松任谷由実前史 荒井由実ヒストリー ~ 誕生から ひこうき雲ができるまで その軌跡 〜  | Kou

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音楽雑感と読書感想を主に、初老の日々に徒然に。
ブログタイトル『氷雨月のスケッチ』は、はっぴいえんどの同名曲から拝借しました。

もう十年近くも前のことですが、荒井由実のデビューアルバムである『ひこうき雲』がいかにしてつくられたか、その当時を振りかえる番組がありました。松任谷由実本人も出演していて、レコーディング時の秘話が数多く語られていました。一方、雑誌や本、あるいはネットなどにより、彼女のくわしい半生もあきらかになっています。四十年以上前、荒井由実をよく聴いていた自分にとって、これらの情報はとても興味深いことです。

 

そこで単なる自己満足なのですが、あちこちに散らばる彼女の話をひとつにまとめて、「荒井由実ヒストリー」をつくってみました。彼女が19歳で『ひこうき雲』を生みだすまでの、音楽形成過程を主とした「ドキュメンタリー」となります。借用文は大幅に再構成しましたが、文意は変えていません。自分と同じように、ユーミンが荒井由実だった頃が好きという人は、世間には案外多いと聞きます。そのような方々に読んでいただけたらと思います。

 

 

ー 引用元の雑誌、書籍、番組、ネット記事 -

月刊誌文藝春秋 柳澤健 『時代を創った女 松任谷由実』

松木直也著 『音楽家 村井邦彦の時代』 

NHK 「荒井由実『ひこうき雲』誕生の秘密」

荒井由実著 『ルージュの伝言』

松任谷正隆著 『僕の音楽キャリア全部話します』

延江浩著 『愛国とノーサイド』

田家秀樹著 『読むJ-POP 1945-1999私的全史』

サエキけんぞう‎ 中村俊夫 共著『エッジィな男 ムッシュかまやつ』 

北中正和責任編集『風都市伝説』

財津和夫対談集『財津和夫の心のものさし』

Yuming Biography YUMINGの生い立ちから現在までの歴史

ユーミンにも売れない時代があったんだ【特別対談「荒井由実」を語ろう】

デイリー 「ひこうき雲」は雪村いづみの曲だった

週刊誌『 Mimi 』1976年2月

『週刊平凡』1976年4月



 

 

 

誕生


荒井由実は、1954年1月19日、東京都八王子市にある、大正元年創業の老舗・荒井呉服店の次女として生まれた。兄と姉がいて、のちに二歳下の弟が生まれている。第二次大戦下、兄の上に生まれた子がいたが、終戦直後の悪環境下、栄養失調で夭逝している。兄は家を継ぎ、弟は精神科医となった。

父の末男は明治の生まれで、尋常小学校を出て八王子の呉服店に丁稚奉公に入った。番頭格になっていた1941年、入り婿として近所の荒井呉服店の娘芳枝と結婚。応召されたが無事復員、芳枝とともに苦労して戦後の荒井呉服店を立て直し、大いに繁盛させた。最盛期の使用人は八十人もいたという。地域振興活動などにも励み、八王子の名士となった。一方では女遊びも激しく、使用人の女性にも手を出すなど、家庭騒動も一再ではなかった。末男はなぜか他の兄姉弟より由実を可愛がった。母親に顧みられない次女に、養子の自分を重ねたのかもしれない。

荒井呉服店の跡取り娘であった母の芳枝は、夫とともに男勝りの力量で家業を取り仕切る一方、子供のPTA活動に熱心だった。また、家具や宝石の輸入などサイドビジネスも手掛けた。趣味はレビューや歌舞伎など芝居見物。家事や子供たちの世話はすべて家政婦に任せていた。母は映画を観るだけでワーワー泣き出すほど感受性が強い人で、子供にとっては戸惑うタイプだった。由実は大人になってからようやく、母を受け入れられるようになった。長じて作った歌詞には、母親から感じた女の嫉妬や猜疑心が反映されているのかもしれない。

養育を任されていた家政婦の名は宮林秀子という。由実にとっては、もうひとりの母といっていい存在であった。秀子は山形県の出身で、穏やかで優しい人格者だった。由実と近所や川原に散歩に行くときには、童謡を歌ってくれた。秀子が故郷の左沢に里帰りするときには、実の子供同然の由実と弟をいっしょに連れて行った。中学生のころ、芳枝が夫と秀子の不倫を疑い、荒井呉服店は大騒ぎになった。生みの母と育ての母の板挟みになった由実は「家を出て、ひでちゃんと一緒に暮らそう」とさえ思った。結婚するときも、ひでちゃんと別れるのが悲しかった。

