【主な乗り物:夜行高速バス「アルペン長野」号、「山陰特急バス」大阪-鳥取線・大阪-米子線、夜行高速バス「ドリーム堺」号】
午後10時を過ぎると、長野バスターミナルを出入りする路線バスはめっきりと減って、広い構内は暗がりに包まれていた。
日中でも、このターミナルを出入りする路線は多くないのだが、ターミナルビルの1階に出札窓口や幾許かの店舗も備え、乗り場もきちんとしているから、子供の頃から勿体ない、と思っていた。
長野バスターミナルが開業したのは昭和42年である。
長野駅前や中央通りの繁華街から数百メートル離れたバスターミナルのある岡田町は、八十二銀行本店やNBS長野放送などが建つビル街と住宅地であり、人の往来は決して多くない。
市内や近郊から長野駅を行き来するバス路線のうち、経路上でバスターミナルを通る篠ノ井、松代、高府、山清路方面の路線は別として、他の路線は長野駅止まりが多く、一部の便がバスターミナルまで足を伸ばしているに過ぎなかったので、まるで車庫のような使われ方であった。
これから乗車する大阪梅田行き夜行高速バス「アルペン長野」号は、長野バスターミナルを始発として、長野駅前を経由する。
バスターミナルから乗る客は数人程度だったが、長距離夜行高速バスの起終点として、路上に設けられている長野駅前停留所より、長野バスターミナルの方が相応しい風格が感じられたのは、僕の判官びいきだろうか。
夜更けの長野バスターミナルの寂しい佇まいに怯んだとは言え、僕は、旅立ちを前にして興奮が抑え切れない。
平成元年12月に、長野と梅田を結ぶ「アルペン長野」号、松本と梅田を結ぶ「アルペン松本」号、諏訪・岡谷と梅田を結ぶ「アルペン諏訪」号、駒ケ根・伊那と梅田を結ぶ「アルペン伊那」号、飯田と梅田を結ぶ「アルペン飯田」号、そして長野・須坂・中野・湯田中・志賀高原の蓮池と難波を結ぶ「サザンクロス」号・「ナガデンエクスプレス」号と、大阪と信州各地を結ぶ高速バス6路線が一挙に開業したばかりである。
その年の歳末に、僕は難波発の「サザンクロス」号で帰省し、年明けに「アルペン長野」号で折り返す計画を立てていた。
高速道路が未開通で、高速バスなど無縁と諦めていた故郷長野市に乗り入れた初の県外夜行高速バスであり、長野県内各地に一斉に路線を展開した経緯など、「アルペン長野」号は、僕の心を鷲づかみにした。
実家に配られた信濃毎日新聞の折り込みに「アルペン長野」号の広告が混ざっていて、
「またひとつ新しいバスの旅が始まりました」
とのコピーを目にした時には、よし、よくやった、と拍手したくなった。
前年の秋こそ冷え込んで、初雪の早い地域があったものの、その後は記録的な暖冬になり、長野市内も殆んど雪がなく、東京より気温は低いのだろうが、屋外でバスを待っていても、大して寒くはなかった。
「アルペン長野」号が長野バスターミナル構内の乗り場に姿を現したのは、発車する22時30分の10分ほど前だった。
ツイてるぞ、と思う。
この夜の梅田行きは馴染みの川中島自動車の担当で、緑の濃淡のラインを織り混ぜた塗装だった。
僕が物心ついた頃から、同社のバスは緑一色の地味な外観で、後に白線が入ったものの、昭和60年代に緑のグラデーションの新塗装を採用し、同社で初めての高速バス「みすずハイウェイバス」も同じだった。
程なくして、現在の「Highland Express」カラーに変更されてしまったので、思えば貴重な時期に「アルペン長野」号を体験できた訳である。
僕は、新しい配色を格好いいと思っていたので、数人の利用客が乗降口に並んで改札を受けているのを横目に、大急ぎで何枚かの写真を撮影した。
あいつ、バスマニアか、と悟られたくなかったので、シャッターを押しながらも、改札をしている運転手の視界に入らないよう気を遣ったものである。
当時、僕が愛用していたカメラは、子供の頃に買って貰ったハーフサイズのオリンパス一眼レフと、親が使っていた古いアサヒペンタックスを譲り受けたもので、装着するフラッシュを持っていなかったので、夜の撮影に難があった。
「アルペン長野」号に乗車するにあたって、昭和61年に売り出された使い捨てレンズ付きフィルム「写ルンです」のフラッシュ付きの機種を初めて購入し、これで夜の撮影もバッチリだぞ、と悦に入っていたのである。
現在のデジタルカメラと違い、写り具合がすぐにチェックできる時代ではない。
今回の旅を終えて、写真屋に現像を依頼し、出来上がったプリントを目にした時には、心底がっかりした。
「写ルンです」のフラッシュは光量が弱い、という教訓に打ちのめされるような出来映えで、これでは「写ランのです」ではないか。
車内に整然と並ぶ横3列独立シートに腰を下ろしてみると、身体をふんわりと包み込むような感触が、実に心地よい。
緑色の布地のシートを見れば、小学生の遠足に始まり、川中島自動車に何度も世話になった思い出が脳裏に蘇り、懐かしさが込み上げてくる。
川中島と言えば古いバスが定番であったので、「アルペン長野」号の座り心地は、まさに頂点を極めたと言って良い。
大阪まで459.2km、6時間50分の夜の旅を、この席で過ごせると思えば、胸が高鳴った。
改札を終え、車外で何やら話し込んでいた2人の運転手が乗り込んで来ると、「アルペン長野」号はゆっくりと動き出した。
時計を見ると22時30分、定刻である。
バスは、ターミナル南通りに左折し、1~2分走ったかと思うと、長野駅舎と正対する川中島自動車の駅前営業所に停車した。
どやどやと乗客が乗り込んで来て、ほぼ席が埋まった。
横3列独立席を初めて見るのだろう、ほう、と感心した表情で立ち止まる乗客も見受けられる。
「大丈夫、いいバスよ!今度はお盆に帰るからね!」
と、窓の外に笑顔で手を振る女性客がいたが、窓が閉まっている車内の声が届いたかどうか。
