ゴミの中から鳥羽城の未発見絵図 災害史研究のマスターピースを地域の連携プレーで救出

発見された鳥羽城の修復願絵図。寛政12(1800)年の暴風雨による海に面した石垣の被災状況が記されている(盆野行輝さん提供)
発見された鳥羽城の修復願絵図。寛政12(1800)年の暴風雨による海に面した石垣の被災状況が記されている(盆野行輝さん提供)

三重県鳥羽市のリサイクル施設に持ち込まれた紙ごみの束から、江戸時代に暴風雨に見舞われた鳥羽城石垣の被災状況を幕府に報告した「修復願絵図」が発見された。紙ごみを仕分けしていた施設作業員が「価値のある史料かも」と機転を利かせ、鳥羽郷土史会に持ち込み、同会を偶然訪れた研究者が「探していた未発見絵図だ」と確認。海に面した鳥羽城がどう災害に立ち向かったのか、その記録が鮮やかによみがえった。

捕鯨など漁業関連史料も

7月13日、家庭から出るリサイクルごみの受け入れなどを担う「鳥羽市リサイクルパーク」を、名古屋市在住の50代男性が訪れた。持ち込んだのは、史料の束や写真のネガ、古いパンフレット類などが入った段ボール箱。親が住んでいた鳥羽市内の空き家を整理した際の処分品だった。

対応した有償ボランティアの木下房美さん(72)は「古い和紙がどっさり。書いてある文字が達筆で気品のようなものが伝わってきた」といい、価値があるかもしれないと考えて廃棄せずに鳥羽郷土史会に持ち込むことにしたという。

新発見の鳥羽城絵図などが持ち込まれた状況を説明する木下房美さん=三重県鳥羽市のリサイクルパーク
新発見の鳥羽城絵図などが持ち込まれた状況を説明する木下房美さん=三重県鳥羽市のリサイクルパーク

郷土史会がまとめた目録によると、持ち込まれた史料は計310点。地元の神社の祭礼で奏上されたとみられる明治時代の祝詞類が最も多く、捕鯨やボラ漁など江戸~明治時代の漁業関連史料も。民俗史料とともに、鳥羽城などの歴史史料も約20点含まれていた。

郷土史会の野村史隆会長は「(史料が残されていた家は)江戸時代に鳥羽藩で書記係を担い、明治時代になってからは神職を務めた家だったのだろう」と推察する。

鳥羽城の災害史研究者が偶然…

膨大な資料の整理は、JR鳥羽駅近くの「鳥羽市歴史文化ガイドセンター」で始まった。それから間もない7月21日、学術団体「歴史地震研究会」に所属する研究者で三重県職員の盆野行輝さんが訪ねてきた。

鳥羽城の災害史を解説する盆野行輝さん=昨年12月、三重県鳥羽市の鳥羽城跡
鳥羽城の災害史を解説する盆野行輝さん=昨年12月、三重県鳥羽市の鳥羽城跡

名古屋大に集まる若手研究者を鳥羽城跡に案内して防災を学んでもらうツアーの下見だったが、盆野さんは郷土史会のメンバーから「鳥羽城の史料を見てほしい」と頼まれる。鳥羽城の災害史に詳しい盆野さんは、資料に含まれる絵図を一目見て、寛政12(1800)年に鳥羽藩が幕府に提出した「修復願絵図」の控え図に違いないと確信した。

「探し求めていた未発見絵図の一つ。史料に呼ばれたような不思議な感覚に襲われた」とその瞬間を振り返る。

稲垣家時代の5種揃う

海に面した鳥羽城は、江戸時代中期の宝永4(1707)年と幕末の嘉永7(1854)年の2度にわたり、南海トラフ地震の津波被害を受け、それ以外にもたびたび暴風雨などの災害に見舞われてきた。絵図には、海に面した外曲輪(そとぐるわ)の石垣に朱書きで被災範囲が示され、寛政12年の暴風雨により石垣が高さ三尺(約0・9メートル)、長さ拾七間(約31メートル)にわたって崩れるなどした被害状況が記録されていた。

日本の城郭は「一国一城令」が発令された江戸初期の元和元(1615)年以降、新規築城が原則禁止となり、城の修復は幕府の許可が義務付けられた。その際、修復箇所を朱書きで図示した修復願絵図を老中に提出する必要があった。

盆野さんはこうした史料の収集を継続し、研究成果を論文にまとめて発表してきた。鳥羽城の災害史料を詳しく調べることで、海に面し、近い将来南海トラフ巨大地震の被害を受ける可能性もある周辺地域の防災に生かせるとの考えからだ。

中でも鳥羽城の修復願絵図は、災害の規模を視覚的に把握できる史料だといい、今回の発見で6種10枚に。鳥羽藩の最後の藩主、稲垣家が治めた享保10(1725)年から鳥羽城廃城(明治初期)までに作られた修復願絵図5種は、今回の寛政12年の絵図ですべて揃った。

絵図は虫食いなどの傷みが激しく、現在は修復作業中だが、「地元が救出した地元の史料という点でも、今回の発見は意義深い」と盆野さん。12月14日に開催される鳥羽郷土史会の例会(鳥羽商工会議所で午後1時半から)で「絵図に見る鳥羽城の災害史」と題して講演し、今回の発見などを説明する。問い合わせは同会(0599・25・8255)。

鳥羽城 大手門(正門)が太平洋側に開いた海城。戦国時代に織田信長や豊臣秀吉のもとで水軍大将として活躍した九鬼嘉隆(くきよしたか)が、文禄3(1594)年に築城した。江戸時代に2度にわたり南海トラフ地震の津波被害を受ける。明治初期に取り壊され、城郭の建物は残っていない。城跡には造船所や小学校、市役所が建設された。(川西健士郎)

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