幼いころの由実は、坂本九や森山加代子等の洋楽カバーや、『太陽がいっぱい』『避暑地の出来事』などの映画音楽のメロディを自然に覚えていく。おむつがとれないときからマンボを踊った。由実が体をゆらすと従業員たちは喝采を送り、社員旅行に連れられると、バスの中では握ったマイクを離さなかった。荒井呉服店では洋装も扱っていて、横田基地などから米軍の将校らが店に来た。生地を切る台の上にポンとあがった由実が『東京ブギウギ』を歌えば、彼らがお金をくれた。由実は店のアイドルだった。



小学校

幼稚園は地元のカトリック系に通った。自立心旺盛な園児だった。八王子市立第一小学校に入学した6月からピアノを習い始め、中学一年まで続けた。『昼下がりの情事』のメロディをピアノで拾うようになり、演奏会のステージに立つと、練習のときとはまったく違う独創的なピアノを弾いた。小学校高学年から中学までは、三味線も習った。勉強は努力せずとも小学校を通して一番だった。神童と呼ばれ、親は将来医者にしようと考えた。一方、由実はいじめっこだった。少女漫画の悪役のようだったという。いじめられた子の親が学校へ訴えると、PTA会長の芳枝がもみ消した。

難病の筋ジストロフィーを患っていた小学校の同級生が、高校1年の時に亡くなる。また近所で高校生の飛び降り心中があり、このふたつの死にショックを受けて生まれたのが『ひこうき雲』である。



中学校

中学校は、中高一貫のプロテスタント系ミッションスクール、立教女学院中学を受験して入学。兄や姉も立教だった。同校は毎日礼拝の時間があり、日曜日の礼拝も義務づけている。司祭の説教は由実を退屈させたが、礼拝堂のパイプオルガンで聴いた、バッハの『トッカータとフーガ ニ短調 BWV五六五』には異常な衝撃を受けた。

 

松任谷由実

「パイプオルガンは教会全体が楽器。床の下にはパイプが通っているんです。バッハを聴いた瞬間、涙が溢れて止まらなくなった。これは本当の話なんだけど、声までオルガンみたいになっちゃった。瞬間的に内耳の構造が変わったのかもしれない」

学校では聖歌隊にも属し、またバッハやヘンデルにも親しむようになる。クラシックの音が由実に浸透してゆく一方、1966年から始まったフジテレビの日本初の洋楽番組『ビートポップス』に、12歳の由実は夢中になる。この番組が紹介した数多くの曲のひとつに、プログレッシブロックバンド、プロコル・ハルムの『青い影』がある。バッハの『G線上のアリア』のような下降するベースラインとハモンドオルガンの音色が美しい名曲。クラシックとロックが融合したこの曲が、早熟な少女にとって人生の転機となった。

自分には小学1年生から6年間習ったクラシック・ピアノの技術があり、幼い頃からあらゆる種類の音楽を聴いた膨大な記憶もあり、日常的に教会音楽に触れる環境がある。「これなら、私にもできるかもしれない」。そう考えた由実は、耳に残っている印象的なフレーズを片っ端からコピーすることから始めた。ピアノという鋭利なメスを使って曲の構造を解剖し、ヒット曲の秘密を解こうとした。

まもなく由実はグレゴリオ聖歌とボサノヴァの『ワンノート・サンバ』の間に共通点があることに気がついた。主旋律が同じ高さの音を続けているにもかかわらず、伴奏がコードを変えれば、まったく単調に聞こえない。「これだ!」由実は西洋音楽の根源の一端に触れた思いがした。



作曲開眼

由実は、中学時代から作曲を始めている。後述する加橋かつみに提供した『愛は突然に』は、14歳の時に作曲したもの。アルバム『ひこうき雲』に収録された曲も、この思春期につくられた。『恋のスーパーパラシューター』は、ジミ・ヘンドリックスが米軍のパラシュート部隊として戦争へ行っていたことを知って作った。『ベルベットイースター』は、ミッション系スクールでのイースター復活祭や横田基地で体験したハロウィンパーティーなどが下地になっている。のちに『翳りゆく部屋』の前身となる『マホガニーの部屋』という曲も、学校のピアノ室で遊びながらつくった。