駅前に掲げられた「国宝 善光寺参道」のアーチの下をくぐり、末広通りからターミナル通りに出た「アルペン長野」号は、岡田町交差点で国道18号線に左折し、続いて問御所交差点を右に折れて国道19号線に入り、裾花川の橋梁を渡った。
数十分前に実家の玄関先で別れたばかりの母の顔を思い浮かべながら、川の上流にある実家の方角に、行ってきます、と頭を下げた。
東京に戻るというのに、大阪に寄り道する行為が後ろめたかったけれども、東京に着いたら頑張らねばなるまい、と思う。
長野バスターミナルでは案内がなかったが、バスが国道19号線を滑らかに走り始めると、交替運転手がひょっこりと前方に顔を出して一礼した。
『バスは、これより豊科ICから長野道、中央道、名神高速で大阪まで参ります。大阪梅田の到着は明朝5時20分を予定していますが、道路混雑や天候により、遅れが生じることもございますので、御了承下さい。途中、乗務員交替のために何ヵ所かで停車して参りますが、皆様は外に出られません。トイレは車内中央の右側にございます。トイレの入口に、コーヒーと紅茶、冷水とお湯のサービスがございます。熱いお湯が出ますので、コップは必ず蓋を閉めて下さい。バスが揺れますので、車内の移動は充分にお気をつけ下さい。この先、信州新町に停車した後に消灯させていただきます。御用のある方は、頭の上の読書灯を御利用下さい。それでは、明日の朝まで、ゆっくりとお過ごし下さい』
「アルペン長野」号が開業して1ヶ月あまり、まだ夜行便に慣れていない運転手も少なくないのであろうが、この夜の案内は、立て板に水を流すようだった。
ひそひそ声で話していた2人連れの女性客も、案内の後は静かになり、背もたれを倒して備えつけの毛布を被る姿も見受けられる。
僕も、いったんリクライニングを倒したものの、子供の頃から何度も行き来した国道19号線を、夜行高速バスで走っている感触が嬉しくて、なかなか寝つけなかった。
カーテンを締め切っていても、左、右とカーブが連続するのは小市団地を過ぎて犀川の河畔に出るところだな、とか、このトンネルは小田切ダムの手前の両郡橋を渡った犬戻トンネルか、などと、車体の揺れだけで、見慣れた沿道の光景が瞼の裏に浮かんでくる。
明治橋を渡り、崖っぷちの笹平の集落を挟んだ登り坂と下り坂を過ぎれば大安寺橋で、右手の山に父が眠る墓があることまで思い起こされる。
発車して30分ほどで信州新町の営業所に停車したが、乗ってくる客はいなかった。
その先は、走り方で何処にいるのか分かるほどの馴染みではないが、それでも、久米路橋や山清路など、印象深い車窓が自然と心に浮かぶ。
日付が変わり、豊科ICで長野自動車道に入って、見違えるようにバスの速度が上がる頃に、ようやく眠りに落ちたような気がする。
夢かうつつか判然としない時の流れに身を任せながら、大阪に向かっているのだな、と幸せな気分に浸っているうちに、不意に、ほろ苦い記憶が蘇ってきた。
僕が、初めて県外への1人旅を経験したのは、大学浪人が終わろうとしていた昭和60年の春だった。
第一志望の国立大学の受験に失敗し、当時、国公立大学医学部で唯一となる二次募集をしていた鳥取大学に応募するために、長野から往復したのである。
長野駅を23時29分に発車する夜行急行列車「ちくま」で、7時45分着の京都駅まで一夜を過ごし、9時16分発の山陰本線の特急「あさしお」に乗り継いで、13時03分着の鳥取へ向かった。
復路は、鳥取16時40分発の播但線経由の特急「まつかぜ」6号から、大阪21時30分発の「ちくま」に乗り継いで、長野着が5時24分という強行軍であった。
受験という切羽つまった状況にも関わらず、初めての遠方への1人旅に、内心浮かれていたのは確かである。
「ちくま」は20系寝台車を連結していたけれど、もちろん、そのような贅沢は許されず、行きも帰りも自由席で一夜を明かした。
12系座席車の固いボックス席に身を縮めていると、出発前の浮かれ気分はするすると萎んでしまい、これからどうなるのか、という不安を、窓ガラスに映る自分の姿に繰り返し問いかけるような、長い夜になった。
朝の京都駅1番線を発車したディーゼル特急「あさしお」1号は、エンジン音を轟かせながら、嵯峨野の鬱蒼たる竹藪を抜け、木津川の渓谷の崖っぷちを走った。
進めば進むほど鄙びていく山陰の風景を初めて目にした僕は、夜の不安も忘れて、車窓に目を奪われっ放しだった。
城崎温泉を過ぎると、右手の車窓いっぱいに広がった紺碧の日本海に、心が洗われた。
余部鉄橋の目もくらむ高さに度肝を抜かれ、眼下の入り江に身を寄せ合う、古びた集落の慎ましさに、胸が詰まった。
夜行急行「ちくま」は、それまでも2度ほど利用したことがあった。
小学4年生の京都への家族旅行で、キハ58系ディーゼル車両の「ちくま」の座席車で一夜を過ごしたことがあり、数年後の京都への家族旅行では、寝台車と座席車が連結された「ちくま」で、生まれて初めての列車寝台を経験したのだが、最も鮮烈な記憶として心に刻まれているのは、「アルペン長野」号に乗る5年前、浪人時代の足掛け2泊3日に及ぶ汽車旅だった。
結局、鳥取への往復は徒労に終わったのだが、もし合格していたならば、僕の人生はどのように変わったのだろうか。
もちろん国公立大学に合格していれば、それに越したことはないのだが、東京の大学で得た経験や、何よりも友人たちや先生方のことを思えば、これで良かったのだ、と思う。
途中の開放休憩もなく、「ちくま」の一夜とは比較にならない程よく眠ったので、目を覚ました時に「アルペン長野」号が何処を走っていたのか、全く覚えていない。
早暁4時46分に到着予定の名神高槻バスストップより前でないことは確かで、案内があったのか、停車したのかすら定かでない。
5時04分着の千里ニュータウンと5時14分着の新大阪駅のあたりで、まだ真っ暗な窓外にぼんやりと目を向けていたような記憶もあるが、他の高速バスと混同しているのかもしれない。
