久々の投稿です。
(あ、、これは残しとこ。)
って思わせるのは、
(ん、、そのうち忘れんのかも)
って思ったからで、
(や、、忘れたくないな)
と思ったので、
(ま〜、久々だわ)
なんて思いながらスマホをポチポチとしてみます。
過去に、
「ワタナベさんってキレイに食べるよね」
って言われることがありました。
これ、とっても嬉しかったんです。
この「キレイ」は食べ残さないとか所作とかのことで、
そのどっちも自分の中でどこかで気にしていた気もするから
嬉しかったんだと思うんです。
例えば、サンマの塩焼き定食なんてことであれば、
そのサンマさんが彼なのか彼女であったかは存じ上げぬものの、
「いただきます。」
と発声してからひと呼吸、サンマの横腹にスッと箸を入れる鮮やかさは、
ブラックジャクソのメスさばきさながらです。
田畑と海の恵みを慈しみながら咀嚼し、深く堪能し、
「ごちそうさまでした。」
と箸が戻された傍らの茶碗には米粒のひとつなんぞが残っているはずもなく、
米粒の残骸さえも残ってはいません。
食いしん坊のジャイアンが母ちゃんの目を盗んで
舐め回された茶碗さながらです。
ジャイアンは母ちゃんにビンタされることになりますが、
舌ではなく箸のみでそれを実現するワタシは母ちゃんに褒められます。
一方の皿に横たわっていたサンマは頭蓋と脊椎と尾びれのみのお姿に。
筋肉及び内臓の一切はそもそも存在しない新生物であるかのようなそれは、
海に戻せばシュシュっと泳いでしまいそうな生を感じさせるほどです。
箸は迷いません。
茶碗に盛られた炊き立てご飯の自然美を一瞥し、
巧みな指つきによって箸は合理的かつ美しき二等辺三角形を成し、
大きすぎず小さすぎない量が品を醸す米粒の集合体を包み、
しなやかな箸先に掬われたホカホカのツヤツヤたちが
ワタシの口元へ。
はい、さぞや、
ウッゼー!!または、キッモー!!などなど、
お思いでございましょうが、
気にはしてたんですよね。
キレイに食べられる方とご一緒すると、
(良いなぁ)
って。
自分もそうでありたいなって。
その現在はというと、
気にはなっても、視力の問題でそうはいかないんですね。
はっきりと言えば、出来ない。
だから、
(気にしないように)
って思うんです。
思うようにしてたんです。
難しいことであり、なんなら出来ないことなんだから、
(気にしなくて良いんだよ)
って言い聞かせる感じというか、
(仕方がないんだから)
って慰める感じというか。
そうやって、
所作が不細工になってしまうことも、
意図せず食べ残してしまっていることも、
(仕方がない)
のだと。
過去と現在と、
視覚が自由だったあの時と不自由なこの時と、
ありたい姿とあれない姿と、
自分の中で折り合いがつけられてきた気がするんです。
(大したこっちゃない)
って。
そんな気がするまでの過程では、
(仕方がない、とはいえカッコわりーな)
という灰色な感覚があるのはあって、
それを徐々に
(仕方ない、のだから堂々とせぇよ)
って明るい色合いの感覚に変化させてきた。
それが障害を受け入れることだとして、
なんなら、それが第二の人生を歩んでる上での
進化のようにも思ってたんです。
んー、思えてたんです。
それが、先日ですね、
食べログ4.45とかって尋常じゃない評価の日本料理屋さんに連れて行かれちゃった席で、
なんか、
どうも、
よくわかんなくなったんです。
オーナーでもある大将が前に立つカウンター席でした。
コース料理を(仕方がない)食べ方ながら
会話も食事も堪能させてもらって、
何となくでしたけど、隣の友人とこんな会話をしました。
ワタシ「オレ、ご飯かき込むように食べたりね、こんな食べ方になっちゃって、それがどうもね、、、」
友人「ん?そんな、別に全然気になんないし、全然手伝うし」
ワタシ「やー、ありがとね。以前はもちろんこんなんじゃなくてね、これってのがなかなか悲しいもんなんだわね」
友人「んー、なるほどね、んー、までも、キレイに食べてますよ」
ワタシ「そう?てか、このお茶碗にチラッとご飯は残ってたりしない?白の茶碗に白のご飯ってよく見えないんだよね」
友人「ん、ないっすよ」
ワタシ「ご飯粒はあるよね」
友人「ま、それはあるね」