 

当時の荒井家には、家族ぐるみのつきあいをしていた一家がいた。父親は米軍兵士で、母親は日本人。由実のひとつ年下の娘がいて、日曜日になると荒井家の人々は、その家族と一緒に立川基地や横田基地に行く。由実はPXと呼ばれる売店のレコード売り場で、レッド・ツェッペリンなど新しい音楽を漁った。基地の中のLPはノータックスで約800円。普通のレコード店での3分の1の値段で買えた。



不良少女

由実の中学時代は、髪はショートカットでニキビもいっぱいあった。小学校のオール5だった成績は、上位ながらもさほどではなくなった。多くの附属校に言えることだが、中学入学組は内部生となかなかなじめない。それでも由実は、文化祭であるマーガレット祭などの校内活動をがんばった。また生活委員として学校側と交渉をおこない、紺色と決まっていたハイソックスを白色に変えさせ、それは今も継承されている。

 

音楽のほか絵も好きだった由実は、美大を目指すことに決めた。中学3年から家庭教師につき、いわゆる塾である、御茶の水美術学院へも通いはじめる。自宅のある八王子、学校のある三鷹台、美術学校のあるお茶の水。この三角形を往復する毎日が始まり、新宿や池袋のジャズ喫茶、あるいは六本木・飯倉界隈でも遊ぶようになる。ディスコへも頻繁に顔を出し、朝まで踊り続けて始発で家に帰り、何もなかったように学校へ行ったこともあった。父親とひでちゃんの不倫騒動がおこり、家にはいたくなかった。

 

由実の初恋は中学生のとき。76年発刊の週刊誌『 Mimi 』での対談によると、御茶の水美術学院でデザインの勉強をしている人だったという。一方結婚後の83年に出た、自著『ルージュの伝言』によると、中三のときに、同系列である立教高校生との交際があったという。彼がいわゆる初体験の人だった。しかし結局フラられた。このふたつの告白の相手が、同一人かどうかは定かではない。また同著では、「いろんな子とつきあっていた」と、奔放な関係があったことも示唆している。

 

ディスコではグループサウンズとも親しくなり、米軍基地で仕入れた海外の最新レコードを持つ由実は、メンバーたちの人気者になる。当時東京のレコードショップでも輸入盤は少なく、入荷にはタイムラグもあったが、PXではオンタイムで売っていたのだ。のちに由実のレコードをプロデュースするかまやつひろしや細野晴臣のほか、のちに共演することになる多くのミュージシャンとも、ライブスポットで由実は顔見知りになる。まだ15歳だった。

由実は、グループサウンズのひとつ『フィンガーズ』のファンとなる。裕福な家庭の子弟が集まった「慶応のボンボンバンド」と呼ばれ、メンバーには、早弾きで有名なギタリストの成毛滋や高橋幸宏の兄・高橋信之、そしてベースには中国人のC・U・チェンがいた。チェンとは特に親しくなる。のちにロサンジェルスなどで実業家として大成功するチェンは、由実を妹のように可愛がり、「ユーミン」と呼んだ。当時ムーミンが流行っていて、中国語で「有名」も意味していて、由実の愛称となった。チェンにはフィアンセがいて、由実は家にもよく遊びに行き、カップルから大きな影響を受けた。しかしチェンは大麻で捕まってしまう。妹と称し面会にも行った。疑われ警察の尾行がついたこともあった。学校からも厳しい指導を受けた。

 

 

 

作曲家


中高一貫の立教女学院高校に進学。ある日由実はチェンに、ピアノの弾き語りを吹き込んだ自作曲のカセットテープを渡す。これがのちの『ひこうき雲』で、聴いたチェンは衝撃を受ける。ピアノの旋律が美しく、風景を丁寧に描写した歌詞も素晴らしかった。15歳で書いたとは思えない出来だった。

チェンは由実を川添象郎に紹介する。川添は板倉の伝説的なイタリア料理店キャンティのオーナー川添浩史の長男。作家の三島由紀夫や映画監督の黒澤明、加賀まり子や大原麗子、石坂浩二や田辺昭知等の芸能人が集まるキャンティには、ザ・タイガースを辞めたばかりの”トッポ”こと加橋かつみも出入りしていた。六本木の女王ともいわれた川添の妻梶子は由実を可愛がり、加橋の世話もしていた。これらの縁で由美の録音テープは加橋に渡ることになる。