確かなのは、定刻5時20分より早めに到着した梅田三番街のバスターミナルに降り立ち、固くシャッターを閉ざした商店街を見回しながら、長野からの旅が呆気なく終わりを告げたことに、呆然としていたことである。
旅が楽しければ楽しいほど、反動が一気に襲い掛かって来る。
東京へ向かわなければならないのは分かっているけれど、まだ、日常に戻りたくない。
昭和54年に発表されたBOROの「大阪で生まれた女」が思い浮かぶ。
たどりついたら1人の部屋
裸電球をつけたけど又消して
あなたの顔を思い出しながら
終わりかなと思ったら泣けてきた
大阪で生まれた女やけど 大阪の街を出よう
大阪で生まれた女やけど あなたについて行こうと決めた
たどりついたら1人の部屋
青春に心をふるわせた部屋
「たどりついたら1人の部屋 裸電球をつけたけど又消して」のフレーズは、東京のアパート住まいの僕の心に切なく浸みた。
贅沢が許される身分でないことは重々承知しているが、大学が始まるのは翌日であり、もう少し現実逃避を続けたかった。
だからと言って、往路で難波発の「サザンクロス」号を待った時のように、当てもなく大阪を彷徨うのも気が進まない。
三番街のバスターミナルからJR大阪駅に向かって歩き始めると、途中の阪急梅田駅では、どこから湧いてきたのかと驚くほど人通りが増えていたが、無粋な日常そのものの光景であるから、何となく疎ましい。
大阪での時間の過ごし方が上手ければ、これほど鬱々たる気分にならないのだろうが、あいにく、それほど要領良く人間が出来ていない。
夜ならば飲み屋の暖簾でもくぐるところかもしれないが、朝から飲むのはさすがに憚られるし、行きずりの客や店員と気軽に会話を楽しむ積極性も、持ち合わせてはいない。
酒と旅はよく似ていて、どん底に落ち込んだ気分を魔法のように引っ張り上げてくれる、という作用は期待できない、と思っている。
鉄道好きなのだから、大阪近辺の未乗線区を乗り潰すのも一案である。
けれども、出勤のラッシュが目前という時間帯であり、混雑した電車に揉まれて何が楽しいのか、と思う。
日常生活できちんと地に足をつけた人々に囲まれれば、自分はいったい何をしておるのか、と侘しさが募るばかりだろう。
僕は、ふらふらと大阪環状線に乗り、弁天町駅で降りた。
初めて足跡を記す街である。
改札を出れば、阪神高速西大阪線と大阪港線が街路に覆い被さるように十文字に交差して、昼間でも薄暗く感じる。
加えて、大阪市営地下鉄中央線がJR環状線の上を跨いでいるのは、弁天町の地盤が悪く、地下鉄を掘削できなかったためと聞いたことがある。
周辺には古びたオフィスビルやアパートが見えるだけで、店舗と言えば駅前のコンビニエンスストアしか見当たらず、次々と駅舎から通勤客が吐き出されてくるものの、何処か殺伐とした雰囲気だった。
平成5年に高さ200mの「ORC200」が建設される前の時代だったが、高層ビルがなくても、弁天町の空は狭かった。
突飛な思いつきであるが、大阪で時間を潰すくらいならば、「山陰特急バス」で鳥取を往復してみよう、と思う。
5年前の苦い記憶を、焼き直したかったのかもしれない。
高速バスに乗るためには、乗り場がある街に出向く必要があるのは当然である。
大阪駅であろうが、梅田や難波だろうが、そして弁天町であろうが、出掛けることを厭うものではない。
日本交通の弁天町バスターミナルは駅から程近く、決して不便ではないけれども、どうして、繁華街でもないこの街を選んだのだろう、と首を傾げたくなった。
大正15年に大阪で澤タクシーを立ち上げ、昭和16年に日本交通に発展させた創業者は、太平洋戦争の終戦直後から、京都-大阪-神戸-鳥取-倉吉-米子-松江-出雲の間を長距離バスで結ぶ構想を持っていたという。
ところが、申請しても、この距離を運行するバス路線の前例がないことを理由に、15年間に渡って繰り返し却下され、ようやく、昭和41年に大阪-神戸-鳥取-倉吉-米子を結ぶ1日2往復の「山陰特急バス」として認可に漕ぎ着け、その時の起終点が弁天町だったのである。
同じ年に、日ノ丸自動車が梅田-神戸-若桜-鳥取間の「大阪特急バス」を1日2往復で開業し、昭和43年に両社とも昼行2往復・夜行1往復に増便したが、昭和46年に日ノ丸自動車の路線は廃止されている。
日本交通の路線は増便を重ね、昭和56年に、昼行便は弁天町-梅田-神戸-若桜-鳥取-倉吉系統と、弁天町-梅田-神戸-根雨-江尾-米子系統に分離され、昭和58年に鳥取・倉吉系統が智頭経由に変更されて、現在に至っている。
そこだけぽっかりと広くなっている日本交通バスターミナルの窓口で、7時ちょうどに発車する鳥取行き「山陰特急バス」の乗車券と、併せて復路の乗車券も購入した。
座席が空いていたのは幸いと言うべきで、早朝の下り便だからそれほど混んでいないだろうと高を括っていたのだが、横3列独立席を8割方埋めて、バスは発車した。
直前の購入にも関わらず、窓際席が手に入ったので、ツイてるぞ、と嬉しくなる。
大阪を朝に出発する高速バスに乗るのが、これほど清々しいとは思わなかった。
我が国随一の商都が目を覚まし、人々が一斉に動き出す朝の光景を、先程梅田で目にした時にはうるさく感じたが、バスの窓から見ると元気を貰っているような気分になったのだから、僕も余程のバス好きである。
東京を発つ高速バスの窓から、住み慣れた街の景観を見直すのも楽しいけれど、大阪発の高速バスの車窓に映るのは、最初から異郷の街並みであるところも良い。
「山陰特急バス」は、国道43号線の伝法大橋で淀川を渡り、更に中島川、左門殿川を渡って、尼崎東ランプで、右手から合流して来た阪神高速3号神戸線の高架に駆け上がった。
当時の「山陰特急バス」は、弁天町から梅田に寄る便と神戸に寄る便があり、僕が乗る便は、神戸三宮駅経由で鳥取を目指す。
元々の構想で三宮を経由する計画であったことを踏まえると、「山陰特急バス」が、大阪と神戸を湾岸沿いに直結する国道43号線に面した弁天町を起終点にした理由も理解できる。
