのか?

ARTS & SCIENCE
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2010年代の映画界におけるメキシコ・フィーバーは「トランプ時代の反響」と言い切れるのか?

2013年は『ゼロ・グラビティ』でアルフォンソ・キュアロン、2014年は『バードマン あるいは(無知がもたらす予期せぬ奇跡)』でアレハンドロ・ゴンサレス・イニャリトゥ、2015年は『レヴェナント』で2年連続のイニャリトゥ、2017年は『シェイプ・オブ・ウォーター』でギレルモ・デル・トロ、2018年は『ローマ』で5年ぶりにキュアロン。アカデミー賞という少々古びた権威にどれほどの価値を置くかはさておき、2013年から2018年までの6回のアカデミー監督賞のうち、実に5回がメキシコ人監督によって占められているというのは異常な事態である(『バードマン』と『シェイプ・オブ・ウォーター』は作品賞も受賞)。アカデミー賞史観で言うなら、残りの一年を待たずに「2010年代はメキシコ人監督のディケイドだった」と言ってしまうことも可能かもしれないし、自国のアメリカ人監督を除いてここまで特定の国の監督たちの受賞が集中した時代は過去にもなかった。

映画『ゼロ・グラビティ』予告
映画『バードマン あるいは(無知がもたらす予期せぬ奇跡)』日本版予告編
『シェイプ・オブ・ウォーター』日本版予告編

一方で、言うまでもなく、2010年代後半、つまり2015年6月に大統領選挙への出馬宣言をしてから現在にいたるまで、アメリカはドナルド・トランプの時代に突入している。そして、トランプの公約や政策においてここまで国内外で最も激しい論争を巻き起こしてきたのはその移民政策、とりわけ、不法移民も含む膨大な人々が米国内で生活を送っていて、大統領選キャンペーン中にはその国境に壁を建設するとまで宣言した、メキシコ系移民に関する問題だ。

これを「メキシコ系移民を排斥しようとする保守トランプと、メキシコ人の監督たちを称揚するリベラルなアメリカ映画人」という単純な構図に収める前に思い出す必要があるのは、まだトランプが大統領選に出馬する前の2015年2月の授賞式での、作品賞のプレゼンターを務めたショーン・ペンと彼から賞を受けたイニャリトゥのやりとりだろう。イニャリトゥと『21グラム』(2003年)でタッグを組んだこともあるペンは、受賞者の封を開けた瞬間、『バードマン』の作品名を読み上げる前に「誰だよ、こんなやつにグリーンカード渡したのは?」とジョークを飛ばした。それを受けて、壇上に立ったイニャリトゥは「来年から移民は制限されるかもね」と軽妙に返してみせた。(特に役者部門における)ノミネートのほとんどが白人で占められていることに大きな批判が巻き起こるようになったのもこの年からだったが、前年のキュアロン『ゼロ・グラビティ』に続いてのメキシコ・フィーバーに湧いた第87回アカデミー賞授賞式の頃は、まだそんな際どいやりとりが、未来に向けての漠然とした「いい予感」とともに多くの人に共有されていた。

Birdman: Or (The Unexpected Virtue of Ignorance) Wins Best Picture

キュアロン、イニャリトゥ、デル・トロを中心とする、60年代メキシコ出身の映画人たちの関係性と、その絆

キュアロン、イニャリトゥ、デル・トロ。いずれも60年代前半生まれ、現在50代半ばのこの3人のメキシコ人監督たちは、本格的に海外進出をする以前から固い友情で結ばれてきたことでよく知られている。キュアロンとイニャリトゥは同じメキシコシティ出身、そしてキュアロンとデル・トロはメキシコ随一、というよりもラテンアメリカ随一の名門大学として知られるメキシコシティのメキシコ国立自治大学の先輩と後輩の関係。『ゼロ・グラビティ』、『バードマン』、『レヴェナント』で史上初の3年連続アカデミー撮影賞受賞を成し遂げ、テレンス・マリックやマイケル・マンの作品においても重要な役割を果たしてきた天才カメラマン、エマニュエル・ルベツキも同じメキシコ国立自治大学の同窓で、キュアロンにとっては初の商業作品である80年代のメキシコのテレビシリーズ『Hora Marcada』以来のパートナーだ。また、彼らより一足早くアメリカに活動の拠点を移し、スパイク・リーやオリヴァー・ストーンやアン・リーらとの仕事を経て近年はマーティン・スコセッシ作品の撮影監督を務めているロドリゴ・プリエトも彼らと同年代で、出身もメキシコシティ。プリエトは『ビューティフル』(2010年)まですべてのイニャリトゥ作品で撮影監督を務めてきた。

限定されたひとつの世代、ひとつの土地からここまで多くの世界の映画界を代表する才能を輩出している事例は、アメリカ国内を含めても同時代で他になかなか見当たらないが、昨年キュアロンが『ローマ』を発表するまでは、イニャリトゥの2006年作品『バベル』(の一部)が3人の監督作品では母国メキシコで撮影された最後となっていた。監督と役者ではひとつの作品に関わる時間の長さが違うので単純な比較は妥当ではないが、イニャリトゥの『アモーレス・ペロス』(2000年)やキュアロンの『天国の口、終りの楽園。』(2001年)を足がかりにメキシコ国外の作品でも活躍するようになったガエル・ガルシア・ベルナウやディエゴ・ルナが、ハリウッドの大作と並行して自国映画にも積極的に出演し続けているのとは対照的だ。