 

松任谷由実 「出会うべきタイミングで、出会うべき人間とめぐりあっていた。幸運だったと思うし、それもひとつの才能だったのかもしれない」。ディスコで夜遊びしていたときと同じように、夜、家中が寝静まってから楽譜を抱えて、八王子から四ツ山で中央線に乗り、四谷から一時間歩いてキャンティへ。始発で戻ってベッドに潜りこみ、寝ていたふりをして起き出し、平気な顔で登校していた。天才少女・荒井由実は、こうして自分の力で運命の扉を開けた。

70年の正月を過ぎたころだった。加橋は、アルバムのディレクター本田和治に、「高校生がつくったんだけど」と、由実の曲を入れることを希望する。加橋が流す録音テープから、繊細でスケール感のあるメロディが本田の耳に入ってきた。こうして由実の曲のレコード化が決まった。連絡を受けた由実は驚き、舞い上がった。追っかけをしていた、ザ・タイガースの加橋が歌ってくれるというのだ。

『愛は突然に』と名付けられた、その曲を加橋がレコーディングしているとき、作曲家の村井邦彦が耳にした。村井も加橋の同じアルバムに曲を提供していて、偶然スタジオに居合わせたのだ。村井はそのセンスの素晴らしさに驚き、加橋に由実の紹介を頼みこむ。村井はザ・タイガースの『廃墟の鳩』、ザ・テンプターズの『エメラルドの伝説』、トワ・エ・モアの『或る日突然』や『虹と雪のバラード』、赤い鳥の『翼をください』等、多くのヒット曲を手がけていた。村井は『愛は突然』のメロディを聴いて、アンニュイで繊細で、すぐ折れてしまいそうな青春のはかなさを感じた。

加橋の仲介で由実に会った村井は、「あなたには才能がある。ウチの作家になりませんか」と申し出た。ウチとは、村井と作詞家の山上路夫が設立した音楽出版社アルファミュージックのこと。由実は大学入学後に、アルファと作曲家の契約することになった。村井がそれまで一緒に仕事をしてきた第一線で活躍する同業者を見渡しても、この原石は誰とも比べようがなかった。

1971年4月発売の加橋のアルバム『愛は突然に』で、由実は17歳で作曲家としてデビューした。小坂忠デビューアルバム『ありがとう』にも、ピアニストとして参加している。

 

 

 

受験勉強

 

こうして音楽界に足を踏み入れた由実だったが、商家の聡明な娘が、不安定な職業に就く決意をするはずもなかった。まだ高校生であり、作曲やミュージシャンの仕事は本格的なものではなかった。中学時代から勉強してきた絵の才能を生かすため、由実は高校卒業後、東京芸大の日本画専攻に進むことを決める。日本画なら染色や友禅にも役に立つ。娘が着物デザイナーになれば家業にとって願ってもないことだ。両親も諸手をあげて喜んだ。もっとも油絵やデザインの学科は競争率が高い。日本画なら比較的低いという計算もあった。

 

現実的な進路選択を冷静におこなった由実は、高校2年から受験勉強を本格化させる。ディスコなどの遊びを一切絶ち、 その仲間はもちろん、チェンとも会わなくなった。絵の勉強は家庭教師についた。その橋本という先生は東京芸大大学院で日本画を学ぶ女性で、ストイックで妥協を許さない厳しい人だった。由実は彼女に鍛えられたおかげで、創作活動における強靭さを身につけることができた。そして道は異なるが、過酷な音楽の世界でも生き抜くことができたという。アルバム『コバルト・アワー』に収録した『卒業写真』のモデルは、橋本先生を男性に置き換えたものとされる。


 

 

大学入学

 

1972年、東京芸術大学を受けたとき、実技試験の監督教官が橋本先生の仲間だった。二日かけて課題を描くのだが、一日目の夜、「あの子、今日こういう風に描いていたわ」などの”報告”が橋本先生につたわり、「赤色を使った方がいい」などの”アドバイス”を由実は受けた。このおかげか実技は通ったものの、しかし芸大の夢は三次試験で潰えることとなった。落胆し、おいおい泣き、浪人すると言い張ったが、親に説得され、先に受かっていた第二志望の多摩美術大学美術学部絵画学科に入学した。

