【飢え、病気追い打ち日本軍の死者19万人】
「ジャワの極楽、ビルマの地獄」。太平洋戦争中、日本兵たちは南方の戦地をそう呼んだ。無謀な作戦の代名詞「インパール作戦」をはじめ、敗走を重ねたビルマ(現ミャンマー)戦線は、それほど過酷だった。投入された約30万人のうち、戦闘や飢え、病気で約19万人が命を落としたとされる。だがミャンマーは政情不安が続き、遺骨収集さえ進まなかった。同国内に今も眠る遺骨は約4万5600柱。民主化の進展で、日本政府はようやく少数民族支配地域への調査団派遣を近く再開する方針を固めた。シリーズ「戦争と人間」第7部は、地獄を生き抜いた今里淑郎(いまさとしゅくろう)さん(93)=宝塚市=と、細谷寛(ほそたにひろし)さん(96)=神戸市垂水区=の記憶をたどる。(森 信弘)
ビルマで日本軍は英軍中心の連合軍と戦っていた。1944(昭和19)年秋、現地に渡って間もない今里さんは、中国との国境に近い北部、バーモ付近で変わり果てた姿の日本兵に遭遇する。
「ぼろぼろの薄いシャツに破れたような半ズボン。裸同然で、飯ごうだけ持った敗残兵がひょろひょろと来て目の前で倒れるんや。あれはアメーバ赤痢やと思うんやけど、体力あらへんからね。そういう兵隊がうろうろしとりました。山道で座れるような場所にもあっちで3人、こっちで5人とおりました。へたりこんだもんが何人も『殺してくれ』と下半身にしがみついてきてね。あれは、ほんまに困りましたな」
日本軍が補給を軽視して隣接のインドへ攻め込んだインパール作戦は同年7月、失敗に終わり、中国軍も攻勢を強めていた。今里さんは陸軍歩兵第168連隊の通信中隊に所属し、無線分隊の分隊長だった。
「ショックもショック。これが日本人の成れの果てかと。まだ、徹底的な負け戦とは知らなんだわけや。歓喜の旗で送られたのに、現地でこんな姿になったなんて人に言われへん。座ったまま亡くなってるのもようけありましたな」
一方の細谷さんは、陸軍第55師団衛生隊の担架兵としてビルマに派遣された。敗走する中で45(昭和20)年7月、敵中を突破する広大なシッタン河の渡河(とか)作戦に挑んだ。
「途中で動けなくなったら、もうおしまいという感じでしたね。負け戦というのは大変なもんです。普段やったら病院に収容して治療できるけど、できない。捨てていくわけです」
渡河に向け、身を潜めていた山中で動きだした朝は、銃声が響いた。
「出発前に動けない兵隊がおるからね。重病人とかは、自決するんです。捕虜になるなっちゅうのもあるわけでしょ。山を出て集落におった時、座り込んで動けなくなった兵隊さんから飯ごうを渡されてね。以前から気心の知れた人でした。マラリアかなんかで食事ができなかったと思うね。炊けた白ご飯がいっぱい入った飯ごうを、持って行けって渡された。私は『元気出してついてこいよ』と別れたんですけどね。それから会うことはなかったです」
2015/8/18