『ジェイムズ・ボールドウィンのアメリカ』

 

 

 

ジェイムズ・ボールドウィンについては、元々作家としての存在は知っており、映画『私はあなたの二グロではない』によって、米国の黒人解放運動の中での位置についてもある程度は知っていた。ただ、作品を含めてボールドウィンの文章を読んだことはなかった。

本書は、近年米国で再び関心を集めているボールドウィンの生涯と思想について、著者のエディ・S・グロード・ジュニアが自身の内省と苦悩を重ねながら探究したものである。

以下、特に印象に残った箇所を引いておく。

 

 

『「皆で前例のないことをしたいと思っている」とボールドウィンは一九六七年に書いた。「敵をつくり出す必要を感じることなく自分自身をつくり出すことである」。(p130)』

 

 

本書で特に注目されているのは、公民権運動を経ても根本的には変わろうとしなかった米国の白人中心社会(「ホワイト・アメリカ」)の姿に直面した時の、ボールドウィンの思想の変容である。その変容とは、表面的・相互的な外側への働きかけ以前に、暴力を被ってきた自分自身の内奥に向き合い、それを通して米国という社会のあり方を問う、という態度への転換だ。

 

 

ボールドウィンはもはや白人の魂を救うことや、白人が変わらなければどうなるかについて警告することは気にかけていなかった。「この眠れる者を起こすことはできない。あれだけ起こそうと試みたが」とボールドウィンは言い切った。「私たちはできることをして、互いを支えて救わなければならない」(p136)』

 

 

この時期にボールドウィンが言っている、「皆」とか「私たち」という主語が指しているのは、黒人への差別・迫害によって被害を受けてきた「私たち」ということである。これは分離主義ではなく、暴力による被害という生存(実存)の最も根本的な所から目を背けずに社会性を構築していこうという意志の表われと見るべきだろう。つまり彼は、ここに至って本気で米国の社会を変えようとしたのである。

公民権運動が内実としては挫折し、「ホワイト・アメリカ」がその反動性を露骨にしはじめた1960年代の末期、各都市で頻発していた若い黒人たちの暴動についての意見を聞かれて、ボールドウィンはこう答えたという。

 

 

『「街を破壊しまくる」用意のある人にどんな話をするかと尋ねられると、ボールドウィンは自分にとって何が本当に重要かを明かした。

 

 その人に言える唯一のことは、支持しているよということ、それがどんな意味を持つにせよ。その人に言えないことはこれです。屈服し、惨殺されるままになれとは言えない。武装しないほうがいいとも言えない。白人が武装しているから。・・・・その人に伝えようとするのは、人の頭を吹き飛ばす用意があるのなら―そうなる可能性もあるので―その人を憎まないようにしてくれということ。そうするのは君の魂の救済のためで、他にどんな理由もない。でも、よりよい人間であろうと努力しよう、努力して―どんなに高くついても―相手よりもよい人間でいようと。私たちは自由にならなければならないけれども、相手を憎む必要はない。憎むのは時間の無駄。

                                (p153)』

 

 

ボールドウィンは、暴力を否定するのではなく、憎悪をこそ否定する。憎悪とは、差別的な社会体制が主体の中に装填する操作の為の装置に他ならないと知っていたからだろう。

不要な装置を排除して、ボールドウィンは自己の内奥を掘り下げ、そこから言葉を紡いでいった。

 

 

『事実、ボールドウィンは最初から、自身の苦悩や弱さやもろさを徹底して掘り下げることを通じてアメリカや人間一般についての自分なりのより広い結論に達していた。生涯で何度もあった精神と心の崩壊は、ボールドウィンが何をどう書くかの中心にあった。継父につけられた傷、貧しい黒人として育ったつらさ、クイアである黒人男性としての孤独感が(先行者がいないので自分をつくり出さなければならなかったと言っていた)、深い孤独感と並んでボールドウィンが世界をどう見てどう経験するかに影響した。(p168)』

 

 

このような内省を可能にしたのは、この時期にボールドウィンが滞在したトルコという「異郷」での日々だったという。著者は、そうした言わば「安息所」の重要さを強調する。

 

 

