自分の仕事をよりスムーズに、より「ハカどる」ためにはどうしたらいいのか。今話題のハカどっているヒトを発見し、「ハカどーる認定」していくのが当連載、『噛みしめて読みたい。ハカどーるヒトたち。 powered by lifehacker』です。
「クロレッツ」「リカルデント」「ストライド」といったガムで知られるお菓子メーカーモンデリーズ・ジャパンの「ガムならハカどーる」キャンペーン委員会と一緒に企画を立ち上げたこの企画。第三弾は、世界中から旅行者が集う大人気のゲストハウスを運営する株式会社Backpackers' Japanの本間貴裕さんと宮嶌智子さんです。
ぜひ、ガムでも噛みながら読んでみてください。
「あらゆる境界線を越えて、人々が集える場所を」。こんなスローガンを掲げて、東京で2軒のゲストハウスを運営しているのが、株式会社Backpackers' Japanです。代表の本間貴裕さんと統括マネージャーの宮嶌智子さんは、まだ20代後半という若さ。本間さんの想いに共感した仲間3人と2010年2月に起業し、東京・入谷にある、味わい深い日本家屋を改築したゲストハウス「toco.」をオープン。続いて、2012年9月、蔵前にある6F建ての倉庫をリノベーションして、「Nui. HOSTEL & BAR LOUNGE」を開きました。観光地・浅草に近いこともあり、瞬く間に世界中から旅行者が集う人気の宿になりました。部屋はほとんど満室、宿泊客の8割が海外からといいます。
資金ゼロ、大学を出て数年の若者たちがどうやって3、4年で注目される宿を2軒も経営できたのか? なぜ彼らの宿に人が集まるのか。本間さんたちの仕事がハカどる理由は、「旅に関わる仕事を一生の仕事にしたい」という情熱と、夢を実現させる行動力、そして、文字通り「同じ釜の飯を食った」仲間を信頼する力にありました。
旅に関わる仕事を一生の仕事にするために内定を蹴り、仲間を口説いた
── お二人の出会いから起業までのストーリーを教えて下さい。
本間:僕が福島大学3年生の頃、1年間休学してオーストラリアに留学したんです。そのとき、現地の人に連れていかれたのがシドニーの「レールウェイ・ユースホステル」という宿でした。ヨーロッパ人、アジア人、世界中の人がビール片手にわいわい話していたんです。初めての海外で「こんな場所があるのか」という衝撃を受けました。それがきっかけとなって、1年間でオーストラリア28都市のユースホステルやゲストハウスを巡り、路上で音楽を演奏しながら自分の力でお金を稼ぐことの面白さに目覚めたんです。でも、日本だと大学3年生くらいになると「もうこれからの人生は楽しめないから、学生のうちに楽しんでおけ」みたいことをよく言われるじゃないですか。僕も「そんなもんなのかな..」と思っていたんですが、学生としての限られた時間を楽しむよりも、この先オーストラリアでの体験を活かして旅に関わる仕事を一生の仕事にするにはどうしたらいいのか?と考えていました。
1社内定もいただいていたんですが、辞退しました。そこで残されたのは、自分が旅を続けるか、旅行業をやるかという二択でした。でも、アルバイトをしながら旅をするのでは、本当の意味で社会に入れないということもわかっていました。だから、最初は旅行業で起業しようかなと思ってたんです。でも、まだ何もビジネスのことをわかっていない学生でしたから、当時の計画書はすごくチープで、バスを1台買ってみんなで旅をしよう、というような内容で、テレビ番組『あいのり』みたいな感じでした。
本間貴裕さん。1985年福島県生まれ。株式会社Backpackers' Japan代表取締役社長。本間さんの想いからスタッフ全員、有給をとって1年に1度、2週間の旅に出る。条件は「1人で行くこと」。── その頃、宮嶌さんはもう就職されていたそうですね。
宮嶌:本間から「一緒に事業をやろう」と声をかけられたときは、新卒でイベント系の会社に入って働いていたんです。仕事は大変ながらも楽しくやっていたので、誘われたときは、3カ月くらい悩みました。両親の反対が一番大きかったですね。父は経営者で経営の大変さを知っている分、娘を社会の荒波の中に入れたくない、という思いがあったと思います。でも、本間をはじめとする3人の男子がスーツを着て私の実家に「娘さんをください!」と挨拶に来たんですよ。それで、父も「この子たちは本気なんだな。反対してもしょうがないんだな」って最終的には了承してくれました。4人で共同生活をしながら、たい焼き屋で1000万円の資金を貯める
── 起業するのに必要な資金はどう工面したのですか?
