いま振り返ると、私の野球人としての実績を支えてきたものは、人間を観察し、洞察する力であった。キャッチャーとしての仕事は、ピッチャーが投げたボールがバッターの前を通り過ぎるときの打者の瞬時の反応を観察し、それを分析、洞察して次の配球に生かしていくことである。まさにそれは人間観察に明け暮れた毎日だった。(「はじめに」より)

これは、『リーダーのための「人を見抜く」力』(野村克也著、詩想社新書)の著者のことば。いうまでもなく球界で数々の実績を打ち立ててきた大物ですが、つまり本書では、「監督として実体験から学び得てきた『人を見抜く』ノウハウ」を紹介しているわけです。第2章「どんな人間か本質を見破る方法」に目を向けてみましょう。

人には超一流、一流、超二流、二流の4タイプがいる

大胆にも思えますが、著者は選手のことを「超一流」「一流」「超二流」「二流」と4つのタイプに分類しているといいます。たとえば「超一流」のレベルにあるのは、メジャーで活躍している田中将大(ニューヨーク・ヤンキース)、ダルビッシュ有(テキサス・レンジャーズ)のような、天賦の才能に恵まれた、ほんのひと握りの存在。実力実績はもちろん、練習態度やチームへの献身の姿勢、言動なども含め選手の模範となり、チームの要となるべき人材です。人格の部分も兼ね備えて初めて、超一流といえるということ。

次に「一流」。これは、実績を残すだけで、人間的な部分においては評価されないようなレベルの選手のこと。常時1軍で試合に出場し続け、一定以上の成績を残しているが、チームのために犠牲になるという精神に欠けているところがあるそうです。だから誰からも尊敬されるというタイプではなく、チームのリーダーにはなり得ないとか。

努力はしているものの、突き抜けることができないのが「超二流」。そこそこ実力がついてきて、試合にも出られるようになってはきたけれど、レギュラーをとるまでには成長しきれないタイプです。ここに分けられる選手は、基本的に鈍感人間。もう一歩成長するために、自分にはなにが足りないのか。どうすれば、レギュラーとして生き残れるのか。感性の鋭い人間なら、試行錯誤しながら成長できるけれども、この部分が欠けているというわけです。(60ページより)

そして、いい素質を持っているのに、努力もしないのが「二流」。こういった選手は「自分の実力はこの程度だ」「これくらい練習しとけばいいだろう」といった自己限定人間がほとんど。そこが、絶対に満足せず、常に「もっと、もっと」というタイプである一流との大きな違いだと結論づけています。(60ページより)

超二流、二流の人への指導法

選手のタイプを4つに分けたうえで、著者はここで「それぞれのタイプ別に指導者としていかに接したらいいか」について触れています。まず「超二流」に対しては、まずなにごとにも疑問を持つように、コーチなどの指導者が質問を投げかけたり、問題提起をして敏感な感性を育てる必要があると主張しています。

いいコーチは、選手に技術や考え方を押しつけたりしないもの。選手が自分で考え、試行錯誤して答えを出すまで、自分の考えを言わないのだそうです。むしろ、問題点や解決策に選手自身が気づくように導く。それが「気づかせ屋」としてのいいコーチのやりかた。また、技術的なアドバイスをするより、「どうしたらチームに必要な戦力となれるのか、それを考えなさい」と、選手自身の野球に取り組む考え自体を教えることも大切。

次に、「二流」タイプ。自己限定人間であるこの手の選手は、いい素質を持っているのに、なにか壁にぶつかるとすぐにあきらめ、努力を放棄するといいます。どこかに甘さがあり、貪欲さに欠けるということ。だから著者は、「こういった選手にはプロの世界では特に指導することもない」と断言しています。プロの世界なのだから、やりたくないならやめればいい。誰も引き止めはしないし、現実問題として代わりはいくらでもいるということです。(63ページより)

超一流、一流の人への指導法

先にも触れたとおり「超一流」は、実績、人格、リーダーシップ、人望を備えているのが特徴。引き続き現状に満足することなく、より高いレベルのプレー、チームへの献身をするよう指導していけば、指揮官の組織運営も楽になるそうです。

ところが一方の「一流」には、少々やっかいなタイプもいると著者。1軍のレギュラークラスの選手で、一定以上の成績は残すものの、人格的にまだまだ未熟な選手もいるということ。たとえばいい例が、組織に献身するという意識が希薄な希薄な選手。こういった実績だけの選手には、チームへの貢献心の大切さや、「野球をやめたあとでも誰からも尊敬されるような人間性を磨きなさい」と指導していく必要があるといいます。なぜならそれば、現役引退後にその人間を助けることになるから。(66ページより)

「恥の意識」があるかどうか

著者は監督時代、「プロとして恥ずかしい」ということばを選手たちに対して厳しくいい続けてきたそうです。そして、「当たり前のことを、当たり前にやることがプロである」と定義していたのだとか。プロである以上は、できて当然のことはきっちりでき、難しいことも、さも簡単なことのようにこなしてしまうべきだということ。

しかし現実的には、技術の未熟さから単純ミスが出ることがあるのも事実。そんなとき、ミスした選手が「こんなミスをして情けない。恥ずかしくて仕方ない」と感じているようであれば、そこには成長していく可能性があるというのが著者の考え。

ところが逆に「まぁ仕方ない。こんなときもあるさ。次はがんばろう」と思っているような選手だと、将来はないといい切っています。理由は、「"なぜ"ではじまって、"なぜ"で終わる」精神こそが、すべての行動についてまわらなければならないから。

「プロとして恥ずかしい」という、恥の意識がない人間は、伸びていかないものだ。「恥ずかしい」と思わない人間は、「まぁ、この程度でいいだろう」という現状維持の意識につながっていく。現状に満足してしまった瞬間、人の成長は確実に止まる。(77ページより)

だからこそ、プロとしての高いプライドを持ち、恥の意識を持つ者だけが自分を高め続けられるということ。そして著者は、「しかしこういったことは、プロ野球選手だけにかぎったことではない」とも記しています。どんな仕事をしていても、営業マンは営業のプロだし、経理の人は経理のプロ。業界別に見ても、サービス業のプロもいれば、金融のプロもいる。みんな、自分の仕事においてはそのプロフェッショナルであることに変わりないというわけです。

だとしたら、それぞれの仕事においてミスをしたとき、「プロとして恥ずかしい」と思える人間のほうが大成していくはず。その根底にあるのは、「自分はこの仕事のプロである」という強いプロ意識と、高い理想です。プロ意識を持ち、失敗や課題にぶち当たったとき「まぁ、これでいいだろう」ではなく、「プロとして恥ずかしい」と考えられるかどうかが、成長できるかどうかの分かれ道になるということ。つまり「恥の意識」と「プロ意識」は同義語だという考え方です。(76ページより)

上記からもわかるとおり、野球ファンや野球関係者のみならず、一般企業などの組織のリーダーにも役立つところが本書の魅力。もし「野球にまったく興味がない」としても、社会人として多くのことを学べる内容だと思います。

(印南敦史)