ワタシ「だよね、ん、だわね」
あまりに素敵で美味いが過ぎたコースの締めは、
炊き立ての新米にいくらとたらこというシンプルに嬉しいが過ぎるご飯のお供たち。
説明があるまでお供がなんだかわからず赤い物体たちを凝視してると、
「載っけちゃう?」
という友人の配慮に
「あ、助かるわ」
とお願いをして載っけてもらうものの、
説明を受けた白米の上のいくらとたらこの区別はつかず、
ぼんやりとした赤の領域に箸を食い込ませて、
口元に当てがわれた茶碗からご飯たちを
箸によって口へと押し滑らせる。
視覚によって計られていない量と配分がワチャワチャのそれらを
口内の知覚と味覚の情報に集中して理解しながら咀嚼する。
(仕方がない)
んですけど、
ま、
キレイではないわけです。
ワタシのなかで折り合いはつけてきたはずだし、
さらに隣の友人は過去と今のワタシの視力を知ってるわけだから、
(や、キレイじゃないよね)
と自虐チックで野暮な思いは口には出さずに飲み込みました。
その飲み込んだ思いが、
(過去の話なんてしなきゃ良かったな)
なんて思いに波及して、
(悲しいなんて表現も使わなきゃ良かったな)
なんて思いが追いかけてきたりして、
面倒な返答をさせたなって。
ちょっと重いだろうなって。
思っただけでやっぱり口にはしませんでしたが、
反省みたいなモヤモヤが巡ったり膨らんだりしたんですよね。
これってのは、
結局のところで、食べ方が不細工なのは
(仕方がない)
って伝えたいのか漏れたようでもあって、
実のところは、
(思い通りではないのよ)
(それをわかって欲しい)
って心底にへばりついてるやつを
(ワタシは障害を受け入れているのです)
って見栄みたいなやつでバサっと覆い被せて、
なんなら、隠してるってことなんじゃないか?
そんな思いに展開しちゃって。
それはさらに、
(仕方がない)
を容認し続けて
(気にしない)
ようにしてたら、いつしか
(気にならない)
ようになって無頓着になって、
そんな未来の姿が視えてきて。
その姿は食べ方の問題だけなんかじゃなくて、
以前は明確じゃないけど必ずあったはずの
美意識みたいなのが失われて無頓着になって、
そいつの折り合いバッチリで板についてます的なのは、
誰かに援助してもらうことに対しても無頓着になって、
仕方がないってのが、当たり前になってくようにも思えて。
(そ、それは、ヤバいだろ)
みたいな恐怖は、
(仕方がない)
とは到底に思えない。
障害を受け入れるという思いや考え方が、
少しズレてたのかなって。
感じたんです。
過去と今の自分の食べ方に対する折り合いなんて、
ついちゃっいなかった。
なんなら、
折り合いなんか、
ついてなくて良かったのじゃないか。
それは障害を受け入れてない、
なんて捉え方ではなくて、
障害と付き合ってく、
なんて捉え方はどう?
そしたら、
(仕方がない)
ことでも気になって良くない?
気になるなら伝えて良くない?
伝えながら伝え方を進化させてけば良くない?
相手にとっても自分にとっても
重くもなくて悲しくもない伝え方っていうか、
連携っていうか、
なんていうか、、
ありなんじゃない?
って、、
やっぱり、よくわからないのですが、
(仕方がない)
ことがこれからも増えていくであろう自分が、
それを当たり前にしていくとか、
その当たり前さ加減に無頓着になってくのは、
(嫌だ)
ってことはわかる。
わかった気がしたんです。
わかるからって出来るって自信はないけと、
まだ、あやふやな自分に対して、
今、久々で、
ここに書き記して無頓着ではない自分ってやつを残しておいて、
大切にしたいなと。
いつしか、障害者駆け出しのややこしい思いを
未来の自分がこれを読み返して、
何を思うのだろうか。
ややこしい自分のまま、、
な気がしなくもないのですが、
今の自分か未来の自分を援助することにもなるのかもしれない、
なんて、ポジティブな自分がいるっちゃいるのが、
どうも、
ありがたいと言えば、
ありがたいなって、
思えると言えば思えて、
ポチポチ終わります。
最後までお読みいただき、
ありがとうございました。
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