大学に通い始めた由実は、作曲家として三田にあったアルファの事務所に毎週のように顔を出し、曲を書きためていく。そこで村井は由実に、自分で歌ってみることを提案する。当初は由実を歌い手としてデビューさせる気はなかった。しかし曲そのものが新しいので、歌の表現方法も新しくする必要があり、あらためて彼女のデモテープを聴いてみると、歌い方がとても魅力的だと感じはじめたのだ。アメリカではキャロル・キングの『つづれおり』が大ベストセラーとなり、シンガー・ソングライターの時代が始まっていた。村井は由実を、日本のキャロル・キングにしようとした。

 

村井邦彦

「ユーミンには人生の機微というか、人生とは何かを考えているようなところがあった。それが曲に反映されていた。彼女の持ち曲が二十曲ぐらいになったころ、僕はユーミンの『声』に興味を持った。どちらかといえば低い声。迎合がないぶん品が生まれ、信頼感が感じられた」

由実はとまどった。自分で歌うなど考えたこともない。曲には自信があったが、歌うことが苦手で、自分は表に出るタイプではないと思っていた。しかし村井の申し出を断れば、自分の曲を発表するチャンスは二度とこないかもしれない。由実は自分で歌うことを決意する。未成年の娘が芸能界へ進むことに反対する両親には、村井やスッタフが八王子の自宅を何回も訪れ口説き落とした。



返事はいらない

村井は由実のデビュー曲の音楽プロデューサーに、友人でいつも新しいことに敏感な感性を持つかまやつひろしを起用。彼なら経験豊かで懐も深く、またロックにも詳しいので由実とうまくやってゆけると考えた。由実とかまやつは旧知の間柄でもあった。しかし当時33歳のかまやつの主導でレコーディングが行われるはずが、18歳の由実は、自分のビジョンをしっかりと主張した。

かまやつひろし
「ユーミンは僕たちでも聴いていないロックのレコードを聴き、単なるロックファンではなかった。子供のようなきれいな顔をして口数も少なくガラス細工みたいで、もしかしたら泣きながら詞を書いているんじゃないかと思ったぐらいです。そのころ僕たちの世界ってどちらかというと四捨五入で、気分で『いいね』とアバウトのところが多かったけれど、彼女にはまったく通用しないんです。自分自身で納得しないと、こっちが面倒くさいと思っていても、あらゆる角度から突っ込んでくる。ユーミンは妥協するっていうことが、その頃からなかった。僕は大変な人を引き受けてしまった。村井さんには悪いけど、正直、早く終わって欲しいと思ったし、このときは打ち解けないまま終わりました」

デビューシングル『返事はいらない』は、1972年7月に発売された。レコーディングメンバーに、ドラム高橋幸宏、ギター小原礼が参加している。初々しい西海岸風サウンドで、アコースティック・ギター中心のフォークタッチでありながら、あきらかにフォークソングではない、誰も聴いたことのないジャンルだった。ミュージシャンたちの間での評判は上々だったが、売れたのはわずか三百枚ほど。しかし村井は、人前で歌うことに抵抗感をもつ由実が、レコーディング経験で少しでも苦手意識が和らげばいいと、この結果をまったく気にしなかった。4年後の1976年、由実とかまやつひろしは、伝説となったTBSの番組『セブンスターショー』で、メインアーティストとして共演。ここで披露された名曲『中央フリーウェイ』は、由実がかまやつにプレゼントした曲だった。
 

 

アルバム

 

シングルの次はアルバムを出したい。村井は完成したアルファのスタジオで、レコーディングディレクター有賀恒夫とともに、由実のシンガーソングライターとしてのアルバム制作の可能性を探ることにした。アルファが新たに造った真新しいスタジオAで、由実は真新しいスタンウェイのグランドピアノに向かう。弾き語りで、『ひこうき雲』『雨の街を』『紙ヒコーキ』の3曲が演奏され、その歌声は緊張しているせいか時折かすれた。

有賀恒夫
「あまり声も出ていないし、歌は上手とは言えませんでしたが、曲はとにかくいいと思いました。曲はそれまでの誰とも全然違うなと感じたんです。村井さんと調整室で聴いていて、村井さんが『やってみようか』といい、僕は頷きました。それからユーミンは書き溜めた10曲を持ってきて僕は何回も楽譜を見直しましたが、作詞のどれもが彼女のそれまでの人生を凝縮したような少女の生き方みたいなものが描かれていました。語るような歌い方がそれまでのポップスの歌手たちとは違っていた。これは声質だとか歌う癖に魅力があったということです。しかし僕は商品にするまで相当なトレーニングが必要だと感じていました」

