たった一人自分にだけ伝われば良いと思っていた言葉がいつしか皆に伝わるようになる。しかも、皆に自分一人に紡がれている言葉だと錯覚させてしまう。燈ちゃんの詩はそんな存在だったと思う。何人ものオタクの心を抉ってきたと思う。自分もそんな言葉を紡ぎたかった。でも話すには不器用すぎて、言葉が浮かび上がってくるのはいつもゆっくりで、言うべき時を見失ってしまう。
自分の思っていることすら上手く表現出来ない。バンドリのit’s MyGO!!!!!を観てそんなことが頭にもたげてきた。燈ちゃんの詩はダイレクトに心に響く言葉ばかりで、通勤途中なんかに音源を聞いては背筋が伸びる気でいる。
しかし、自分は本当にそれで良いのかという思いがどうしても込み上げてくる。自分は燈ちゃんのように自分の感情や考えたことを不器用でも話し上げることが、伝えることが出来るだろうかと思ってしまう。
結局日々の労働や家族の問題なんかに押されて自分のことをゆっくり内省する時間をとれていなかった。それでも精一杯自分の感じていることをまとめて相手に伝えられる人もいるけど、燈ちゃんはそのタイプだけど、自分にはそんな才能は無かった。
自分の感じていることすら上手く言葉に出来ない。しかも、相手の考えていることもよく分からない。結局自分は感性が弱いんだと思う。だから燈ちゃんみたいにはっきりダイレクトに生々しく言ってくれないと受け取れないんじゃないかと思う。
最終回のそよちゃんと燈ちゃんの会話、あれが妙に心に引っかかっている。自分を最大限に魅せることが出来たら美人になるが、自分のことをよく知らないでただ優しそうに振る舞っているだけでは八方美人になる。そよちゃんは「八方美人」であって本当に優しいわけではなかった。そよちゃんは自分のことすらよく分からずに、いやむしろ自分のことが嫌いで「優しく人当たりの良いペルソナ」に逃げ込んでしまったのだろう。だからこそ、燈ちゃんの歌詞が「嫌いで好き」なのだろう。「気に入らない自分」を肯定してくれる詩に拒否反応を起こさざるを得ないほどに自分を傷つけていたんだと思う。
ペルソナをつけることは大人の象徴で、確かにペルソナをつけて生きることは大事だ。そこがそよちゃんの初見時の「大人っぽさ」を演出していたんだと思う。しかし、自分のことを良く知らないまま仮面に逃げてしまうのは逃げでしか無いのだろうか。自分のぐちゃぐちゃでどろどろの考えや感情と向き合うことが自分の地面を踏み締めて自分の感性・考えを形作っていくことなら、ペルソナを被りつつも自分を見失わないようにすることが、果たして自分にも出来るだろうか。自分の感性を磨いていくことが出来るだろうか。
まとめ