本間:メンバーの親戚に九州でたい焼き屋を経営されている方がいて、ちょうど関東に進出しようという時期でした。そこで、4人でたい焼き屋で働いて1年で1人200万ずつ、全員で800〜1000万円くらいを貯めようと決めました。でも、その頃は、その資金を元手に旅を仕事にしたいというだけで、まだゲストハウスをやるという構想はなかったんです。 宮嶌:でも、私はたい焼き屋をやることにすごく反対しました。だって、たい焼き屋をやるために、会社を辞めたわけじゃないから(笑)。それだったら、会社に勤めながら1年間に200万円貯めた方がいいじゃないかって。でも、4人で一緒にいる方がいいな、って退職したんです。今振り返るととても大切な時間でした。ケンカもしましたけど、一緒に生活してよかったと思いますね。 本間:当時は、たい焼き屋しかお金を稼ぐ選択肢がなかったんですよ。旅を仕事にしようと言って、みんな仕事を辞めてアパートも引き払っちゃって、住所不定無職がそろってしまって。 宮嶌:たい焼き屋の頃は、八王子で4DKの部屋を借りて、4人でルームシェアをして住んでいました。私が家計を管理して、ご飯をつくってました。 本間:当時の月の小遣いは1人35000円。それでなんとか1年間働きづめで、目標額に達しました。旅を押し付けるのではなく、行きたいと思った人が行けるように
宮嶌智子さん。1985年山形県生まれ。株式会社Backpackers' Japan業務執行責任者/マネージャー。世界中のゲストハウスを視察するという目的のために、2010年4月より100日間の世界一周を敢行。21カ国を回る。── その頃の「同じ釜の飯を食った」という経験が後々の結束に効いてくるんですね。
本間:そうですね。たい焼きをひたすら売り続ける毎日で、1人1店舗を運営するようになって、人を雇ったり、バイトが急に辞めちゃたり、大変なことがたくさんあったんです。当時は23、24歳くらいで、実地で商売を覚えていった、という感じですね。基本的なことなんですが、朝、掃除するとか、ご近所さんに挨拶するとか、商売って、周囲の方に応援してもらうってことがすごく大事だなと思いました。 宮嶌:もう、一生分のたい焼きを焼きましたね(笑)。── 資金が貯まってから、最初の宿のtoco.はどうやって開くことになったのですか?
本間:たい焼き屋をやりながら話し合っていくうちに、僕らがやるのは旅行業じゃないねって話になったんです。旅行業は根本的にお金がかかりすぎるし、何より、プロモーションをしっかりやらなきゃいけないのが嫌だったんです。なぜかというと、「旅ってこんなにいいんだよ」ってこちら側から言うのは違うと思っていたんです。旅に出ることが立派なわけではなく、行きたい人がただ勝手に行くからいいんだ、と思っているからなんです。宿の成功は、本気で宿のことを考えて愛している人がいるかどうかにかかっている
本間:ゲストハウスを経営すれば、毎日、旅人が世界中から訪れる。旅を人生の中心に置けるって思いました。じゃあ、しっかり調査して、いろんな人の意見を聞こうということになって、宮嶌たち2人が世界一周、残りの2人が日本一周することにしました。世界中のゲストハウス巡りというのは、どんな宿があるのか、実際に泊まって体験してみる、感じてみるということを目的にして、一方、日本のゲストハウス巡りはデータ収集を目的にして、宿というのは駅から何分くらいの距離で、どういうふうな立地がいいのかといったアンケートをたくさん集めました。結果、ゲストハウスをやるなら、東京が一番いいっていう結論が出ました。── それまでは東京でやるということすら考えてなかったんですね!