阪神高速の両側は防音壁が視界を遮り、背の高いビルが連なっているが、左手には大阪湾、右手には六甲山地が垣間見えることもあった。
生田川ランプで高速を降り、三宮駅前で数人の乗客を加えた「山陰特急バス」が、神戸市街北方の山中を貫く中国自動車道に至った経路は、よく覚えていない。
おそらく、神戸の市街地を南北に突っ切り、六甲山地の麓にある山陽新幹線新神戸駅の脇を通って、新神戸トンネルに潜り込んだのではないか。
昭和51年に完成した新神戸トンネルの全長7.9kmとは、中央道の恵那山トンネルに匹敵し、市町村道で最も長いと聞いたことがあるので、ワクワクしたけれども、中に入ってしまえば、最初はどえらいモノを造ったものだと圧倒されても、そのうちに、早く出口に着かないかな、と思うようになる。
新神戸トンネルを抜ければ、 跳ね回るような陽光が眩しく目を射った。
すぐ先の箕谷ランプで、バスは県道15号神戸三田線・有馬街道に降り、神戸電鉄有馬線と絡み合いながら、山あいを北東へ進む。
車窓は山、山、山で、谷間の狭い平地に住宅地がひしめいている。
港町神戸の背後は、これほど山深いのか、と驚いてしまう。
現在は阪神高速7号北神戸線が並行して走っているが、当時は未開通で、唐櫃南ICから六甲北有料道路で北へ進路を変えたバスは、神戸三田ICで中国道下り線に合流して、ようやく本格的に速度を上げた。
吹田JCTと下関JCTを結ぶ総延長540.1kmに及ぶ中国道が、中国地方の中央部を東西に貫く形で開通したのは昭和58年のことで、昭和の終わりから平成の初頭にかけて、大阪以西へ向かう高速バスは、全ての路線が中国道を経由していた。
高度経済成長期の昭和37年から、数次に渡って策定された全国総合開発計画では、「中国地方においては、高速道路網の東西軸は1本のみを建設する」と決められていたため、山陽・山陰両地方からほぼ等距離になるよう中国山地に建設され、曲線や勾配が多い線形を余儀なくされた。
僕が初めて中国道を走ったのは昭和60年のことで、大阪駅と津山駅を結ぶ国鉄「中国ハイウェイバス」であった。
東京を起点とする高速道路を経験したことしかなかった僕にとって、中国道の車窓は、物珍しかったけれども、至極退屈に感じられた覚えがある。
中国山地で最も古い歴史を持つ地層は、日本列島が海の底だった約3億年前の古生代石炭紀に、アジア大陸東縁に形成された秋吉帯と呼ばれる海底堆積物とされている。
秋吉帯は古生代末期から中生代初期にかけての秋吉造山運動によって陸地となったものの、次第に沈降して再び海底となり、約1億年前の中生代後期に入ると、マグマの上昇を伴う佐川造山運動により、再び隆起する。
この造山運動で火山活動が激しくなり、現在も中国山地を広く覆っている花崗岩は、マグマを主体とする火砕流の堆積物が冷却されたものである。
河川による侵食作用や風化を受けやすい花崗岩が削られて、小規模な起伏や段丘が多い準平原地形が主体の中国山地が誕生するのは、約6000万年前の後期中新世とされている。
中国山地の最高峰は兵庫県と鳥取県の境に聳える標高1510mの氷ノ山で、その他は、高くても標高1000~1300m程度、大半が標高200~500mという比較的低い山で構成されていることが、中国山地の特徴である。
西日本の最高峰である石鎚山は四国にあり、中国地方で最も高い大山も、中国山地から北に外れた独立峰である。
奥羽山脈が形成されたのが約800万年前、3つの日本アルプスを含む中部山岳地帯が200万年前、それよりも古い四国山地や九州山地ですら2000万年前に形成されたものであり、中国山地は、日本列島の他の地域と比べれば、飛び抜けて古い地形と言える。
いきなり箱根や高尾の山岳地帯に足を踏み入れる東名高速道路や中央道、もしくは行けども行けども関東平野が終わらない関越自動車道や東北自動車道、常磐自動車道とは、大いに趣を異にする穏やかな始まり方で、どこまで進んでも、猛々しく変化に富んだ景観が少なく、老成された印象を受ける。
それだけ関東平野を取り囲む地形が峻険ということであろうが、遙々乗りに来たのに中国道とはこの程度か、と拍子抜けした。
平板であるのは否めないが、東京で忙しさに追われる生活よりは、遥かに貴重なひとときである。
睡魔が襲って来ても、バスは鳥取に向けて一途に走り続けている。
何という文明の進歩、何という贅沢な時間であろうか。
冬らしく色褪せた野山の緑が、優しく心に浸みる。
山あいに敷設された鉄道や道路は、河川が削る地形を巧みに利用している場合が少なくないのだが、地図を見る限り、中国道が大きな川に沿っている区間は、全く見受けられない。
ハイウェイは段丘状に傾斜している山の斜面を回り込み、時折現れる平坦部も、中国道と直角に交差して南北に流れる河川が切り拓いたものである。
中国山地の花崗岩は、風化して真砂(マサ)と呼ばれる砂粒状の地質に変化し、河川に運ばれて瀬戸内海や日本海に流れ出し、白砂清松の美しい砂浜や砂丘を産む。
一方で、真砂の地盤は不安定で、土砂崩れを惹き起こしやすいと聞く。
中国山地に人間が住み着くようになったのは旧石器時代とされ、縄文・弥生時代を経て古墳時代に至ると、大陸から我が国に製鉄技術が伝来するのと同時に、花崗岩に含まれる磁鉄鉱を利用した製鉄が始まったものと推察されている。
平安時代に、原料が磁鉄鉱から砂鉄に替わり、中国山地を舞台とする映画「もののけ姫」にも描かれた「たたら製鉄」に発展する。
川底の砂から砂鉄を掬い取り、粘土製の炉に薪をくべて純度の高い鉄を製造する「たたら製鉄」が盛んになるにつれ、木々が大量に伐採されたため、中国山地には「毛無山」と名づけられた山が多い。
中国山地に水田が開かれたのは近世になってからで、江戸時代までの主産業は製鉄だった。
