勉強会のノートをブログにまとめるようになって今日でちょうど1年になる。出来上がったノートを見返してみると、自分の手元になかなかの資産ができあがっているということに気が付く。
「勉強会に参加することでもらった充実感も、しばらくすると何も残らなくなってしまうので悲しい。だからなんとかして形にし、その時々の気付きや学びをなんとか残しておきたい」というのがノートをまとめるきっかけだったのだが、このような形で手元に溜まっていくとは思ってもみなかった。
一時期はプライベートな時間の大半を勉強会に使っていた。"アジャイル"と書いてあるだけで参加申し込みしてみたり、イベントサイトを見つければ上から下までイベントの情報を調べてみたり、twitterのタイムラインにひたすら貼り付いて勉強会情報を探してみたり…
月の半分を勉強会で埋めたときもあった。翌月のカレンダーを見ると5個くらいしか勉強会が入ってなくて「こんなに余裕があるなんて… もうブームは過ぎ去ってしまっていて、だからあまり勉強会が開催されないのだろうか」と不安になってみたりすることもあった。もちろんそんなことはなくて、そういう月でも最終的には10個以上参加することになるというのが常だった。
好奇心だけで聞きにいって、現場で使う機会なんかない勉強会のノートもあった。そういったノートも、いま読み返すときちんと学びに繋がっているので驚く。勉強会で学んだことが見事なまでに自分の中に内面化されていたり、あるいは、今まさに抱えている問題意識に関して、昨年学んだことを現在進行形で取り入れることができたり… 半年前はポカンとして聞いていたような話を、まるで当事者であるかのような目線から受け止めるようなこともあったりして、「まあ、1年というのはそれなりの時間なんだなー」と思ったりもする。
このブログはあくまでノートなので、勉強会の講演内容を一言一句書き写したりとか、そういうきっちりしたものにする意識はあまりない(なるべく講演者の意図は正確に書き留めたいというのはある)。自分がしっくり来る形になるまで構成を検討してみたり、話の順序がしっくりこなければ文意が壊れない範囲で切り出し方を考えてみたり… 公開こそすれど、結局のところは、勉強会での学びを自分が一番理解できるようにまとめなおしているだけにすぎない。
そして、今振り返ると、この取り組みは自分にとってとても大きいことであったような気がする。そうやってノートを何回も見直したり、発言の意図をひたすら考えたり、裏を取るためにウェブを調べまわったり… そういう作業を積み重ねることで、ただ参加していたときよりずっと深い気付きと学びを得ることができているように思える。
一時期、勉強会に参加することが当然のようになってしまい「とりあえず申し込んでは見たものの、参加する意義が自分でもよくわからない」という状態になってしまったこともあったが… 気の向くままに参加してみてよかったと、ノートを振り返りながら思った。
勉強会を主催するみなさま、1年間ありがとうございました。
今後とも宜しくお願い致します。
2013年2月26日火曜日
2012年11月15日木曜日
【チラシの裏】今日の送別会の帰り道に思ったこと
2007年の4月、社会人になって初めての給料をもらった週末、電車がなくなる時間まで飲み、そして歩いて帰った。
サラリーマンとして稼いだお金でお酒を飲んだというささやかな満足感とか、これから始まる社会人としての人生に対する晴れやかな気持ちであるとか、今日飲んだ同期の仲間達とずっとやっていきたいという希望とか、自分の世代が今以上に会社を盛り上げていくのだという野望とか、一生懸命勉強して優れたシステムを作るのだという向上心とか、いろいろな気持ちを抱えてワクワクしながら歩いた。社会人として成長していく自分のことを思うと、明日のことを考えるのが楽しくて仕方がなかった。
そして、本日付で私は会社を辞めた。明日から別の会社に勤めることになる。
昔の常駐先の職場の先輩が送別してくれることとなり、普段いかない場所で飲み、自転車に載っておらず、飲んでばかりだったので締めのラーメンが必要 …など、いろいろな条件が重なり、たまたま5年半前と同じ道を歩いて帰ることになった。
キラキラした何かを抱えていたあの日の自分と、その会社を辞めたという半ば冷めた気持ちを抱えている今の自分が同じ道を歩くという偶然に驚きながら、当時のことを思い出したり、今の自分に重ねてみたりしながら帰った。
