自由と直感の独壇場「ノーガード乱れ撃ち戦略」の敗北について
まぁ僕のような人種が只の一度も躓くことなくしっかりちゃっかり社会人としてやってけるわけねぇだろと思っていたのだけど予想に違わず今まさに、なかなか厄介な壁の前にいる。やっほーみてるー?
おそらくこの壁は僕にとって学生と社会人の違いであり、認識ギャップであり重みという断絶でもあり、同時に、僕に長年つきまとう弱みの発露である。
この年になってまで戦う相手が未だ自分自身とは、実に笑止千万である。
こんてんつ
- 意志として身軽であること
- 「好きなことだけやる」生き方の弊害
- 責任負わずリカバリー要らず
- リスク回避について意識を変える必要がある
- 仕事verの性格を「追加する」
- 空を見上げるか空を飛ぶ
意志として身軽であること
どうやら僕は、なんというか、ノーガードで生きてきたらしい。
ガードする必要はなかった。
裸一貫で突入してもなんとかなるし、なんとかならなきゃ撤退するまで。撤退は僕にとって、僕自身の選択である限りは決して「負け」ではなかった。
根回し、保身、計算、予定調和とテンプレート思考、そういったものをひっくるめてめんどくせぇと見なして低く扱ってきた。
ガードを行わず周囲にも会わせないことによりフットワークは軽くなり*1、その結果として、"直感"という名の短期的自由意志に従った選択肢を取りやすくなった。
幼少期にカルト宗教による思考の不自由を経験 し、ようやく開放された僕にとって、他ならぬ自分自身の「自由意志」は、他のあらゆるものごとを足し合わせても敵わぬ程の価値を有していた。
付き合いが深くなるとよく言われた「こんな自己中な人とは思わなかった」という言葉は、僕にとってはどっからどう聞いても褒め言葉であり、自己の肯定を促した。
不自由から自由礼賛へと大きく振れた僕の振り子は、もしかすると表面的にはそのつもりがなくても、押しつけられたものごとに必死になる隣の人間をせせら笑いながら、俺はお前らとは違う自分自身の行動を自ら選択しているという傲岸不遜な精神を醸成したのかも知れない。
「好きなことだけやる」生き方の弊害
ガードしなくてもいい理由は、自由意志礼賛思考の他に、もうひとつあった。
「乱れ撃ち」戦略の成功、である。
僕はガードをしない代わりに、手数を増やして「うまくいくところ」からヒット&アウェイで稼ぐようなイメージで日々を重ねてきた。
一点を「突破する」よりも、一歩引いてふらふら眺めて、あーここなら僕でも突破できそうだなーというところを発見してちょっかいを出してみる。攻め落とせるならもっと突っ込むし、予想以上に防御が厚かったりするとさっさと手を引く、という戦略である。
この「乱れ撃ち」戦略は、時には"ひっかかるもの"もあったが、個人的にそれなりに満足する結果が得られたため、根本的には自分の"気分"や"直感"に従って生きてもまったく問題はない、と信じ込んだ。実際に、大した問題はなかった。
確信を深めた学生時代の僕は「興味拡散系」を自称し、実際、僕にとっての真実であるその思想に従って行動してきた。幅広くいろんなものに手を出して、そのうち一つが成功すれば儲けものと考えた。趣味でも勉強でも人間関係でもまんべんなく乱れ撃ちを重ねて、感触の良いものだけを選別し、選択した。
うまくいく所だけ拾い集める。let it be、好きなことをやり、やれることをやる。気の合う人とだけ付き合う*2。
一方、うまくいかないものはうまくいかないままにしてしまう。その結果、状況は
- (1)放置して塩漬け状態になるか、それとも
- (2)自ら状況を切り捨てるか、
の2通りに帰着する。
責任負わずリカバリ要らず
そしてノーガード乱れ撃ち戦略は、基本的に「修復」を必要としない。ガードがゼロであるため、大抵の傷は致命傷となることが原因である。救いようが無くなった状況は、外科手術によって目の前から切り捨てる。葬り去る。
この志向性は少しずつ、しかし確実に、傷ついた「信頼・期待・イメージ・計画 etc」のリカバリーにすこぶる弱い性質を作り上げた。
そんなわけで僕は一度軌道を外れたものを修正するのが苦手だ*3。仕事にしろ環境にしろ人間関係にしろ、とにかく軌道を外れたらそれを「失敗事例」としてリセットしたり切り離したりしてきたので、リカバリーが超へたくそなのだ。
先に「ひっかかるものもあったがそれなりに満足する結果を得た」と書いた。ところが、いま問題を噴出しているのは、まさにこの「ひっかかって」いたポイントであるらしい。ひっかかっていた"もの"は僕の中では単一のイメージとして存在しているのだけど、いくつかの単語でそのイメージをあぶり出すことを試みると、
「責任・完遂・継続・誠実・集中」
こんな風になる。
顔を背けてきた弱みがまたしても自分の前に立ちふさがった。人生におけるその遭遇頻度から考えるといいかげん対応を学習しても良さそうなものだが、過度に「自己の選択/決断」を重視する僕は、「撤退/失敗の苦い経験から学んで次からはガードを固める」という学習プロセスを経てこなかった。