実は『ひこうき雲』は、雪村いずみのために由実が書き下ろしたものだった。雪村は大変気に入り、レコーディングをおこなった。しかし上手すぎた。最高の歌唱力をもつ歌手だったのだが、由実が訥々と歌う方が心にしみた。村井は由実本人のアルバムとして世に出すことにした。雪村は「とっても好きな曲。荒井由実さんのまっすぐで素朴な歌声にあこがれてます」と、90年、当時の音源のままの『ひこうき雲』を、自分のアルバムに入れている。



異なる音楽志向

村井は、由実のアルバムのプロデューサーを、最も信頼できるミュージシャン細野晴臣に依頼した。しかし村井が、演奏は細野率いるキャラメル・ママだと由実に告げると、「それはもう決定したことなのでしょうか」と悲しい顔を見せた。由実はブリティッシュロック志向で、キャラメル・ママがやっているウェストコーストサウンドは泥臭くて嫌いだった。だが村井はクオリティーの高い作品にしたい。細野のことは決定済みだと、由実に再度告げた。

レコーディングが始まる前、由実はキャラメル・ママの四人と顔合わせをした。このときがのちに伴侶となる松任谷正隆との初対面となった。細野、鈴木茂、林立夫とはすでに高校生のころ、六本木のディスコなどで顔見知りとなっていた。しかし由実にとっての問題は、音楽面だけではなかった。メンバーのいでたちは、あまりにもアメリカンだった。由実の頭の中にはプロコル・ハルムの『青い影』、キーボード奏者マシュー・フィッシャーの音色が鳴っていたのに、正隆はウェスタンシャツとウェスタンブーツ姿であり、ブリティッシュロックが大嫌いだった。

由実の大学1年の終わり頃から、レコーディングが開始された。キャラメル・ママのメンバーは各自のパートでそれぞれ個性を発揮した。コードとリズムの簡単な決めごとだけを譜面に書き入れ、あとは細野の「せ~の、ドン」で演奏をはじめた。その光景はまさしく村井が描いたキャロル・キングの、フリーなライブセッションのようなレコーディング風景だった。やがて由実もキャラメル・ママのサウンドに慣れ、両者は融合していった。

 

細野晴臣
「ユーミンは最初のころ、音楽的にすごく不安だったと思います。さらに僕らは取っつきにくかったタイプだったはずです。でも随分気をつかってくれ、よく冗談も言って、とてもおもしろかったのを覚えています」

 

林立夫

「ユーミンの曲は素晴らしかった。こんな曲が書ける人がいるんだって思いました。スタンダードジャズ、フレンチポップスやブリティッシュロック、すべてのジャンルの一番珠玉のエッセンスが次々と現れるんです。これはいけるって、演奏しながら僕らは目を合わせてにやにやしてしまって。彼女のメロディを聴き、歌詞を読んで、コードを追うのが宝さがしをしているみたいで楽しかった。ユーミンは歌詞に入り込みすぎないんです。一歩引いた語り部というか、映像的っていうのかな。シーンを俯瞰する歌い方だから、リスナーは曲の中に自分を置くことができる。シンガーソングライターゆえの作家性もあって絶妙だった」

 

松任谷由実

「キャラメル・ママとは、新宿西口のビルの中にあった、ヤマハのスタジオでリハーサルをしたの。5人で車座に座って、弾き語りのデモ・テープをもとにヘッドアレンジしていった。何小節目から入るとか、簡単に打ち合わせして、何度か演奏して決めていった。そのころわたしはブリティッシュぶりっこだったから、最初は音のとり方が違う気がしたけど、だんだん自分の声と合わせるのは、こういうサウンドかもしれないと思うようになった。私の曲は、コード進行が何者でもなかったりするでしょ。ジャジーなところがあっても本当にジャズをやっている人にとってはジャズじゃないし、フォークのようでもフォークじゃない。そのとらえどころのなさと、キャラメルママのとらえどころのなさが、別物なんだけど、うまくあったんじゃないかしら。同時代的にキャラメル・ママのような人たちと出会えたのは、ほんとうに幸せだったわね」

 

 

 

難航

 

しかし上の証言は、あとから語られたもの。アルファのスタジオで始まったレコーディングでは、由実のボーカル録音に対して、ディレクターの有賀が手厳しかった。キャラメル・ママの録音はスムーズに終わるのに、由実ひとりがターゲットとなり、どんよりした重たく張り詰めた空気がスタジオに漂うことになる。