やりたいことを貫き通すために会社を飛び出したのだという覚悟や、新しく迎えてくれる仲間の期待に応えることへのプレッシャーなど、今の自分には向き合わなければいけないものがあって、だから当時のような純粋で晴れやかな気持ちで歩くことはできなかった。でも、それは、自分が当時より少しは成長していることの証なのだと思った。
今までお世話になった会社の皆様、ありがとうございました。そしてこれからお世話になる会社の皆様、宜しくお願い致します。
2012年10月19日金曜日
【チラシの裏】【201203】勉強会に参加するようになって1ヵ月後に書いたメモ
過去メモを掘り返したら出てきた。2012/03辺りのもの。書いた細かい日時は残ってない。
メモなのでまとまりがなく、全体としてふわっとした仕上がりになっている。「勉強会からどのように/何について影響を受けるか?」という点について思ったことを表現すべく言葉を繋いでいるのは自分でもなんとなく分かる。
いろいろと思うところや、突っ込みを入れたい箇所などあるが、「半年前の自分というのは、半分くらいは他人みたいなもの」と考えれば、まあ別にいいか…
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
いろいろと考える概念や方法論などがあり、それらを学んだりしているわけだが …自分の中の大局感がなくなってる感じがしない?
何かについて考えているとき、1つ粒度を上げて考えて見ると、 物事ってもっと自由に …というか、1つ下の粒度で見てるときより明らかに手札が沢山あることに気が付いたりするんだけど、今の自分って見てる粒度が若干小さすぎるんじゃない?
「こういう技法があって、それはこういう考え方で、こういう手順で」 …というのをただただ積み重ねても、よいソフトウェアにはならないような気がする。もっと根底にある大きな価値観みたいなものを常に意識して、何か判断に迷うようなことがあった場合にそこに立ち返ることができなければ本当の意味でよいソフトウェアを作るところには至らないというか。
ただただ良い方法論のかたまりだけ、見たいな人間になっても、それでできあがるエンジニアっていうのは哲学的ゾンビ的な何かにすぎないような気がする。
…なんでこんなこと思ったかというと、大まかに2点あるような気がする。ここ一ヶ月で20個いかないくらいの勉強会に参加したのだが、だんだんメモを取る理由が判らなくなってきたのだ。
というか、「言ってることは大まかに同じじゃない?」という気がしてきている。勿論テーマやそこで学んでいる内容は全然違うのだが、勉強会が持っている(そしてそこから私が受ける)影響っていうのは、源泉を辿っていくとすべからく同じところに繋がっているような気がするのだ。そこさえぶれなければ、後で好みの問題でしかないっていう。
あと、Jonathan Rasmussonの話を聞いたのは大きい。彼の書いたアジャイルサムライは読みやすいし、人を鼓舞するような何かがあって、あの本はそういうものでできあがっている。そんな本を書いた彼の話を聞いていて思ったのは …本の背景(彼の頭の中や考え方)には、あの本に記載されていることの何倍も複雑な考え方や人間性があり、それは一冊の本(その中には一貫性があるようにという縛りがある)の持っているコンテキストに即する形で、ほんの一部だけが文面に織り込まれているのだということ。
彼の話を聞いていると、本に書いてあることについての意図や、ベースになる考え方など、本当に奥行きがあることがわかる。まず、そういうものが彼の中にある。で、それを踏まえて、読み手に適切な印象を与えるために、彼の中の引き出し(本人が知っている知識だけではなくて、感情に働きかけるための書き方なども含めて)を選んでいるのだな、というか。
だとしたら、本の内容っていうのはただ鵜呑みにするのではなくて、その背景にある著者の人間性や、その本が参照している源泉(さっき言ったよね?)が、何なのかっていうことを意識して知るように努めなければ、読む意義って実はあんまりないんじゃないですか? っていう。
「知識を集めるのが目的で、カタログ的に読めばいいよね?」っていう読み方は勿論あるけど、「もっと深いところまで感化されるっていうのが本質じゃない?」っていうのが上の考えから導かれた、私なりの本の読み方ということになる。
で、技術書って読み方に慣れてくると、そこにある考え方や方法のエッセンスを抜くのがうまくなったりするんだけど、もっと源泉のところも同じように読み取るコツがあるのではないかな?とも思う。