ところが。会社に所属し給与で生計を立てる"サラリーマン"という道を選択した以上、僕はもはやノーガードで進むわけにはいかない、という単純極まりない事実に気が付いた。
そして最近僕が目の前に見上げるこの「壁」も、原因を辿るとその一つは「ガードの甘さ」に帰結するのではないか、と考えている。
要は、僕はまともに責任というものを背負ったことがなかった。
リスク回避について意識を変える必要がある
社会人として任される仕事は(個人レベルで躓くのはしょうがないが)組織として失敗してはならない。基本的に。
失敗しないためには、行き当たりばったりではなく、予測を立てて、起こりうる危険を想定して、早め早めに対処する*4。つまり、ガードを固める必要がある。
僕のやり方では、爆発する姿が容易に目に浮かぶ。
ガードを固めずに突き進み、失敗したらハイそれまでよとするフリーダム無責任思考は、もはや通用しない。
そして、ホイホイ受けてうまくいったものだけ成果として計上するという「乱れ撃ち戦略」は、会社において極めて大きなリスクとなり得る。
僕はどうやらリスク回避について意識を変える必要がある。
会社としての危険を回避し、降りかかるリスクを軽減させるために、僕はもっと臆病である必要がある。 そのためには僕個人の「ノーガード」気質とは別に*5、会社で働く人間として(誤読される危険を承知で言葉を選択すると)「保身」と「言い訳」の概念を身につける必要があるのではないか、と考えている。
「言い訳を身につける」と言うと悪いイメージを持ちかねないが、会社がリスクを回避するために用意しておく「既成事実/正論」のようなものだ。これを「会社が言い訳するための下準備」。
ちゃんと仕事をやろうとしていても、根回しが悪くて悪者にされてしまっては、どうしようもない。この価値基準は倫理的な善悪とは別軸で成立しうるものだと僕は信じる*6。会社視点で考えないといけない。
そして、僕は、楽観的な予想をしてふらふら好き勝手にやってきたから、状況をシビアに見積もる習慣がない。事実を我が事として切実さを以て捉え、具体的なアクションに落とし込むまでにひどく時間がかかる。時間がかかってもアクションに落とし込めばまだいい方で、たいていの場合、備え忘れて失敗する。
ここでつらつらと失敗の数々を列挙しようかと思ったけどまだ対策が自分の身に染みついていないので、やめた。、
今僕は、怖れることと備えることは別種の哲学に基づくと考え、実践しようとしている。難しいけど。
仕事verの性格を「追加する」
ビジネス世界の入り口では敗北してしまった「ノーガード乱れ撃ち戦略」だが、僕はこれを完全に捨て去るつもりはない。かといって、学生時代の自分流で貫き通せないことは目に見えている。
経験が使えないなら学習するしかない。以前自分でもブログに書いた様に、ノーガードで進めないならば、局地戦用兵装を身につけるしかない。
抽象化された「レッテル」という自己認識は、時に、"自己の性格を必要以上に絶対視する"という過ちを誘発する。自己の性格を絶対視し、「自分はこういう性格だ」と思ってしまうと、「悪い気質を根絶しよう」「性格を一新しよう」という考えへと陥りやすい。現状の性格の悪い面だけ見て全否定し、新しい自分とやらに生まれ変わろうとしてみたりする。ところがそいつは無意味なことだ。実際の気質はデジタルに変わるものではないから、試みは失敗に終わることが多い。
性格は変える/直すのではなく「追加する」 - ミームの死骸を待ちながら
単純な話だ。単純な話なのだけど、乗り越えられそうで、ちょっと難しそうな、絶妙な感覚。
おまけ的な。
コミュニケーションの型を身につけるように努力してみようと、実践を心がけると共に色々と本も読んでみているのだが、他の人にも一番薦められるなぁと思ったのがこれ。
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前回のエントリで紹介した世界一わかりやすいプロジェクト・マネジメント 【第2版】よりも、僕は先にこちらを読むべき。
空を見上げるか空を飛ぶ
閑話休題。
仕事楽しいよ。できないけど、楽しい。楽しさが顔に出ないタチだけど。まだまだがんばれる。
最初に「僕のような人種が躓くことなく社会人としてやってけるわけねぇだろと自分でも思っていた」と書いたが、同時に「飽き性の僕が仕事に打ち込めるかどうかわからん」という、より悲観的な予測も立てていた。
後者については、まだ2,3ヶ月の段階で判断するのも早いかも知れないが、完全に外れたと思う。
研究に向いてないと判断して社会に出て、そこでも箸にも棒にもかからないとなると、空を見上げるか空を飛ぶか(身投げ的な意味で)しかねぇと思っていた過去の自分よ、祝え。
幸いにして、ぼくは地に足を付けてやって行けそうだ。