思想史の研究と、いわゆる「実学」研究の関係について、
研究者間の論争状態を目にしたので、それを部分的に引用しつつ、*1
既存の政策論や臨床言説に欠けているポイントを記してみます。
『労働と思想』か。まったく読みたいと思わないな。前川さんのカステルくらいかな。
社会思想の研究って、なんでほとんど貢献できないのに、外国のものやるんだろう。そっちで有用なものを出すのは相当ハードルが高いと思うんだけど。
自分の理解できないものを意味ないって考える反知性主義ってのが、こうやって広まってるのは深刻だよなぁ。
カステルも「外国のもの」なんだけどな。最近の社会政策というのは社会思想の勉強をせずにやれるものなのかね。
社会科学の研究者が、日本において海外の社会思想を研究する意義を理解することができないというのがすごいよな。斉藤君がいうようにまさに反知性主義としか言いようがない。
では君らは労働史や経営学や経済学が理解できているのかね?
大体どうして金子君に「理解できない」と決めつけるのかが不明である
反知性主義はどちらなのか。
社会思想史研究が社会政策史とか労動史から遠く離れたところで抽象化というか「空中戦」化してきたことはたぶん否定できない事実で、金子良事さんのお仕事はその懸隔を埋めてくれる大変ありがたいものだと思うのだけど。
労働史や社会政策史がタコツボ化してないとは言わんよ。やってる人の視野は経済も文化も生活も見据えてむしろ広いと思うが、自分たちの研究のあて先がいまいち不明で迷ってる感じはする。
ともかく、労働を思想から「も」考察し、検討してみようという趣旨の本にたいし、読みもしないで、「奴らは実証的科学なしに労働を理解できるとおもっている!」とわめき立てることの意味がわからない。異常な偏見にとりつかれているか、論理的な思考力が欠けているとしか思えない。
@ryojikaneko @odg1967 ただどうも歴史研究としても現在の学問としても労使関係論は死につつあり人事労務管理論にとってかわられるんではないかなという気もする。労働組合論は残るけど、また別の何かになるんでは……。
@shinichiroinaba @odg1967 まあ、結局、労働運動が再生しないと、労使関係研究も再生しないですね。人事と組合は両輪です。
2015-01-29 21:15:30 via Twitter for iPhone to @shinichiroinaba
@ryojikaneko 労働「問題」とか「資本主義」という問題の立て方ではどもならん、ということでしょう。
@shinichiroinaba 後から考えると、今こそ資本主義の分析が必要だと思います。小池先生も数年前、投資家の問題を考えざるを得なくなってきた、と仰ってたことがあったような気がします。
2015-01-29 21:51:33 via Twitter for iPhone to @shinichiroinaba
@saypeace_soichi そんなもん、じぶんたちで雑誌を立ち上げて、『労働と社会政策』とか『労働と歴史』とか『労働と実定法』というコーナーをつくればいいんだよ。一つの雑誌のマイナーなコーナーに過大な要求をしたって、そりゃ無理な話だ。
鍵RT:思想にとって労働とは?という問題設定と、労働の思想はまた別だからなあ
以下、提案を含むメモ
- 思想系にも実学系にも、《現に社会参加できずにいる人が主観的にどういう努力をすればよいか》という議論がないため、それとの関係における思想や政策論を展開できない。多くは、メタな理解と規範意識をこねくりまわすばっかり。*2
- 「すでにやれているひと」は、自分が出来ているものを出来ている流儀で示すことしかしない。ある基準に基づいた競争にすでに参加しており、あとは業績競争と自慢話、内輪ノリのジョークばかりになる。
- いわば《素材》と《価値》の対立的関係*3が、研究者の議論そのものに現れている。
- 思想的試行錯誤を経なければ、実学になれないし、(みずからの硬直に気付けないので)
- メタな「理解」に閉じこもる思想には参照価値がない。(言葉遊びにすぎない)
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- たんなる実学も、たんなる思想も、みずからの前提を問い直せていないがゆえに、みずからの加担責任に気付くことができない。
- 既存の議論で無視されているのは、《不可逆の時間》*5
- 不可逆の時間が無視されるゆえに、《技法》がテーマにならない。
- 「思想研究」にも「実学」にも、また「現場」にも、必要な論点を構成する能力が備わっていない。既存の言説は、技法としてまずいところに陥っている。
(1)すでに生きられている労働の《思想≒技法》
(2)ある思想家が労働をどう見たか
(3)経営学・経済学、それに医学などの「実学」
- 必要なのは、(1)を分析したうえでの、技法の試行錯誤。
- (2)や(3)は、技法的試行錯誤の一部としてある。思想家や実学を物神化してもしょうがない。
- 思想家・理論家というより、素材的な技法家が要る。そこでの試行錯誤こそが問われる。
- 思想・実学・現場は、技法と別の場所にあるのではない。ひとりひとりに《思想≒政策前提≒技法》が、すでに生きられている。それをどうするか。簡単に切り分けられない。
*1:以下に引用した多くのツイートは、拙エントリに必要なものを部分的に取捨選択して時系列に並べただけです。実際には参考文献の提示など、それぞれの議論は細部にわたっていました。
*2:理論も規範意識も、それ自体がすでに技法をふくんだ実務になっている。すべての議論は、自分がどういう技法を前提にしているかを自覚できていない。
*3:佐々木隆治『マルクスの物象化論―資本主義批判としての素材の思想』p.338 を参照。▼cf.【分析の様式は、すでに再編の様式になっている】【「過程の主体としての価値」メモ】
*4:精神分析の自説をトポロジーにしたジャック・ラカンを思い出してもよい。ラカンには、人文系の提言を数学に置き換える努力があったが、そこにすでに彼の技法的前提が含まれている。
*5:《不可逆の時間》は、すなわち集団や身体性の問題。どんなに抽象的な理論も、すでに不可逆の時間をあるスタイルで生きている。