心の病,特にうつ病はITエンジニアにとってもはや特別な病気ではない。しかし,あなたはうつ病についてどれだけ正確な知識を持っているだろうか。あるエンジニアの発症から治療,職場復帰に至る仮想のストーリーを追いながら,症状や相談先,治療の受け方など,うつ病に関する正しい知識を解説する。
「もう起きなきゃ…」。ある朝,中堅システム・インテグレータに勤める田中慎也氏(33歳)はいつものように時計のアラームを聞いて,目を覚ました。起き抜けだったが,すぐに「いつもと違う」感じを覚えた。体がだるくて,立つこともかなわない。ドーンと沈み込むような感覚。「何だ,これ…」。経験したことのないつらさが田中氏を襲った。とても会社には行けそうもない。ボンヤリとした状態で,田中氏は再び眠りに落ちた。
再び目覚めたのは3時間後である。「ああ,遅刻だ…」。立とうとしたら,ふらついて壁にもたれた。相変わらず体の自由が利かず,会社に行くどころではなかった。このころは,極めて多忙なプロジェクトが一段落したところで,会社を休んでも大きな支障はなかった。這うようにして携帯電話を手に取り,上司に電話で「今日は病欠にしてください」と伝えた。上司は勇気づけるようにこう言った。「分かった。例の重要なプロジェクトが来週キックオフだから,今のうちゆっくり休んでおいてくれ。エースのSEが参加できないと困るからな」。
電話のあと,また倒れ込むようにベッドに横になったが,とにかく気分がよくない。今まで味わったことのない倦怠感とどん底の気分。考えもまとまらない。自分が自分でないような感覚に恐ろしささえ感じながら,再び眠気に身を任せた。夕方に目が覚めたが,相変わらず体を起こすだけで極端に疲れた。
田中氏は,1週間前まではほとんど会社に泊まり込みだった。プロジェクトが火を噴いているところに,別件の見積もり提案まで任されたためだ。田中氏は思った。「きっと疲れが限界に達したんだ」。
そう言えば1カ月ほど前から,頭痛や腰痛に悩まされていた。帰宅すると体がだるくて,「会社に行きたくない」と思う日も増えていた。「いつまでも休んでいられない。明日は会社に行かなきゃ。そのためにも今は休もう…」。田中氏はそう考えて,また眠りに落ちた。
翌朝は,午前4時に目が覚めた。しかし,体のだるさもつらさも昨日と同じで最悪。「なぜ良くならないんだ」。そう思うとボロボロと涙が出てきた。
午前9時に再び会社に電話をした。電話に出たのは,親しい先輩社員だった。先輩社員は田中氏のただならぬ雰囲気に,うつ病になった同僚のことを思い出した。放っておくと危ないと思った先輩は,「分かった。とにかく一緒に病院に行こう」と田中氏に伝えた。
誰でもかかる可能性がある
エンジニアがかかる心の病として,最も代表的なのが「うつ病」である。日経ITプロフェッショナルが2004年9月に実施したアンケート調査でも,全体の12.8%の人が「うつ病にかかったことがある」と答えており,もはや「当たり前の病気」になりつつある。
ところが,いまだにうつ病に対する多くの誤解や偏見が根強く残っており(図1[拡大表示]),これがうつ病になった人の早期発見や治療,職場復帰を妨げる原因になっている。
最も代表的な偏見は「うつ病になるのは,精神的に弱いから」という見方だ。しかし実際には,部署のエース社員,つまり精神的に決して弱くない人がうつ病にかかることも多い。「精神的にタフだ」と自分で思っているために無理をしてしまい,ストレスをため込んでしまうからだ。ITエンジニアのようなストレスの多い仕事をしていれば,本人の性格にかかわらず誰でもかかりうる,と理解すべきである。
「うつ病というが,単に怠けているだけ,甘えているだけで,病気とは言えないのではないか」という偏見も多い。確かにうつ病の仕組みは,医学的に完全に解明されているわけではない。しかし,過剰なストレスや体調のリズムなどによって「心身のバランス」が崩れ,脳内の神経伝達物質の働きが悪くなることが,うつ病の症状を引き起こしていることは分かっている。うつ病は,神経伝達物質に変化が生じる,れっきとした「病気」なのである。
過剰なストレスが原因で発症する心の病は,うつ病だけではない(図2[拡大表示])。強い不安を覚えたり不安発作が起こったりする「神経症」,胃や鼻,皮膚など体の様々な部位の症状として表れる「心身症」注1)なども,ストレスが原因の1つとなって,発症する病気だ。神経症,心身症は,「過剰なストレス」という共通の原因を持つために,うつ病と同じ症状が出ることも少なくない。
落ち込んで自殺の可能性も
うつ病とはそもそも,どんな症状注2)が表れる病気なのか。最も典型的なのは「抑うつ気分」である。どん底,憂うつ,悲しいといった落ち込んだ気分のことだ。とはいえ,健康な人が感じる気分とはレベルが違う。重度のうつ病になると,自分が自分でなくなってしまうような耐え難いつらさがあり,自分の存在を消してしまいたくなることがある。これを「自殺念慮」という。
うつ病の症状にはこのほか,疲れやだるさ,思考力の低下,鈍い動作,自分を責める意識,食欲不振/過食,不眠/睡眠過多,強い焦り,あらゆることに対する興味の欠如などの症状がある(図3[拡大表示])。
ただし,うつ病の症状は,病気の症状だと本人が自覚しにくい。慢性的な睡眠不足や疲労などによって生じる症状と似ているので,「疲れが出た」と考えてしまいがちだ。
周囲の人も,うつ病の症状には気づきにくい。やる気をなくして,ただダラダラしているように見えるからだ。そのため「もっとしっかりやれ」,「頑張れ」と叱咤激励してしまい,これがかえってうつ病の人の心理的負担を大きくすることも多い。しかし先述したように,うつ病は神経伝達物資の働きの異常を伴う「病気」であり,根性や精神力でなんとかなるものではない。早期発見や本人への正しいサポートのためにも,上司や同僚など周囲の人も正しい知識を身に付ける必要がある。
治療には数カ月かかる
先に,うつ病は誰でもかかりうる病気と述べた。その意味で,うつ病を「心の風邪」と表現することがある。この言葉を表面的にとらえて,「風邪と一緒で,薬を飲んで休めばすぐによくなる」と誤解している人もいる。しかし実際には,医師が「うつ病」と診断した場合は通常,何カ月間にもわたる治療が必要になる。1週間ほどで症状が改善することもあるが,多くの場合は一時的に過ぎない。そのままきつい仕事をすれば,症状がぶり返してさらに悪化しかねない。風邪のようにすぐに治る病気ではないのだ。
一方,「一度かかったら,もう以前のような仕事はできない(仕事を任せられない)」と考える人もいる。確かに,うつ病には再発の危険性が伴うため,何日も徹夜するような激務をこなすのは難しいかもしれない。しかし治療で回復した後,時間の使い方を工夫するなどして,以前と同じように活躍しているITエンジニアは少なくない。しっかり治療すれば治るし,仕事に復帰することも可能である。
では,うつ病の可能性がある場合,どう対処すればいいのだろうか。