1970年代の企業爆破事件で指名手配されていた「東アジア反日武装戦線」のメンバー、桐島聡容疑者(70)を名乗る人物が警視庁に身柄確保され、その後病院で死亡した事件。半世紀にわたる逃亡生活や容疑者の人物像に世間の興味が集まる中、“無責任な勝ち逃げ”は断じて許されないと批判するのは、メルマガ『冷泉彰彦のプリンストン通信』著者で、米国在住作家の冷泉彰彦さんです。被害者、遺族はもちろん日本社会にとっても害悪でしかなかったテロリストの本質を暴きます。
東アジア反日武装戦線の「正体」
右か左かというと、たぶんどっちでもなく「黒色=アナキスト系」と言われていた爆弾テロ集団として、「東アジア反日武装戦線」というグループがありました。1974年から75年にかけて11件にものぼる連続爆破事件を起こし、その多くは企業を狙ったものでした。
つまり、日本経済というのは「悪」であり、これに反対して爆弾テロを行うというグループです。
最も有名なのは、丸の内で起きた「三菱重工ビル爆破事件」で、死者8名、重軽傷は400名弱という歴史に残る大惨事となっています。
この三菱重工へのテロ実行犯は8名が逮捕され投獄されましたが、その一部は日本赤軍がハイジャックをして獄中から人質交換で引っ張り出して合流したりしています。
思想も節操もなく、とにかく日本の国家権力と対決することが自己実現になるというのがこの人たちの態度でした。
そこには、ファシズムの亡霊を引きずった西独やイタリアとの共通点が見受けられます。究極の悪であったファシズム国家は、今でもその原罪を背負っており、これに敵対することで最高の倫理的勝利が得られるという感覚です。
間違った感覚ですし、要するにナショナリズムに走りそうな「おっちょこちょい」が、反対に国家を全面的な悪だとして対決すると自分が偉く見えると勘違いしただけでした。
そんな幼稚な個人的感情を動機として殺害された人や、その遺族の悔しさというのは大変なものだと思います。
同時に、この種の完全に間違った態度と「味噌もクソも一緒」と思われて、平和運動や労働運動、人権の追求など中道左派から近代化を志向する運動までが誤解を受けたのは歴史的損失でした。
メディアは冥土の「桐島聡」を糾弾せよ
それはともかく、この「東アジア反日武装戦線」というグループの中で、一人だけ逃亡に成功していた桐島という男「らしき」人物が話題となっています。
末期がんであることから「最後は本名で死にたい」と名乗り出て、その直後に死亡したというのですから、ニュースとしてドラマチックであることは認めます。
ですが、報道の延長では、「どうして50年も逃亡できたのか」とか「音楽好きの明るい人物だったらしい」などという興味本位なコメントが飛び交っているようです。これは言語道断です。全く冗談ではありません。
前述したように、彼らの若き日の行動では人命が奪われているのです。それだけではありません。この人たちには、どうしても問い詰めておきたい点が2つあるのです。
いまだ総括なし。青春テロリストの致命的な勘違い
1つ目は、当時の「企業に対する攻撃」は全くの間違いだったということです。
1974年の段階で、このグループに属していた当時の若者たちは、日本の企業活動はアジアの貧しい人たちを騙して安い給料で労働させたり、資源を奪うなどの「搾取」だと考えたのでした。
ですから、第二次大戦中に侵略を行ってアジアを植民地にしたのと同じように、60年代から70年代にかけての経済進出も「悪」だと考えたのです。
そして、そのような「悪」を懲罰することは正義だと勘違いして爆弾テロを繰り返したのでした。
確かに、当時の日本は「エコノミック・アニマル」という批判を浴びており、アジアとの貿易や現地生産で巨大な利益を上げていたのは事実です。
その中には、カネの力で現地に愛人を囲ったり、ドンチャン騒ぎをしてヒンシュクを買ったり、確かに行き過ぎた行動もあったようで、かなり嫌がられていたのは事実です。
ですが、その本質はどう考えても「悪」ではありませんでした。
それどころか、日本企業は生産拠点をどんどんアジアに移転し、生産のノウハウもどんどん教えていきました。その結果として、アジア諸国はどんどん技術力と経済力をつけていったのです。
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