アメリカ、スペイン、イギリスと世界中を駆け回るようになったキュアロン、イニャリトゥ、ギレルモが、仕事を口実に母国に帰って頻繁に会うために2007年に共同設立したのが、メキシコの映画会社チャ・チャ・チャ・フィルムスだった。その第一作となった『ルドandクルシ』(2008年)は、製作に仲良く3人が名を連ね(監督はアルフォンソの弟カルロス・キュアロン)、『天国の口、終りの楽園。』以来久々にガエル・ガルシア・ベルナウとディエゴ・ルナがダブル主演するなど、まるで同窓会のような作品となったが、それから早10年以上。チャ・チャ・チャ・フィルムスはイニャリトゥがスペインで撮った『ビューティフル』やギレルモがドリームワークスと組んだNetflixのCGアニメ『トロールハンターズ アルカディア物語』の製作にも噛んではいるが、多忙を極める3人が顔を合わせる「口実」にどれほどなっているかは今となっては疑わしい。もちろん、それぞれが賞に輝いた時のコメントやソーシャル・メディアでのやり取りからも、3人の絆に変わりがないことはうかがえるが。

映画「ルドandクルシ」予告編
映画『BIUTIFUL ビューティフル』予告編
トロールハンターズ 予告編

世界で活躍するメキシコ人映画監督が「個人的な映画」を撮る理由

キュアロンが久々に母国に戻って、自身の幼少期の記憶を元にメキシコ人のスタッフやキャストと共に作り上げた自伝的作品『ローマ』は、長く曲がった道のり(その過程では当初デル・トロが監督第一候補だったと言われる『ハリー・ポッターとアズカバンの囚人』に抜擢されるという、その後そのままブロックバスター作品の監督になっていく道筋もあった)を経て、ようやくここで一回りしたという深い感慨を覚えずにはいられない作品だった。

『ROMA/ローマ』ティーザー予告編

キュアロンは近未来のロンドンを舞台にした『トゥモロー・ワールド』で、イニャリトゥは『バベル』の中のひとつのパートやバルセロナを舞台にした『ビューティフル』で、不法移民のテーマにも真摯に向き合ってきた。デル・トロがその作品の多くで一貫して描いてきた「社会から迫害される存在」にも、移民のメタファーが込められきたに違いない。しかし、アメリカに住む(合法不法問わず)多くのメキシコ系移民たちや当のメキシコ人にとってより広く愛されているのは、例えば『アントマン』シリーズ(もちろん監督はアメリカ人だ)でマイケル・ペーニャ演じる主人公の親友ルイスのような、陽気で屈託のないメキシコ系移民のキャラクターだろう。そこには、「シリアスな環境に置かれている人々が、シリアスな作品を求めているわけではない」という映画が本質的に抱えているエンターテインメントとしての役割が横たわっている。

唐突だが、自分は映画だと『ボーダーライン』シリーズ、テレビシリーズだと『ブレイキング・バッド』や『ナルコス』に代表される、コロンビアやメキシコの麻薬カルテルが作品のテーマと密接に関わった作品に、自分でもちょっとどうかと思うほど深く傾倒している。そこには、人間の極限的な残虐性、その極限的な残虐性からしか生み出され得ないスリルとサスペンスがあるからだ。数年前、キュアロンらの次世代として最も期待されているメキシコ人監督のひとり、ミシェル・フランコ(『父の秘密』、『或る終焉』、『母と言う名の女』)にインタビューした際に、「あなたの母国で現在も続いている麻薬戦争を題材にして、作品を撮ろうと思ったことはないのか?」という不躾な質問をすると、彼はこう答えた。

「今もメキシコに住んでいるので、麻薬戦争についてはとても強い関心がある。でも、麻薬戦争を過度にスタイリッシュに描いたり、カリカチュアしたり理想化したりして描くことには反対だ。それはアメリカの映画やドラマがやっていることで、自分はいいことだと思わない。僕は個人的な映画をこれからも作り続けていく」。

おそらく、キュアロンやイニャリトゥやデル・トロに同じ質問をしても、それに近い答えが返ってくるのではないだろうか。世界中が現在のような姿になるずっと前から、激しい格差社会で知られるメキシコにおいて、彼らは中流以上(ということはつまりは上流だ)の家庭に育ち、高い水準の教育を受け、キャリアの早い段階から海外でも仕事をするようになり、途中である程度の浮き沈みはあったものの現時点ではアート的にも商業的にも大きな成功を収めている。そんな彼らにとって、アメリカのメキシコ系不法移民の現状を真っ正面から描こうとしたらどこか欺瞞がつきまとうのだろうし(だからこそこれまでも舞台がロンドンやバルセロナに置換されてきた?)、ましてや麻薬カルテルを描くなんてことは、ハリウッドにおけるメキシコ人の類型化に自らはまりにいくようなことなのだろう。フランコの言っていた「個人的な映画」というのは、それこそ40代でメキシコに帰化したルイス・ブニュエルの時代から、キュアロン、イニャリトゥ、デル・トロ、そして次の世代までひとつの線でつながっている、世界で活躍するメキシコ人映画監督に共通する美徳かもしれない。

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