太平洋戦争後に、我が国では製造業が著しく発展したが、中国山地は平地に乏しく交通が不便であることから、高度経済成長期を迎えると、若年層を中心に山陽や京阪神、首都圏への人口流出が増え、過疎化と高齢化が大きな問題となる。
中国山地の花崗岩から成る地質を流れる河川は、浸食により居住や耕作が可能な平地を形成し、貴重な資源を供給する恵みの母であった。
滝野社IC付近では加古川、福崎IC付近では市川、山崎IC付近は揖保川、佐用ICでは佐用川と、めぼしい河川を渡る前後に決まって大きな町が姿を現し、インターが設けられている。
どれも中国山地に源を発し、南の瀬戸内海に流れ込む川ばかりである。
陰陽どちらにもアクセス出来るように建設されたとは言え、中国道は、中国山地の脊梁よりも少しばかり南側に偏っていることを実感する。
なだらかな山嶺に囲まれた安富PAで休憩が取られ、爽やかな空気を存分に胸に吸い込んでから、佐用ICで国道373号線に降りた「山陰特急バス」は、佐用川流域から吉野川流域に渡る峠で県境を越え、鳥取県大原町に足を踏み入れた。
因幡街道の宿場町として発展してきた大原町は、平成の大合併で美作市に含まれてしまったものの、宮本武蔵の生誕地として知られ、平成6年の智頭急行線の開業時に、我が国では珍しく人名を冠した宮本武蔵駅が置かれることになる。
高校1年のクラスの担任だった国語の先生に、是非とも読むよう勧められ、吉川英治の「宮本武蔵」を読破したことがある。
関ヶ原の合戦に雑兵として参加してから、巌流島での佐々木小次郎との決闘までを描いた展開は、少しばかり冗長に感じられ、どうして先生はこの本を読ませたいと思ったのだろう、と首を捻りながら読み進めたことを思い出す。
吉川英治の小説としては「新平家物語」の方が遥かに面白く感じられたものだったが、求道者として己の信ずる道を極める生き方を教えたかったのであろうか。
山襞を縫う九十九折りの山道を揺られて、智頭町の中心部に差し掛かったのは午前10時半頃で、初めての降車案内が流れたが、下車する客は誰もいなかった。
このバスに乗って、もう3時間半が経ったのか、と驚いた。
智頭と鳥取を結ぶ因美線の細い路床と、日本海に注ぐ千代川に沿う道路が醸し出す得も言われぬ風情が、僕の心を和ませた。
5年前に山陰本線の特急「あさしお」が通った経路とは全く異なる道行きであるが、国道373号線も悪くないではないか、と思う。
澄み切った清流を抱く河原が、山を下るにつれて少しずつ幅を広げ、周囲の山並みも後退して、視界が明るく広がっていく。
水田の合間に鄙びた農家がぽつり、ぽつりと建っている鄙びた光景を見れば、山陰に来たのだな、と思う。
用瀬、河原の停留所でも降車客はおらず、少しずつ建物が建て込んできて、山陰本線の高架の手前で右に折れれば、終点の鳥取駅前バスターミナルだった。
時刻は11時を過ぎたばかりで、ほぼ定刻である。
昭和56年に新しく開業したばかりの広々としたバスターミナルに、人影はそれほど多くなく、思い出したように路線バスが出入りするだけだった。
駅舎と別になっているターミナルビルには、日ノ丸自動車と日本交通の窓口が仲良く並んでいる。
どうして鳥取のバス会社は、日ノ丸だの日本だの、気宇壮大だが地域性に乏しい名前を付けたのだろう、と首を捻りたくなる。
日ノ丸の名を冠したバスやタクシー会社は東京にもあるけれど、全くの別資本で、日ノ丸自動車は、明治43年に米子でハイヤー事業を始めた明治屋が起源である。
大正6年に鳥取でバス事業を開始した関連会社の鳥取自動車を母体にして、昭和5年から同11年にかけて鳥取県内全てのバス会社が合併して誕生したのが、現在の日ノ丸自動車であるが、どうして日ノ丸なのか、上記のような歴史を紐解いてもよく分からず、合併当時の関係者の感性としか言い様がない。
県外への長距離路線の展開も日ノ丸自動車の方が早く、昭和25年に鳥取-姫路線を開業している。
昭和41年には日ノ丸自動車が「大阪特急バス」、日本交通が「山陰特急バス」と銘打ってそれぞれ大阪-鳥取線を登場させ、駅前で乗客の腕を引っ張り合うような熾烈な乗客獲得競争を展開したと言われている。
親権を争って子供の両腕を引っ張り、痛がる子供が可哀想になって先に手を離した方が本当の親である、という小話を思い出した。
故郷の信州で、2つのバス事業者がある街は長野市と上田市、軽井沢町くらいで、長野駅前で川中島自動車と長野電鉄バスが客引きで争うなど、想像もつかないので、土地柄なのかな、と思う。
日ノ丸自動車の「大阪特急バス」が昭和46年に廃止されてしまったのは、前述した通りであるが、その頃の両社は、競合路線を整理して単独運行に切り替える調整を行っていた模様で、姫路線は日ノ丸自動車、大阪線は日本交通と棲み分けることに合意したと聞いている。
僕は、日ノ丸自動車の米子行き急行バスに乗り換えて、国道9号線を西へ向かった。
鳥取市街を抜け出すと、日本海の海原が車窓いっぱいに広がって、心が洗われるような爽快な道行きになったが、このバスの車中の記憶は曖昧である。
鳥取と米子の間はおよそ90km、山陰本線の特急列車ならば1時間半、鈍行列車でも2時間あまりなのだが、このバスは2時間40分も費やしてのんびりと走る。
「急行 田後 米子」と表示を掲げているからには、全ての停留所に停まる訳ではないだろうが、次の停留所を告げる案内放送が引っ切りなしに流れて、忙しく乗降客が出入りする。
白兎海岸を右手に眺めながら、ここが伝説の因幡の白ウサギの舞台か、と身を乗り出したことまでは覚えているが、その後は、とろとろと居眠りをして過ごしたようである。
鳥取の海岸と言えば、日野川、天神川、千代川といった中国山地から流れ下る河川と、それによって形づくられた沖積平野としての米子平野、倉吉平野、鳥取平野と、弓ヶ浜、北条砂丘、鳥取砂丘などの砂丘や砂州、そして湖山池、東郷湖、中海といった潟湖が思い浮かび、どちらかと言えば平坦なイメージを抱いていた。