本間:はい。もう全くのゼロベースからのスタートです。東京はやはり旅行者が多いのがわかったんで、その中でも、羽田、成田のアクセスがいいところにしようという話になりました。そこから、どういう宿だったら継続できるのかを徹底的に考えたんです。その結論は、「その宿のことを本当に考えているか人がいるかどうか」でした。宿のことを本気で愛している人が1人でもいれば、田舎でも山奥でもお客さんは来てくれるし、そうでなければ、どんな良い立地でも廃れてしまうんです。ですから、運営側が心底好きになれる宿をやろうということになりました。
宮嶌が最初の宿の女将をやることは決めて、だったら古民家がいいなと。海外からの旅行者に喜ばれますし。さらに、都内で、空港、駅からアクセスがいい物件を探していたら、2週間ほどで、現在のtoco.の古い日本家屋を紹介してもらったんです。今、考えたら本当に奇跡のような偶然でした。
計画しながらも出会いと偶然を成功に変えていく力
東京・入谷のゲストハウス「toco.」。「常(とこ)」と寝る場所を示す「床(とこ)」という両方の意味をとり、「常(つね)に在る」という思いを込めて名付けられた。大正時代の建物を利用した下町情緒溢れる古民家に、さまざまな人が自由に交流するバーラウンジを併設。── 物件が見つかって、改築や内装はどんなふうにしようと?
本間:とにかく、リビングに人が集まる宿にしたい、それができれば、成功するのは間違いない、と考えていました。でも、実際には木造建築を直せる業者さんってほとんどいないんですね。これは普通の業者の方ではダメだな、ということがだんだんわかってきました。そのとき、これも偶然なんですが、僕が東京・高尾にあるカフェで、元々知り合いだった大工さんに再会するんです。改築のことを相談したら、「明後日、行くよ」とすぐに言ってくれて。普通の業者さんは屋根がボロボロだったので、屋根に登らなかったのに、その大工さんはすぐに屋根に登って、床下にも潜ってくれて、「これは俺がめちゃくちゃかっこ良くしてやる。けど、金がかかるからしっかり集めてこい!」って言ってくれたんです。「この物件は建て直した方が安い」と言う人はいても、そんなことを言う業者さんは1人もいませんでした。だから、「この人しかいないな」と思って、改築を頼むことにしました。
着工するときには、貯めていた1000万円のうち、半分を日本一周と世界一周の宿の調査と、自分たちの生活費に使っていたんです。残りの半分を資本金にして、融資で信用金庫から借りて、なんとか目標金額までいったので、工事を始めました。途中でお金が足りなくなって、工事が間に合わなかったりといったトラブルもありましたが、なんとかオープンまでこぎつけたのが、2010年9月のことです。
今思えば、いくらかかるか、予算が出ていないのに工事に踏み切っているんです。結果的には予算の2倍くらいの工事費になっていました。社会人経験があったり、もし事業に参入した経験がある方だったら、そんなことはやらなかった...。
── でも、リスクを取ったおかげで、結果的には他の宿とは違うものになったのでは?