有賀恒夫
「レコードはずっと残るものだから、完璧に近いものを作っていくべきという村井さんの考えがあり、それは任されたディレクターの責任でした。彼女はその時まだプロじゃなかった。作品には文句はなかったけれどでも、歌の歌い方、特に音程がバラバラになるのは許さなかった。歌を3テイクぐらい録音して、いいところをピックアップしてテープをつなぐ。しかし彼女はそれでは自分の気持ちがつながらないという。スタジオの片隅で泣いていることもありました」

 エンジニア 吉沢典夫
「歌は時間がかかりましたね。 ユーミンから『何とかしてください、吉沢さん』って相談されたこともあったけれど、でも僕から有賀君には言えないですよ。有賀くんは本当に厳しかった。ユーミンは長い間よく頑張ったと思います」

キャラメル・ママのメンバーも、録り直しを繰り返す有賀を見かね、「有賀さん、ユーミンの声の震えはシンガーとしての持ち味だから、これは活かした方が思いますけれど何度も繰り返していると、そのうちハートがなくなっちゃうような気がします。僕たちはその場の雰囲気を大事にしたい」と由実を擁護した。しかし有賀は少しも表情を変えず、「アルバムはずっと残るもんですから、ストレートに歌って下さい」と、一歩も譲らなかった。

有賀や吉沢がいいと思っても、今度は村井が「ミックスのバランスが悪いね」などとやり直しを求める場面もあった。ついに社内の制作会議で「完璧なものが仕上がるまで、荒井由実のアルバム出さない」と村井が断言し、大幅に遅れたスケジュールは完成日を設定しないことになった。自社スタジオを使用していることから経費面では多めにみられていたが、出口の見えないトンネルに入ってしまったレコーディングに、不安に駆られた社員も多かった。じつはアルファに属していたガロの人気に陰りが生じていた。赤い鳥も解散が取り沙汰されていた。だれか新しいスターを出さなくてはいけない。村井は由実というルーレットの目に全財産をはっていた。「いい音楽は必ず他にお金に換算される」と信じていた。


歌入れで苦労して最後に残った曲は『雨の街を』。由実は、この歌がいまでも一番好きだという。しかしレコーディングではうまく歌えず、苦しい日々が続いていた。今日こそはOKをもらおうとスタジオに入ると、ピアノの上に牛乳瓶にさした赤いダリアの花が1輪だけ無造作に飾られ、そこだけスポットライトがあたっていた。レコーディングの途中から付き合いが始まった正隆だった。前日に由実と井の頭公園を散歩しながら、「ダリアが好き」と聞いていたのだ。この日、『雨の街を』を歌い終えることができた。



ひこうき雲

1973年の初秋、『ひこうき雲』のレコーディングはようやく終了。アルバムジャケットのデザインアイデアは本人によるもので、教会音楽に影響受け、中学の頃から好きなドイツのクラシックレーベル、アルヒーフレコードを模してデザインされた。アフヒーフ(ARCHIV)のところを、アルファ(ALFA)のロゴに入れ替えていたのだが、後から問題になり途中から消された。インナーには、少女をモチーフとしたエッチングを自分自身が描いている。

 

『ひこうき雲』は荒井由実の十代の思い出が詰め込まれ、十代最後に作られた作品となった。自身のヨーロッパ音楽志向に、あれほど嫌ったアメリカの泥臭さがブレンドされ、おもしろいものができたと由実はのちに語っている。またこのアルバムには、『ひこうき雲』がオープニングとエンディングに2曲入っている。エンディングで歌われているものは、オーディションのときに有賀が調整室でテスト録音していたもので、これを残そうと取り入れたのは、有賀の考えだった。

有賀恒夫
「ユーミンとはアーティストとディレクターとしてかなり闘った思う。彼女には悲しい思いもさせたけれど、とにかく一生懸命でした。ずいぶん経ってから、ユーミンがストレートに歌うってことを有賀さんに教えてもらってよかった、という話をどこかで聞いたことがあります」

レコーディングから三十余年経って、NHKの番組収録で由実と有賀は再会。番組内で由実は、感謝の意を有賀にあらわしている。


1973年11月、ファーストアルバム『ひこうき雲』リリース。

 

 

C・U・チェン

 