SF作家小松左京の「日本タイムトラベル」で、同行の建築家と鳥取砂丘を訪れた一節が、僕には衝撃的だった。
『「奥に入って見ましょうか?」
白山喜照は、砂丘を眺めながら聞いた。
「まあいいとしよう。どうも、毎度、巨大な人工の砂浜を見ると、げっそりするからね」
「ええ?人工の?」
白山喜照は眼を丸くした。
「この砂丘が、人工だと言うんですか?」
「そう──大きな意味ではね。ここだけじゃない。山陰の海岸線は、ほとんどが人工的にでき上っているんだ。原因は──千数百年に渡る砂鉄精錬らしい」
鳥取市当方の湖山池──あの池の中に、ぽつんと小さな島の浮かぶ名勝も、昔は天然の良港だったという。
だが、今は、海岸線より遥かに内陸に入った池になってしまった。
湖山池から、更に西方、白兎海岸を過ぎて三朝温泉のすぐ近くにある東郷湖までの間は、もともと兵庫県側の浜坂付近に見られるようなリアス式海岸だったのだが、これも滑らかな砂浜に変わってしまった。
砂丘の原因も、港が池になったのも、リアス式海岸が白砂の浜になったのも、原因は同じだ。
砂鉄精錬──。
一方では、精錬用の燃料として、上流中国山地中の森林をどんどん切り倒す。
砂鉄1トンを精錬するためには、ざっとその3倍の重量の木炭がいる。
このため、鳥取、島根地方には、砂鉄精錬を中心に、島根県田部家のように、所有面積2万4000町歩などという、途方もない山林地主が続々と出てくる。
室町、戦国、江戸と、鉄の需要が増えるにつれ、中国山地は次第に丸坊主になっていった。
1度山林を伐れば、恢復には30、40年もかかるから、植林もだんだん追っつかなくなる。
山に木がなくなれば、洪水が起こりやすくなる。これは常識だ。
それに加えて、砂鉄の採掘場では「鉱穴流し」という方法をとった。
川の上流で、砂鉄の層を見つけると、これをどんどん掘り崩し、川の水を大量に使った流し場へ放りこむ。
流し場には何段にも堰を設け、急流を利用して土砂を流すと、軽い砂は流れ出し、下の方の堰には、次第に重い砂鉄が溜まってくる。
昔から、どこでもやっていた選考鉱法だが──ここで掘り崩された山の土砂が、次第に川を埋め、洪水の時など、どっと下流に押し流されるのだ。
あとは、日本海の冬の風浪が、この砂を、あるいは砂丘に積み上げ、あるいは屈曲の多い海岸を滑らかに仕上げていく。
人間が掘り出し、自然が仕上げる。
長期に渡る人間の営みは、かくの如く、自然の形を変えてしまった。
砂丘のみならず、山陰の海岸一帯を「人工の浜」と呼ぶ所以である』
一方で、平野と平野の間の地形は、意外と険しく入り組んでいる。
倉吉と米子の間に位置する大山町では、大山の山裾が海岸近くまで張り出し、国道9号線のカーブが増え、断崖の高みから海原を見下ろす箇所が少なくない。
なだらかな山陰海岸も、元々はこのような地形だったのだな、と思う。
古びた急行バスのくたびれた座席に身を任せて、山陰路の海と山に彩られた景観をぼんやり眺めていれば、翌日に控えている日常生活など、彼岸のことに思えてくる。
折角の車窓を楽しむ時間を短くしてまで、先を急ぐ理由は、どこにも見当たらない。
色褪せた緑に染まる野山と、白波が浮く暗い海に、冬の弱々しい陽の光が射している車窓は、一服の絵を切り取ったかのようであった。
昼下がりの米子駅前に着くと、眠っているかのようにひっそりとしていた鳥取駅前とは対照的に活気があり、急ぎ足で駅舎を出入りする人が多い。
さすがは、山陰の大阪と呼ばれる商都である。
鳥取大学医学部も、米子に置かれている。
5年前の受験に受かっていれば、僕は、この街で学生生活を送っていたのか、と思う。
14時30分に米子駅を発車した大阪行き「山陰特急バス」は、市街地を抜け出すと、米子ICから米子自動車道に入って速度を上げた。
県庁は鳥取市に置かれているが、米子市の方が人口も多く、陰陽を連絡する伯備線が昭和57年に電化され、特急「やくも」が岡山で山陽新幹線に接続しているので、関西や首都圏との行き来は、鳥取より遥かに便利である。
高速道路までが、県都より米子の方が先に建設されている。
我が故郷の長野県でも、長野道が松本市まで通じているのに長野市に達していないことを思えば、米子よりも鳥取に親近感を覚える。
そう言えば、信州大学医学部も長野ではなく松本にあるのだったな、などと、遠く鳥取まで来て、故郷のことをくどくどと考えている自分が、何だか可笑しくなってきた。
田園地帯を貫く高架のハイウェイからの見晴らしは素晴らしく、左手に、大山が一望の下に開けている。
米子道のバス旅も悪くないじゃないか、と嬉しくなったのも束の間、20kmも走らないうちに「終点」の標識が現れて、「山陰特急バス」は、江府ICで一般道に降ろされてしまう。
米子道の供用開始は平成元年12月のことだが、米子ICと江府ICの間の部分開通で、江府ICから先、中国道落合JCTまでの全線が開通するのは、平成4年12月まで待たなければならない。
米子道が部分開通だった時代の「山陰特急バス」は、日野川と伯備線の線路に沿う国道181号線を伝って、再び中国山中の懐深く分け入って行く。
沿道の江尾、根雨の集落で乗車扱いをするが、乗ってくる客はいない。
勝山を過ぎて平地が少しずつ狭まってくる頃、「山陰特急バス」は、久世ドライブインで5分ほど休憩した。
長閑な田園に囲まれた静かな集落で、思いっ切り深呼吸をすれば、清涼な冷気がひんやりと喉に滲みる。
慌ただしく中国山地を駆け抜けてしまう伯備線の特急電車「やくも」では、このようにのんびりとしたひとときを味わうことは出来ないだろう。
このバスに乗りに来て良かった、と幸せな気分になる瞬間だった。
やがて、前方に中国道の高架が現れ、落合ICに入ったバスは、こちらの方が自分の本分です、と主張するかのように、脱兎の如く速度を上げていく。
中国道に入ってからは、夜行明けにも関わらずバスばかりに乗り詰めているためか、本格的に眠り込んでしまったようである。