本間:はい。自分たちの調査結果から得られたアイデアに基づいて施工したということに加えて、本当にいい宿をつくることができれば成功すると思ってました。ですので、投資を3年で回収できるか、6年で回収できるか、期間が変わることはあっても、絶対にお客さんは来るだろうと思っていました。それから、今後、日本でゲストハウスが増える可能性が高いと思っていたので、増えたときにも堂々とクオリティーを誇れる宿にしておきたかったんですね。もちろん、どうやってお金を借りるかっていうのはいつも頭を悩ませていましたけど(苦笑)。
── 見事に読みが当たって、2020年の東京オリンピックも決まりましたよね。
本間:そうですね。今はやり方もわかって、あの頃よりずいぶん宿の経営を進めやすくなりました。でも、4年前は24歳のたい焼き屋出身の4人が古民家を借りて外国人専用の宿やるって、近所の人からすると明らかに怪しいですよね(苦笑)。わけわかんない外国人がたくさんやって来るんじゃないかって。外国人がやって来る宿をつくれば、海外を旅するのと同じ体験を多くの人ができる
本間「Nui.にはのべ3、4万人、50、60カ国の人が泊まってますね」。インターネットでは120カ国以上からアクセスがあるそう。── 次に、2軒目となるNui.をつくろうという構想はどのようにして生まれたんでしょう?
本間:toco.をオープンさせた後、2軒目をすぐにやりたい、と言っていたんです。計画を立てて、物件探しも始めていたんですが、ちょうど、東日本大震災が起きてしまい、次店舗を開くのは1年半くらい延期せざるをえませんでした。 宮嶌:本間は震災直後から数ヶ月、石巻に行ってボランティアチームを立ち上げて復興支援をしていました。でも、その頃には、本間がいなくても仕事が回るような状況になっていたので問題はない状態になっていました。 本間:もともと、1つの宿をやるというより、「日本各地に素敵な宿があれば、旅したいと思った人がもっと気軽に旅ができるんじゃないか」という想いがあったんです。それに学生の頃、「海外に行ったら面白いよ」って周りに話すと、みんな同意はしても実際には海外に出ていかないんですよ。だったら、外国人をガンガン呼んできて、旅のような体験ができる場所、海外に行くのと同じような衝撃が経験できる場所をつくろうと思ったんです。1カ所ではなく、宿をいくつかつくるという面のイメージがあったので、なるべく早く次をつくりたいとずっと思っていました。でも、震災によって、すぐにスタートさせることは物理的に不可能となり、外国人旅行者もいなくなってしまったので、時間が経って海外からやってくる人の数が回復した頃、Nui.の工事を始めたんです。
── 2軒目の宿としては、どういう物件を探していたんですか?
本間:1軒目を古民家でやったから、「次も古民家でやるだろう」と思われていたと思うし、toco.がオープンして、世間に注目された分、その期待を裏切りたいという気持ちもありました。でも、一番の理由は、音楽をもっとやりたい、ということですね。なので、大きな倉庫を借りて、音楽ができるような場所をつくりたいね、と探していたんです。500平米くらいの面積を目安にリサーチをしていたら、今の物件が見つかった。ただ1つ問題だったのが、Nui.は970平米もあったんです。だから、倍の面積で倍の収益を狙うしかない、みたいなことを考えましたね。僕は一目惚れで、「ここしかない」って決めたんですが、一体いくらお金がかかるかわからなかったので、宮嶌は「しびれるなー!」とよくこぼしてましたね(苦笑)。「非日常」を提供したい
── 実際にNui.の1Fでは数多くのライブが開催されていますね。
本間:月2、3回やってます。それが定着していっているので、これからはほぼ毎日やれるようにしたいです。宮嶌には本来、彼女のやりたかったイベントをやってほしいと思っているんですよ。彼女は責任感がすごく強いので、事務から掃除までなんでもやりますが、イベントが一番楽しいと思っているし、そっちの方に走っていってほしいですね。 宮嶌:私がイベントに求めるものって「非日常」なんです。そのことはいつも言っていて、イベントで衝撃を与えたいというか。あとは、有名な人はうちでやる必要はないと思ってます。「絶対にこれはいける」と思ったら、ブレずに進んでいく
Nui.のツインルーム。1部屋に二段ベッドが1台設置されているタイプの部屋。パソコンや読書ができるサイズの机も用意されている。── その若さで常にプレッシャーと背中合わせなのに、ブレないで前に進んで行けるのはなぜですか?