今回は"Agile Japan", "Agile do it!", "Agile Samurai Dojo Gathering"という3つイベントに参加でき、また一ヶ月みっちり勉強会に参加し、それだけの時間を通して学び続けた。その中で、上記のような認識に至るくらいの影響を受けた。
この、私が影響を受けたところっていうところに関して、もっと私の認識が見るかされていて、「自分が何について影響を受ける感じになっているのか」という点、私自身が自覚的であれば、もっと効率よく影響されることができるというか。
こういう言葉にならないようなところを、影響受けるようにはどうすればいいのか? っていう。よくよく考えると無理なような気もするけど、突破口になるような概念はあるんじゃない? っていう気もしている。
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メモなのでまとまりがなく、全体としてふわっとした仕上がりになっている。「勉強会からどのように/何について影響を受けるか?」という点について思ったことを表現すべく言葉を繋いでいるのは自分でもなんとなく分かる。
いろいろと思うところや、突っ込みを入れたい箇所などあるが、「半年前の自分というのは、半分くらいは他人みたいなもの」と考えれば、まあ別にいいか…
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いろいろと考える概念や方法論などがあり、それらを学んだりしているわけだが …自分の中の大局感がなくなってる感じがしない?
何かについて考えているとき、1つ粒度を上げて考えて見ると、 物事ってもっと自由に …というか、1つ下の粒度で見てるときより明らかに手札が沢山あることに気が付いたりするんだけど、今の自分って見てる粒度が若干小さすぎるんじゃない?
「こういう技法があって、それはこういう考え方で、こういう手順で」 …というのをただただ積み重ねても、よいソフトウェアにはならないような気がする。もっと根底にある大きな価値観みたいなものを常に意識して、何か判断に迷うようなことがあった場合にそこに立ち返ることができなければ本当の意味でよいソフトウェアを作るところには至らないというか。
ただただ良い方法論のかたまりだけ、見たいな人間になっても、それでできあがるエンジニアっていうのは哲学的ゾンビ的な何かにすぎないような気がする。
…なんでこんなこと思ったかというと、大まかに2点あるような気がする。ここ一ヶ月で20個いかないくらいの勉強会に参加したのだが、だんだんメモを取る理由が判らなくなってきたのだ。
というか、「言ってることは大まかに同じじゃない?」という気がしてきている。勿論テーマやそこで学んでいる内容は全然違うのだが、勉強会が持っている(そしてそこから私が受ける)影響っていうのは、源泉を辿っていくとすべからく同じところに繋がっているような気がするのだ。そこさえぶれなければ、後で好みの問題でしかないっていう。
あと、Jonathan Rasmussonの話を聞いたのは大きい。彼の書いたアジャイルサムライは読みやすいし、人を鼓舞するような何かがあって、あの本はそういうものでできあがっている。そんな本を書いた彼の話を聞いていて思ったのは …本の背景(彼の頭の中や考え方)には、あの本に記載されていることの何倍も複雑な考え方や人間性があり、それは一冊の本(その中には一貫性があるようにという縛りがある)の持っているコンテキストに即する形で、ほんの一部だけが文面に織り込まれているのだということ。
彼の話を聞いていると、本に書いてあることについての意図や、ベースになる考え方など、本当に奥行きがあることがわかる。まず、そういうものが彼の中にある。で、それを踏まえて、読み手に適切な印象を与えるために、彼の中の引き出し(本人が知っている知識だけではなくて、感情に働きかけるための書き方なども含めて)を選んでいるのだな、というか。
だとしたら、本の内容っていうのはただ鵜呑みにするのではなくて、その背景にある著者の人間性や、その本が参照している源泉(さっき言ったよね?)が、何なのかっていうことを意識して知るように努めなければ、読む意義って実はあんまりないんじゃないですか? っていう。
「知識を集めるのが目的で、カタログ的に読めばいいよね?」っていう読み方は勿論あるけど、「もっと深いところまで感化されるっていうのが本質じゃない?」っていうのが上の考えから導かれた、私なりの本の読み方ということになる。