鳥取系統と同じく横3列独立席であるから、周りの乗客に何の気兼ねもいらないのはありがたいが、座り心地があまりに良いのも考えものである。
安富PAでの休憩で外に出たのかどうかすら、忘却の彼方である。
ふと気づけば、「山陰特急バス」は池田ICで大阪環状道路に降り、すっかり暗くなった御堂筋を大阪市街に向かうところだった。
この便は、梅田に寄って弁天町バスターミナルを目指すのだが、19時05分着の梅田で大半の乗客が降りてしまい、車内に残っているのは数人に過ぎなかった。
19時40分に到着する予定の弁天町バスターミナルまで、30分あまりの車中の気分は、どん底だった。
色々な高速バス路線に乗ってみたい、という趣味が高じて、我が国有数の伝統路線である「山陰特急バス」で鳥取を日帰りした旅程が、こよなく幸せなひとときであったのは間違いない。
長野から東京に向かうのに、大阪どころか山陰まで足を伸ばしたのは、誠に壮大な道草であったけれども、親のスネかじりの学生でありながらと我が身を振り返れば、後ろめたさがつのる。
さすがに疲れも溜まり、ネオンがどぎつい大阪の街並みが、またもや、うるさく感じられた。
今度こそ、観念して東京に戻らなければならない。
梅田で下車すれば、新幹線の新大阪駅は隣り駅であるし、東京行きの新幹線にも間に合う時間帯だった。
自分はいったい何をしておるのか、とうんざりしながら、重い足を引き摺って、JR弁天町駅から混雑している大阪環状線の電車に乗り込むと、新今宮駅で南海本線に乗り換えて、南海堺駅に降り立った。
そこまで帰りたくないのか、と言われれば、全くその通りであって、東京への帰路は、平成元年10月に開業したばかりの、南海堺駅から東京駅に向かう夜行高速バス「ドリーム堺」号を手配していた。
「ドリーム」号と言えば、昭和44年に、東京-大阪系統と東京-名古屋-京都系統で運行を開始し、同じ年に東京-名古屋系統と東京-大阪系統を分離、昭和46年に東京-神戸系統を加えた、国鉄バスの老舗路線である。
昭和52年に東京-神戸系統を運休してから、長いこと、東京-名古屋・京都・大阪の3系統だけが運行されていた。
国鉄が分割民営化された後の昭和63年に、「ドリーム奈良」号が新設されたのを皮切りに、平成元年に「ドリーム神戸」号が復活し、大阪系統を「ドリーム大阪」号、京都系統を「ドリーム京都」号、名古屋系統を「ドリームなごや」号へと改称して、更に「ドリーム堺」号が新たに登場したのである。
僕が初めて夜行高速バスを体験したのは、昭和60年に国鉄時代の「ドリーム」号に東京駅から京都駅まで乗車した時だったが、当時は横4列座席の古びた低床車両だった「ドリーム」号も、今では、横3列独立席を備えたスーパーハイデッカーに更新されていた。
「ドリームなごや」号と「ドリーム京都」号の乗車体験はあったものの、「ドリーム大阪」号は未乗で、そちらにも心を惹かれたのだが、堺の街に足跡を記したくて、僕は「ドリーム堺」号を選んだ。
堺と言えば、中学1年生だった昭和53年に放映され、1話も欠かさず観るほどにハマったNHK大河ドラマ「黄金の日日」が思い浮かぶ。
『この町は、ベネチアの如く執政官により治められる。
堺と称するこの町は、甚だ大きく且つ富み、守り堅固にして、諸国に戦乱あるも、この地に来れば相敵する者も友人の如く談話往来し、この地に於いて戦うを得ず。
この故に堺は、未だ破壊せらるることなく、黄金の中に日日を過ごせり』
という冒頭のナレーションは、今でも暗ずることができる。
主役の呂宋助左衛門を6代目市川染五郎(現・2代目松本白鸚)、千利休を鶴田浩二、今井宗久を丹波哲郎、今井宗薫を林隆三、天王寺屋宗及を津川雅彦、小西隆佐を宇野重吉、能登屋平及を志村喬といった堺の商人たちに加えて、織田信長に高橋幸治、豊臣秀吉に緒形拳、徳川家康に児玉清、明智光秀に内藤武敏、石田三成に近藤正臣、小西行長に小野寺昭、高山右近に鹿賀丈史、安国寺恵瓊に神山繁といった戦国武将の配役は、歴代の大河ドラマの中で最もはまり役であったし、石川五右衛門の根津甚八、杉谷善住坊の川谷拓三、そして細川ガラシャの島田陽子、ねねの十朱幸代、淀君の藤村志保や、栗原小巻、夏目雅子、竹下景子、名取裕子、李礼仙といった脇を固める男優・女優陣も豪華であった。
最終話には、当時の市川染五郎の長男・藤間照薫(現・10代目松本幸四郎)が子役で出演し、中盤で、父の8代目松本幸四郎(初代松本白鸚)が出演したことと合わせて、高麗屋親子3代の顔見世となった場面では、一緒に観ていた父と母が、おお、と声を上げたものだった。
大河ドラマが始まる日曜日の午後8時が待ち遠しかった昔を懐かしく思い出しながら、堺駅に降り立ったが、街並みは、しん、と静まり返って、戦国時代に独立国家の如く黄金の日々の栄華を誇った商都の面影は、微塵も感じられなかった。
この夜の「ドリーム堺」号を担当するのは、南海電鉄バスだった。
「ドリーム」の名を冠した路線に民間事業者が参入した初めての例ではなかったか。
定刻にたがわず21時40分に発車した「ドリーム堺」号は、名神高速に向かわず、南海高野線の堺東駅に立ち寄り、松原ICから西名阪自動車道に入った。
松原、とは何処にあるのか、地図が頭に浮かぶ訳ではないけれど、次のインターで「藤井寺」の標識が窓外を過ぎ去っていったので、前年の日本シリーズの舞台はこちらだったのか、と漸く思い違いに気づかされたのである。
西名阪道と東名阪自動車道はれっきとした高速道路であるが、天理ICと亀山ICの間に挟まれている73.3kmの名阪国道は一般国道であるから、名神高速を使った方が速いのではないのか、と首を傾げたくなる。
名阪国道の計画が持ち上がった当初は、無料の一般公共道路として構想されていた。
昭和38年に策定された「第4次道路整備5か年計画」により、名阪国道は「近畿自動車道名古屋大阪線」の一部として、高速自動車道のネットワークに組み込まれている。