本間:生まれつきそういう性格というのもあると思います。小さい頃から、「スノーボードをやりたい」ってなったら、それ以外どうでもよくなってしまう。「これ食べたい」ってなったらなにがなんでも手に入れる。そんな性格でした。でも、実際はよくブレるんです。僕がわっーと構想をしゃべって、宮嶌から冷たい目で見られて、冷静な自分に戻るというのは多々あります(笑)。でも「これはいける」となったらブレません。すとんと自分の腑に落ちたら、必ずやるというのは間違いないですね。
「なり」をつかむことと、手持ちのカードのそろえ方
6Fのコミュニティースペース。窓がアットランダムに配置されたデザイン。イメージだけ伝えると、大工さんたちは「なり」でつくっていったという。── 完成型を目指して計画通りに進むのではなくて、やりながら問題にぶつかる度に考え、腹落ちしたら全速力で進んでいくというのが、本間さんのやり方なんですね。
本間:大工さんがよく「なり」という言葉を使うんです。「現場合わせ」「流れで」という意味なんですが、彼らは現場で、臨機応変に対応して、図面に描いてないものでもつくっていくんですね。僕も、流れを掴むことが大事だと思っています。先日Nui.の図面を見直していたら、「6Fはなり!」って大きく書いてあって、それってもう図面じゃないですよ(笑)。 バーカウンターと中央の三つ又の木材は元々1本の大木。1.5トンもある木を北海道から運び込んで大工さんにチェーンソーで加工してもらった。ジャズセッションのように偶然を取り入れながらビジネスを発展させる
ピアノが置いてあるステージの天井は船の内部にいるよう。世界中、日本中のゲストハウスを回ったメンバーによって、細部にわたるこだわりが徹底されている。── 偶然を上手く取り込みながら、流れを掴んで進んでいく。だから同じことを繰り返しはできないけれど、同じ姿勢であることは揺るがないということですね。
本間:はい。すごくラフなジャズセッションみたいなものですね。やっていく過程で、その場で入ってくる観衆の熱で変わってきて、成果物ができる、という自分たちのやり方が正解だと思えるようになりました。最初は何ができるかはわからなくても、流れさえ掴んで腑に落ちれば、完成できる自信があります。その感覚は宿じゃなくて、何をやっても同じです。── オリジナルに生きてきたお2人ですが、自分なりの仕事をハカどらせる方法を教えてください。
宮嶌:業務に忙殺されるのではなく、距離を置いてちゃんと現実を見て、スピード感をもって問題解決をしていくことですね。それがなかなかできない人が多い。改善が一番大事で、問題から逃げずに向かい合っていくことが大事だと思います。 本間:僕が最近強く思うのは、組織のバランスをどうとるか。どんな仕事でも、人と何かをやるというのが大枠としてあると思うんですが、うちはスタッフも個性的なヤツが多くて、良いところもあるけれど、悪いところもあるという人間が多いんですね。でも、人って悪いところをなくすと良いところもなくなってしまう。ですから、スタッフを会社に従うようにするのではなく、人と人の組み合わせであったり、何気ない一言でスタッフの意識や働き方をほんの少し変えたり、結果的に全体が上手く回るようにするバランス感覚を大切にしています。本間さんも宮嶌さんも「仕事は人生そのもの」と語ります。仲間をどんどん巻き込み、変化しながらも絶対に変わらない芯がある。それは旅を愛し、仕事を通して一人でも多くの人に旅の魅力を伝えたいという想い、そのためならどんな困難もチームワークでクリアしていくという強い意志でした。
(聞き手・文/米田智彦 写真/木原基行)