★外交評論家・加瀬英明氏
私は終戦の8月の夏に、小学3年生だった。夏休みもなく、毎日、クラスぐるみで山のふもとに入って、日本の勝利を信じて、軍馬のマグサ刈りに励んでいた。
15日に天皇陛下のラジオ放送のあとで、「戦争に負けた」と教えられたときに、私は日本が負けるはずはないと思っていたから、信じられなかった。
10月に長野県の疎開先から、母に連れられて東京へ帰った。上野駅の外に出ると、見渡す限り焼野原だった。四谷にあったわが家も、戦災で焼かれていた。
父、俊一は外務省に奉職していたから、東京から離れなかった。
父は借家に、祖母のか津と住んでいた。祖母は私と再会すると喜んでくれた。「大きくなったら、かたきを討って、日本を立派なお国にしてください」といって、諭された。
父は占領軍との折衝に忙しく、夜遅く戻ってきた。
私は「東京がこんなにめちゃくちゃになったが、日本は大丈夫なのか」とたずねた。父は「アメリカは日本中壊すことができるが、日本人の魂を壊すことはできない」といった。
父は9月2日に、東京湾に浮かぶ米戦艦「ミズーリ号」上の降伏文書調印式に、重光葵(まもる)全権に随行して参列していた。重光氏が降伏文書に調印するすぐわきに、父が立っている。
その前夜、祖母が父を呼んで、「あなた、ここにお座りなさい」といった。
座ると、「母はあなたを降伏の使節にするために、育てたつもりはありません」と叱って、「行かないでください」といった。