『私たちは愛の共同体を見つけ、そこで休息をとらなければならない。(中略)ボールドウィンは、彼の名声や政治的地位には関心がないけれど、彼の傷を癒す養生の場所と創意をもって考えるための知的な空間を差し出した人たちのあいだに安息所を求めた。その人たちはボールドウィンに、料理することや酒や話し相手がいることの喜びを享受する場、自分の激しい怒りやもろさを表現する場をくれた。彼らはボールドウィンを愛した。愛は仮面を脱がせ、それを深く経験することで魂を強くし、私たちの共存を患わせるものへの対処法を示してくれる。(p194)』

 

 

本書の後半のピークは、著者がアラバマ州モントゴメリーにある、黒人差別の歴史を記録するレガシー博物館とリンチ殺人の犠牲者たちを追悼する記念碑とを訪れながら、ボールドウィンについて再考する所だ。この博物館とモニュメントは、南部連合の旗が林立するような白人中心主義的な土地の真ん中にあるのだそうだ。

 

 

『より重要かもしれないこととして、見学者がその暴力に直面するうちに起きていたのは、アメリカという国の体験の核心にあるトラウマに声を与えようとする試み―黒人が耐えた傷や痛手を描写しようとするだけではなく、その暴力が白人アメリカ人の魂にどんなことをしたかを示そうとする試みであるという印象を私は受けた。(p249~250)』

 

 

ボールドウィンにとっても、著者にとっても、黒人差別の本質は米国において白人であるということ、つまり差別する側に自分を置くこと、そして置いたままにするということにこそあったのだと言えよう。

 

 

『(前略)なぜなら白人になるとはつまり他者を支配下に置くこと、他者の中に自分を見、自分の中に他者を見る能力を封じることによって魂を損なう行為であるからだ。私たちのするべきことは、そのような魂の損傷がどのように起きたかの経緯を理解し、そうすることを通じて、それまでとは異なる類の創造物になる―世界においてそれまでとは異なる存在になるために、白人でいることの見えない呪縛から自分や国を解放することだ、とボールドウィンは断言した。(p258)』

 

 

上の一節は、本書の中でも特に大事なものだと思う。

さらに、ボールドウィン墓所を訪ねた最終部では、次のように書かれる。

 

 

『しかしボールドウィンは最後には、アイデンティティとしての白人性は心の選択であり、醜悪なものに基づく世界に対する一つの態度であることを理解してほしかった。人は、そうしたければ、よりよいあり方を選ぶことができる。私たちは単に、その選択が比較的容易にできるような世界をつくり上げればいい。(p273)』

 

 

ボールドウィンが闘った相手は、白人中心主義という過酷な現実から目を背け、「リンカーン公民権運動を通して、そして黒人初の大統領を通して、米国はその理想を一歩ずつ実現してきた」と吹聴する「アメリカの嘘」の支配力である。トランプが最悪なのはもちろんだが、この嘘が支配し続ける限り、黒人差別の現実も、米国の社会のあり方も、誰が大統領になろうと決して変わることはない。それが、著者の主張だ。

 

 

ボールドウィンは、挫折して諦め、今のままの世界を受け入れるべきだという結論は退ける。(中略)ボールドウィンは困難―恐怖と不安―のほうに向って走った。それに正直に向き合うことが救済に至る唯一の可能性であることを理解していたからである。「死ぬほど怖いなら、それに向かって歩きなさい」とボールドウィンは言った。

 アメリカ人は残骸の中を恐怖と不安に向かって歩き、私たち皆が抱えるトラウマをさらけ出さなければならない。(p275~276)』

 

 

最後に、次の著者の言葉を読むとき、ここで語られているのはあくまで米国の話であって、私たち日本の現状とは無縁であると(形だけでも共和政体をとっている米国と、こちらの国とでは根本的な違いがあるとは言っても)、果たして言えるだろうか?

 

 

『私の想像では、この地は黒人の子供が生まれながらにして国外追放されない国、彼らの心を傷つけ、親が子の魂を守るために日々応急手当をするように強いる無数の切り傷や深い傷に耐えなくてもいい国になる。価値の格差とのつながりの切れた新しいアメリカは、私も含めた何百万もの黒人がついに、この国の矛盾によって頭がおかしくなっても不思議はないという懸念なしに安心してここにいることができるようになる。この国に「いるが属してはいない」という落ち着かない気持ちがなくなる。自分たちの罪を隠すために嘘をつかなくくてもよくなるので、誰もがしばらく休むことができる。これが、私の想像の中で生まれてくるアメリカである。(中略)私はアメリカがまたもや安全を選ばないことを祈る。(p277)』