 「あれはまだ、彼女が15歳の頃、初めて会った彼女はおかっぱ頭で顔中にニキビのある、あどけない少女でした。でも当時から彼女は自分の曲を作っていたし、その完成度や新しさには光るものを感じていました。彼女は僕がいたバンドのコンサートにもよく遊びに来ていました。ある日、楽屋で『由実ちゃんは将来、何になりたいの?』と聞いたことがあったんです、すると、彼女は『私、有名になりたい』と決意した表情で言うんです。僕は思わず『そうか、有名って、僕の母国語の中国語ではユウミンって読むんだよ。ちょうど、童話のムーミンが好きな由実ちゃんの名前とも音が似ているね』と返しました、あのときこそ、彼女の愛称『ユーミン』が生まれた瞬間でした」

 

「『ひこうき雲』は、人の死をとりあげながらも、重々しくないメロディーとアレンジが印象的です。当時の彼女は純粋に、真剣に自分の人生や将来をみつめていた。だからこそ命をテーマにしたあの曲を書いたんじゃないでしょうか。最先端のスタジオに最高のミュージシャンが集まり、好きなだけ時間をかけて作ったからこそ、あれだけの作品になったんでしょうね。レコードが完成した後、ユーミンはわざわざ僕の家まで届けてくれたんですよ。『これ作ったのよ』って。とてもうれしそうだった」

 

 

 

『荒井由実ヒストリー』

 

 

 

 

日本を代表するクラシックの作曲家、團伊玖磨が書いたエッセイ集『好きな歌・嫌いな歌』には、『ひこうき雲』の一節があります。團はここで、絶賛と言っていい評価をアルバム『ひこうき雲』に与えています。荒井由実のファンならご存じの方は多いと思いますが、その一文を、最後に引用させていただきます。

 


息子のレコードが積み重なっているダンボールの箱の中を掻き廻していたら、リンゴの印の付いたおびただしいビートルズのレコードに混じって、HIKOKI GUMOというレコードを見付けたので、それを聴いてみて吃驚した。とても良いからである。 

 

荒井由実という若い娘が歌っていて、ジャケットにも何にも書いてないのでよく判らないのだが、歌もピアノも作詩も作曲も全部彼女がしているらしい。 先ず詩が良い。第一曲の「ひこうき雲」を聞いて僕はそう思った。第二曲以下、このレコードには全十曲が入っていて、その全部を聞いて、僕は重ねてそう思った。それと同時に、メロディーに不要な装飾が無く、その事が詩を生かすのだと言う事も気付いた。

 

 この娘の上にはいつも曇り空が拡がっていて、どの歌からも、クールな、現代の無愛想さが、不思議なリリシズムとなって流れて来る。そして、よく聴いていると、一見無愛想に動くような動かないようなメロディーが 、単に決して無愛想なものでは無い事が感じられて来る。何でも無いように感じられて、何でもあるのだと感じるのは僕だけであろうか。

 

何回か聴いてみて一番良いのは矢張りこのレコード全体の名前にもなっているだけに「ひこうき雲」なのかも知れないと思った。この歌は、ルフランを持っていて、二度目のルフランの最後の盛り上げが、常識的にではあるにせよ、印象的である。 

 

 "空に憧れて 空をかけてゆく あの子の命はひこうき雲 " 

 

もう一つ「紙ヒコーキ」という、紙ヒコーキにあてどない愛の言葉を走り書きして曇り空に放す、という歌も、何でも無いのに何でもあって、良いと思った。 

 

正直のところ、荒井由実という女性がどういう人か僕は全然知らない。然し、これらの歌は僕を惹き付けた。こういう関係こそ、音楽とそれを聞く人間との一番純粋な段どりだと思う。僕はこのレコードが、いつから息子のレコード箱の中にあったのかも知らない。古くからあったのか、最近のものなのか、それも知らない。

 

沢山の歌が出来、沢山の歌が街を流れ、そして消えて行く。然し、その中に、ぎょっとする宝物が流れている事があるのを、聞き過ごしてはいけないのだ。僕は、このレコ ードを聴いて、小さな宝物を見付けた事を幸福に思った。


 

 

 

続編となる、荒井由実ヒストリーⅡ ~ デビューからブレイク 結婚まで ~ 松任谷由実前史 をアップしました。

 

著名な作詞家松本隆は、松任谷由実との共作も多いのですが、その誕生からはっぴいえんど時代に至る軌跡を綴った、松本隆ヒストリーもアップしました。