この整備計画は、日本に欧米並みの「国土開発幹線自動車道」を7600kmも整備する構想を打ち出した画期的なもので、現在の我が国の高速道路の総延長とほぼ等しい数字が提示されていることから、この整備計画が、半世紀後の日本の道路網の青写真だったと言えるだろう。
昭和38年4月、時の建設大臣が三重県知事選の応援演説の際に、
「今日から1000日間で開通させる」
と豪語したことから、「千日道路」とも呼ばれるようになった名阪国道は、公約通り昭和40年12月に暫定2車線で開通した。
昭和44年3月に西名阪道が、昭和45年4月に東名阪道がそれぞれ開業し、昭和52年には名阪国道全線が4車線化されて、名神高速と並ぶ大動脈の役割を担うことになる。
天理ICの先の名阪国道は、蛇のように身をくねらせながら大和高原に向けての登り勾配になる。
後方を振り返れば、灯が散りばめられた奈良盆地の夜景が遠ざかって行く。
名阪国道もなかなか良いではないか、と嬉しくなるけれども、荒れた舗装にポンポンと揺られる乗り心地は、中央分離帯を備えた片側2車線の堂々たる道路であっても、まさに一般道である。
当時は全線が時速60kmに制限されていたはずだが、制限速度を守っている車など、全く見当たらない。
曲線や勾配などの構造が高速自動車道路の基準を充分に満たしていないにも関わらず、ドライバーには高速道路と何ら変わりがないように見えてしまう名阪国道は、「準高速道路」という中途半端な扱いを受けている。
全国の自動車専用道路における単位距離あたりの事故発生件数で、名阪国道がワースト1という数字は、そのためではないのか。
特筆すべきは、東天理ICと福住ICの間の、大和高原と奈良盆地の境界にある「Ωカーブ」である。
最小半径150mのきついカーブと、平均6%に及ぶ急勾配で450mもの落差を越えるこの区間は、名阪国道の他の区間と比べても1km当たり3倍、東名高速道路の7倍にものぼる死亡事故多発区間なのだという。
最小半径150mとは、設計速度60kmの道路における曲線制限の下限で、巧みなハンドルさばきに導かれる高速バスに乗っていても、遠心力で身体が横に引っ張られるのを感じるし、他の車は「サザンクロス」号より遥かに速いスピードで、びゅんびゅん追い抜いていく。
道路脇に並ぶコンクリートブロックには、車の接触で削り取られたと思われる擦り傷が、幾筋もヘッドライトに生々しく映し出されて、思わず息を呑む。
ここだけは絶対に時速60kmで走らなければならないのに、と思う。
法定速度を守らないドライバーに責があるとは言え、Ωカーブをはじめとする名阪国道の事故で命を失った人々や家族の心境を考えれば、受給者負担の原則からも、名阪国道を有料化して財源を確保し、トンネルや橋梁を新たに設置して新線を建設することを本格的に考えるべきではないだろうか。
建設の初期に、名阪国道を有料道路に変更する案が検討されたことがあるらしい。
無料を前提とする公共道路に比して、自治体の負担が軽い有料高速道路への転換を三重県知事が陳情し、建設大臣も賛成したのだ。
当時、名阪国道は、建設と用地買収を同時に進める方法で完成を急いでいた。
無料を前提に整備することを地元住民に説明して用地買収を進めていたことから、有料化案が公になると、沿道の上野市が反発し、用地買収交渉を凍結する措置を取る騒ぎになった。
高速道路規格に変更するためには、出入口の数を大幅に削減する必要があり、沿線地区の直接利用が困難になる反面、料金所の設置などにより建設費用が10~20倍に跳ね上がる。
加えて、有料道路の建設には並行する無料の道路の存在が不可欠であるらしく、乗用車同士の離合すら困難な狭隘区間が多くて「非名阪」の異名を持つ旧道を、徹底して整備する必要性が生じる。
何よりも、工期の延長により、1000日間で完成させる公約が達成できなくなるなどといった政治家や官公庁、地元住民の様々な思惑が重なって、名阪国道は抜本的に見直されることなく、多くの矛盾を内包しながら開通したのである。
日本で初めて建設された名神高速でも、設計・建設側の経験不足から、関ヶ原付近の「今須区間」に、下り勾配からきついカーブが続く未熟な線形が誕生し、開通以来、尋常ではない件数の事故が頻発したことがあった。
昭和51年に改良された新道が建設されたが、名神高速が有料道路だったからこそ、速やかな予算措置が可能だったのではないだろうか。
名阪国道の建設が始まったのは、名神高速道路が開通する数ヶ月前のことで、日本地図には1本の高速道路も描かれていない黎明期であった。
無料の高規格道路を1000日で完成させます!──
当時の建設大臣の発言は、飛ぶ鳥を落とすような勢いがあった我が国の高度経済成長を背景に、歓声とともに受け入れられたのだろうと思う。
必ず、坂の上の雲をつかむことが出来るのだと、全ての国民が信じることが可能だった当時の風潮は、同じ好景気に湧く平成初頭に振り返っても、羨ましく感じられたのは、なぜだろうか。
多少揺れが強いものの、「ドリーム堺」号は、闇をついて、ひたすら東京に向けて走り続けている。
数日前に、同じく「サザンクロス」塗装のバスで大阪から信州に向かっていたことが、遠い昔のように感じられる。
名阪を走り終えれば、「ドリーム堺」号は、中央道に入って信州を横断する面白い経路である。
終点の東京駅八重洲南口の前に、新宿駅南口に寄るためであろう。
前日に出て来たばかりの故郷を通過するのは面映ゆいが、白河夜船で通過してしまうことだろう。
そのまま品川区旗の台の大学に直行するならば、6時00分着の新宿駅が便利であるし、大井町のアパートに寄るならば、6時30分着の東京駅である。
どちらで降りようかな、と迷っているうちに、押し寄せて来る眠気が限界を超えたようで、僕は深い眠りに引きずり込まれた。
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