で、技術書って読み方に慣れてくると、そこにある考え方や方法のエッセンスを抜くのがうまくなったりするんだけど、もっと源泉のところも同じように読み取るコツがあるのではないかな?とも思う。
今回は"Agile Japan", "Agile do it!", "Agile Samurai Dojo Gathering"という3つイベントに参加でき、また一ヶ月みっちり勉強会に参加し、それだけの時間を通して学び続けた。その中で、上記のような認識に至るくらいの影響を受けた。
この、私が影響を受けたところっていうところに関して、もっと私の認識が見るかされていて、「自分が何について影響を受ける感じになっているのか」という点、私自身が自覚的であれば、もっと効率よく影響されることができるというか。
こういう言葉にならないようなところを、影響受けるようにはどうすればいいのか? っていう。よくよく考えると無理なような気もするけど、突破口になるような概念はあるんじゃない? っていう気もしている。
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また半年後くらいに見返すと、いろいろと思うことなどあるのだろうなー。
2012年9月13日木曜日
【チラシの裏】リーンスタートアップ - コンシェルジュMVPの概念を説明する
リーンスタートアップに絡めて、コンシェルジュMVPの概念を説明する
「自動販売機が無い世界で『どの街角でもジュースが売っていると皆が買う』という仮説を立てるとしよう。
これはあくまで仮説なので検証する必要があるが、その為にわざわざ自動販売機を作ることはしたくない。まだそれが顧客の価値なのかは分かってないのだし、できればお金をかけずにこの仮説を検証したい。
だからコンシェルジュMVPを使う。
具体的には、あなたが『自動販売機』と書いた箱を被って街角に立ち、実際に検証してみればよい。
そうやって実際にジュースを売ってみて手ごたえを感じたなら、それは仮説が検証できたということなので、その時に自動販売機を開発すればよい。
逆に手ごたえなんてなくて『誰も街角でジュースなんか買わない』『仮説が間違っていた』ということが分かった場合でも、かかった費用は箱の代金と人件費だけだからそんなに痛くない。
こうやって、人力で顧客価値の仮説を検証するのがコンシェルジュMVP」
本当は、顧客価値についてはもっとしっかり検証する必要があるが、あくまで概念を理解してもらうための説明なので、そこは深彫りしないことにしている。
…自動販売機の中の人ってアイデア、何かの本で読んだ気がするんだよなー。
「自動販売機が無い世界で『どの街角でもジュースが売っていると皆が買う』という仮説を立てるとしよう。
これはあくまで仮説なので検証する必要があるが、その為にわざわざ自動販売機を作ることはしたくない。まだそれが顧客の価値なのかは分かってないのだし、できればお金をかけずにこの仮説を検証したい。
だからコンシェルジュMVPを使う。
具体的には、あなたが『自動販売機』と書いた箱を被って街角に立ち、実際に検証してみればよい。
そうやって実際にジュースを売ってみて手ごたえを感じたなら、それは仮説が検証できたということなので、その時に自動販売機を開発すればよい。
逆に手ごたえなんてなくて『誰も街角でジュースなんか買わない』『仮説が間違っていた』ということが分かった場合でも、かかった費用は箱の代金と人件費だけだからそんなに痛くない。
こうやって、人力で顧客価値の仮説を検証するのがコンシェルジュMVP」
本当は、顧客価値についてはもっとしっかり検証する必要があるが、あくまで概念を理解してもらうための説明なので、そこは深彫りしないことにしている。
…自動販売機の中の人ってアイデア、何かの本で読んだ気がするんだよなー。
2012年9月9日日曜日
【チラシの裏】コミュニケーションについての直近の関心
相槌とか同意とか、それが大事なことは間違いない。
でもそれは相手の話を聞いていることを表現するための手段でしかない。
それより、相槌や同意をする理由 …何故そうするのか?ということや、それが学問や実践の領域でどのように表現・理解されているか、ということについて非常に興味がある。あるいは、人間心理や精神活動・何かのコミュニケーションモデルなどの中で、相槌や同意をする理由がどのように定義され、どういう捉え方をされているのか?ということも知りたい。
