オーストラリアの永住権も取った。会社も興した。結婚も(離婚も)した。そして今、日本のためにやりたいことが村上福之さんにはある。
「これだけは絶対書いてね。みんな、ブログを読んでくれてありがとう。タイの募金もありがとうって」――村上福之さんは2011年10月、洪水で被害にあったタイへの義損金を募るエントリーをオルタナティブ・ブログに書いた。主旨に賛同した読者の数406人、3日間で280万円もの義損金が集まった。
経過報告はタイ大使館に義損金を持参した際の受取証や、大使館からの感謝状などの写真とともに行われ、感謝の気持ちを込めて協力者の一覧が掲載された。
村上さんは、アルファブロガー運営委員会が主催する「アルファブロガー・アワード2010」で個人ブログ部門を受賞した村上福之の「ネットとケータイと俺様」を執筆する人気ブロガーであり、Android用電子書籍ビューワー「androbook」や個人がコンテンツを販売できる「Ameroad」などを開発するクレイジーワークスの代表取締役“総裁”でもある。
村上さんが初めてプログラムを書いたのは小学4年生のときだった。
「ファミリーベーシックをお年玉で買いました。当時ファミコンのゲームソフトは1本4800〜5600円ぐらいしたけれど、ファミリーベーシックは1万4800円だったから。これを買って自分でゲームを作ればたくさん遊べるなと思って」(村上さん)
プログラムの経験はまったくなかった。けれども解説書を買うお金はない。そこで村上少年は本屋に通いつめ、立ち読みしてソースコードを覚える通称「目コピ」でプログラムを覚えた。買えないものは作ればいい。知恵と努力と探究心を総動員して、当時人気だった「ポートピア殺人事件」や「ディグダグ」「ドラクエ」の“ようなもの”を次々と作った。
「残念ながらひとつ気付いたことがあって。自分で作ったゲームで遊んでも案外楽しくないなって。アルゴリズムを知ってるし、敵のヒットポイントとかも全部知ってるじゃないですか。ストーリーも全部自分で作っているし」。それでもめげずに打ち込んで、6年生になるころには3Dプログラムを組んだり三角関数を駆使していろいろなものを作ったりした。
中学時代の村上少年は、いわゆる「どこにでもいるマイコン少年」だった。
学校ではブラスバンド部でチューバを吹いたり生徒会で副会長を務めたり、といった少年らしい日々を送っていたが、帰宅後はプログラム三昧。ゲームプログラム雑誌に投稿して原稿料をもらったりもした。
将来はゲームプログラマーになりたかった。しかし当時はPC好きやオタクがまだ珍しく、公言しにくい状況であったため、その思いをひとり胸に秘めていた。
高校時代も黙々とソースコードを書いた。そして少年は青年になり、大学生になった。初めて買ったMacintoshで書いたプログラムをパソコン通信サービス「NIFTY-Serve」に上げたり、Mac系の雑誌で紹介されたりした。
いろいろなアルバイトもした。携帯電話の販売員、消費者金融の受付、社会人寮の管理人……。「寮生のほとんどが外人だったので、このときに英語を覚えました。マレーシアやインドネシアの人が多かったかなあ」(村上さん)
就職は当然、ゲーム会社を希望していた。しかしコナミやナムコなど有名ゲームソフト会社の説明会に行くと、ゲーム屋になりたいと張り切っているのは自分だけで、ゲームのことをあまりよく知らない人たち(いわゆるリア充)がたくさんいた。そこで、村上青年は思った。
「こいつらとは働きたくない」
結局、ゲームとは関係のない電機メーカーに就職した。ゲームを好き過ぎるがための選択だったのだろうか。しかしメーカーで過ごした日々から村上さんは、それからの自分の価値観を決める大切な考え方を学んでいく。
最初に配属されたのは、プリンタードライバーを開発する部署だった。自分も開発に携わりたかったのだが、村上さんの仕事は品質や予算、進行の管理など、いわゆる開発管理というものだった。
楽しくなかった。いろいろな会社がからむので開発は遅々として進まず、同じような打ち合わせが延々と繰り返された。そんな日々に“腹が立った”村上さんはとうとうプリンタードライバーを、自分で作ってしまった。
それは入社して1年が経過したころのことだった。ゴールデンウイークに「秀丸」でプログラムを書いた村上さんは、休み明けに上司の机の上に実機を置いて実演してみせた。「試作品を置いて上司のパソコンにつなげてガリガリ印刷して。取りあえず縦だけは印刷できます、横はまだ動かないしパワポはところどころ崩れるけれど、だいたい動きますって」。
そこから社内は大騒ぎになった。今まで莫大な予算をかけて外注していたものを、入社1年目の新人が自力で、しかも短期間で作ってしまったのだから。異例の事態を会社はなかなか受け入れられず、すったもんだした挙句、研究所の所員や関連会社も含めた会議が行われた。
「これ、どうしましょう?」「でも動いてますよ」「今まで外注に支払ってきた金額はどうなるんだ!」「どうする?」「どうする?」「どうする?」──会議は難航し、揉めに揉めた。そのとき、ひとりの研究所員が決定的なひとことを言った。
Copyright © ITmedia, Inc. All Rights Reserved.