<当時の出来事や世相を「12歳の子供」の目線で振り返ります。ぜひ、ご家族、ご友人、幼なじみの方と共有してください。>
終戦の時はまだ6歳で、みんながものすごく泣いていた記憶ばかりが残っているが、そのすぐ後にやって来た「マッカーサー元帥」という名前は強烈な印象だったのか、すごく覚えている。「連合国軍最高司令官」としてパイプをくわえて飛行機から降りてきた写真を新聞で見たときには、いかにも僕が考えていた「マッカーサー」という風体だった。
その人が突然、日本からいなくなった。父は「クビになった」と言っていたが、どうやら本当らしい。両親ともに最初は「偉そうだ」などと言っていたのに今は何だか同情的だ。マッカーサーが帰国した時には沿道に20万もの人が日の丸の旗を振って詰めかけたらしく、その人たちも同じような気持ちだったのかもしれない。
今年は正月にNHKラジオで「紅白歌合戦」という放送があり、家族で聞いた。歌手が男女で紅白に分かれて歌うという内容で、白組が「長崎の鐘」の藤山一郎さん、紅組は「桑港のチャイナ街」の渡辺はま子さんらが代表。僕は男子だから白組を応援したけど、中でも戦後に慰問先で捕虜生活を送って苦労したという藤山さんが好きだ。結局白組が優勝した。
ラジオと言えば5月から「ラジオ体操」が始まった。正確に言えば復活らしいが、「腕を前から上にあげて」という新しい体操になったようだ。母は放送が始まる朝6時15分になると起こしに来るが正直つらい。
同じラジオでも夕方6時の「英語会話」は毎日聞いていた。「証城寺の狸囃子(たぬきばやし)」の曲に合わせて「カムカムおじさん」と呼ばれる平川唯一先生が英語をしゃべりだすとわくわくした。平川先生は2月で交代してしまったけど、年末からは東京で初めての民放ラジオ「ラジオ東京」で新しい番組を始めるらしい。新しいラジオ局が誕生するのも楽しみだ。
僕は将来英語が使えるようになってアメリカに行ってみたい。だって、ちょっと前までは敵国と言っていたのに今はみんなが「アメリカはすごい」と言っているからだ。戦中は通信兵をやっていた父も「アメリカさんにかなうはずがなかった」が口癖になっている。だからやっぱりどんな国なのか、この目で直接見てみたい。8月には戦後初の航空会社「日本航空」も設立された。まだ国内だけの飛行だが、将来はアメリカにも行けるようになってほしい。
この年は黒澤明監督の「羅生門」が国際的な映画賞を取ったり、木下恵介監督の総天然色映画「カルメン故郷に帰る」が公開されたりして映画が話題になることが多かった。「お前にはどちらも難しい」と言って父は見に連れて行ってくれなかったけど、「カルメン」はフィルムに色がついていてすごくきれいだったと親戚のお兄さんが言っていた。空の青さがすごく印象的だったそうだ。
「ようやく戦争が終わったな」。夜中に父と母が話していた。戦争はずっと前に終わったはずなのに…。それが9月のサンフランシスコ講和条約というもので、来年から日本は本当の意味で独立国になるらしい。もちろん僕はよかったと思うが、日本中が喜んでいるのかと思うとそんな雰囲気でもなかった。「アメリカ軍は今後も日本にいるから日本は独立国じゃない。だからいつでも戦争に巻き込まれる」。学校の先生はそう言ったが僕にはよく分からなかった。
その晩、マッカーサーが僕に英語を教えている夢を見た。マッカーサーの表情はよく見えなかった。
※第1回紅白歌合戦は紅組司会が女優の加藤道子、白組と総合司会はそれぞれNHKアナウンサーが務め、紅白7人ずつ出場。1月3日午後8時から1時間、当時千代田区内幸町にあったNHK東京放送会館から生放送された。