『相手にどのように向かい合うか』というのは、表層的な手段を散りばめて取り繕えば済むようなものではない。だからこそ、もっとコミュニケーションの奥底にあるもっと重要な事柄を知りたいし、そうやって学びを深めていく中でコミュニケーションの持っている本当の意味について近づいていきたい。
それが座学で学ぶものなのか?というのは間違いなくあるが、座学を押さえておくことにメリットがあることもまた事実。
でもウェブを探してもいまいち情報がないんだよなー。紀伊国屋にでもいって本棚をひたすら眺めていこうか…
2012年9月8日土曜日
【チラシの裏】モチベーションという言葉について
「モチベーションって言葉の意味が人によって違っている。だから、モチベーションという言葉を使った議論は、そもそも空中戦になっている可能性がある」
といった趣旨の会話が、昨日の勉強会であった。
いろいろ思うところがあり、ググってみた。
モチベーションという言葉にはだいたい次のような意味が包含されていることが判った。
モチベーション = やる気
= 動機
= 自尊心から生まれるもの
= 意欲
= 欲求
= 欲
これらが全て(本質的には)同じものなのならば、モチベーションという言葉を使うことは対した問題にはならない。
同じではないなら、合意を作らず安易にモチベーションという言葉を使用することは、すれ違いや噛み合わなさの原因にもなりかねない。
googleの検索結果を見る限りでは、モチベーションという単語は、〇〇論や〇〇心理・あるいは自己啓発的な何か、といった考えを説明するための道具として使われていることが多かった(〇〇論と書いたのは、それがいろいろあって、全部並べるのは面倒だからだ)。
つまり、モチベーションという単語は、コンテキストによって全く定義が異なっていて、それは、それぞれが物事を捉えるアングルに基づいて好きなように再定義しているとか、あるいは自分の思った漠然とした感覚に当てはめるために字面だけ借りてくるとか、そういった使われ方の集合であるということだ。
十人十色の便利な和製英語になっていて、人それぞれのバックボーンによって意味が全く異なる可能性が高いのが、モチベーションという単語の現状なのである。
要するにオレオレモチベーションがたくさんあるということ。
なので、モチベーションについて議論する際には、その意味について合意を形成し、曖昧さを排除する必要がある。意味を明らかにせず使用してしまうことは、議論の有意義さを損なう可能性がある。
逆に言えば、コンテキストが明確であったり、意味合いについて合意が取れていたりするのであれば、モチベーションという単語を使うこと自体には全く問題がない。
といった趣旨の会話が、昨日の勉強会であった。
いろいろ思うところがあり、ググってみた。
モチベーションという言葉にはだいたい次のような意味が包含されていることが判った。
モチベーション = やる気
= 動機
= 自尊心から生まれるもの
= 意欲
= 欲求
= 欲
これらが全て(本質的には)同じものなのならば、モチベーションという言葉を使うことは対した問題にはならない。
同じではないなら、合意を作らず安易にモチベーションという言葉を使用することは、すれ違いや噛み合わなさの原因にもなりかねない。
googleの検索結果を見る限りでは、モチベーションという単語は、〇〇論や〇〇心理・あるいは自己啓発的な何か、といった考えを説明するための道具として使われていることが多かった(〇〇論と書いたのは、それがいろいろあって、全部並べるのは面倒だからだ)。
つまり、モチベーションという単語は、コンテキストによって全く定義が異なっていて、それは、それぞれが物事を捉えるアングルに基づいて好きなように再定義しているとか、あるいは自分の思った漠然とした感覚に当てはめるために字面だけ借りてくるとか、そういった使われ方の集合であるということだ。
十人十色の便利な和製英語になっていて、人それぞれのバックボーンによって意味が全く異なる可能性が高いのが、モチベーションという単語の現状なのである。
要するにオレオレモチベーションがたくさんあるということ。
なので、モチベーションについて議論する際には、その意味について合意を形成し、曖昧さを排除する必要がある。意味を明らかにせず使用してしまうことは、議論の有意義さを損なう可能性がある。
逆に言えば、コンテキストが明確であったり、意味合いについて合意が取れていたりするのであれば、モチベーションという単語を使うこと自体には全く問題がない。
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