札幌の中心部、大通公園の少し南に、9階建てのビルがある。エレベーターで5階に上がり、ドアが開くと目の前に、「初音ミク」のちらしと銀のプレート。「CRYPTON」のロゴが光る。
クリプトン・フューチャー・メディア。この社名に意味はないと、伊藤博之社長(42)は淡々と言う。「当時『なんとかテック』って社名が流行してたけど、そんなありがちな名前じゃ検索に引っかからない気がして。適当な乱数を吐いて、世の中にない名前にしようと」
創業は1995年。いわゆるネット企業ではないが、「『Yahoo!』がヤフーかヤッホーか分からなかったような」当時から、ISDN回線を引いていた。低価格な常時接続線として話題になった「OCNエコノミー」を、北海道で初めて導入したのも同社だ。
世界からあらゆる音を集め、世界中に売ってきた。自分が好きだから人も好きに違いない――そんな気持ちで始めた「音の同人」。音を届けた媒体は、最初は手紙とフロッピー。やがてFAXとCDになり、インターネットに代わっていく。
1人の力がメディアになる。そんな時代を生きてきた。
最初は小さな趣味だった。
「MacとかFM-7とか、コンピュータがずらずらあって」。大学を卒業し、事務員として就職した北海道大学工学部精密工学部の研究室。コンピュータに初めて触れた。
中学時代からエレキギターを弾いていて、音楽は趣味だった。MIDI規格ができ、YMOが人気をさらった打ち込みブームの最初期。音楽とコンピュータが出会ったのは必然だった。「初音ミク」のデザインモチーフにもなったヤマハのシンセサイザー「DX7」や、ローランドのサンプラー「S-50」を使い、音と音楽を創った。
「ビンの音」「階段の手すりをたたく音」。身の回りのあらゆる音をサンプリングし、音楽にしてテープに録音。自分なりの“音”の世界を家族や友人に聴かせたり、楽器店やレコードショップで委託販売した。だが物足りない。もっとたくさんの人に聴いてほしかった。
インターネットのない時代。音を広げたのは紙だった。書店で偶然手にした米国の専門誌「keyboard」巻末のclassifieds(3行広告)。「楽器の修理します」「楽器、教えます」「音、売ります」――米国の個人による小さな広告が、そこにはあふれていた。
50ドルほど支払えば、3〜4行の広告が打てる。個人の文字が、活字になって世界中に流通する。英語は得意ではなかったが、「面白そうだったから」広告を出してみた。「日本の音を買いませんか」――受注は期待していなかったから、米国から最初の問い合わせの手紙が届いた時は「相当うれしかったと思う」。
鐘の音や人の声――3.5インチのフロッピーディスク1枚に1分程度の音を入れ、5〜6ドルで売る。客の9割が米国人、残りが欧州やアジアから。問い合わせが来ると、手持ちの音リストを郵送かFAX。それを見た相手が郵送かFAXで注文し、商品を郵送で届ける。1件の注文を処理するのに1カ月かかった。
そうするうちに世界中に“音仲間”ができ、一緒に曲を作ったりした。「スイス人が作ったメロディやリズムのMIDIデータをフロッピーで郵送してもらい、僕がアレンジを加えて同じフロッピーに保存して、郵送する。その繰り返し。微妙な作品ができあがったけど(笑)」
フロッピーを使った“音の輸出”は92年ごろの円高で収支が合わなくなってやめてしまった。だが逆に、日本の円高に目を付けた海外の音仲間が「日本で音を売りたい」と持ちかけてきた。
音を輸入して売る。買ってくれる人がいるかどうかも分からなかったが、やってみることにした。「自分が好きだからきっと人も好きだろうと思って。“音の同人”みたいな感じ」
日本の雑誌にclassifiedsはないから、音を売るには企業と同じ、雑誌広告を打つ必要がある。だが、代理店に広告を発注する予算はない。DTP(DeskTop Publishing)の力を借りた。
「個人でもプロ並みの仕事ができるようになった、最初のころだと思う」
黎明期のDTPに手を付けたのは、単純に「面白そうだったから」。DTM(Desk Top Music)のために買ったはずのMacintosh SE/30に、画像編集ソフト「Photoshop 1.0」や、DTPソフト「QuarkXPress 1.0」を導入したら、「そっちの方が面白くて」広告デザインに打ち込んだ。
爆弾マークを出してたびたびフリーズするMac。何度も再起動してなだめすかし、ちまちまと作っていく。それが楽しかった。しかも「僕の作った広告は、ほかより格好よかった」。
アナログ製版が普通の当時。DTPで出力した広告は美しく、印刷屋のおじさんにも驚かれたという。「お兄ちゃんこれ、どうやって作ったの? って」
受注用FAXと、音を収録したCDの在庫は、起業したばかりの知り合いの会社に置いてもらった。昼は大学で仕事、夜は音の受注販売。事業が軌道に乗り、片手間では立ちゆかない状況になってきた。
「しょうがないから」会社にしたんだという。
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