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やろう!確定申告
sugitasyunsuke.hatenablog.com
●椎名林檎についてのメモ 椎名林檎の『無罪』『勝訴』は実存的ロマン主義と人工的古典主義のせめぎあいの奇跡的果実であり、しかし彼女の女性としての肉体をずたずたにし、3枚目で古典主義的な技巧に着地して(緊急避難して)、結婚出産離婚からの引退も十分ありえたけど、バンドとしての東京事変で「職業訓練」を延々と10年続けて、自己模倣と劣化コピーに耐えて、4枚目5枚目辺りではかなりの水準まで行って、その頃にようやく出したソロとしての4枚目『三文ゴシップ』はかなりよくて(ブレヒト的な「労働者」「生活者」の手触りすらある)、しかしそれよりも何よりも、5枚目の『日出処』が完全に芸術的享楽として突き抜けてしまっていて、初期の『無罪』『勝訴』の達成を更新しているんだけど、これがまさに安部政権寄りの権威的ナショナリスト、ネタがベタ、日本版リーフェンシュタール再来、等々と批判されているわけで、僕もまた、『日出処』以降
上記のα-Synodos原稿から削った部分(原稿が長すぎた、同号の粥川氏の原稿とかぶった、本論とあまり有機的な繋がりがない、等の理由による)を下記に(せっかくなので)アップしておきます。 優生思想とは何か。 以下では、(1)古典的な優生思想、(2)リベラルな優生思想、(3)増強型の優生思想の三つを区別して論じる。 まず(1)の古典的な優生学について。 一般的に、優生学とは、人間の遺伝的要因に着目し、それを利用して人間の性能の劣化を防ごうとする、あるいは積極的にその質を改良しようとする学問的立場、社会的・政治的実践のことである(立岩真也「用語解説」、安立清史・杉岡直人編『社会学』)。 スペンサーらが唱えた社会進化論(Social Evolutionism)は、ダーウィンの進化論を受け、 それを人間的な社会に適用・応用しようとする社会ダーウィニズム(Social Darwinism)へと繋がり
*本日のゲンロンカフェの参考までに、ブログにアップしておきます。あまりまとまりがないので、あとで消すと思います ●柄谷行人が「批評と運動」の総決算として試みたNAMの無残な失敗は、すでに、忘却され、嘲笑され、スルー(その逆に神話化?)されている。それは当然のことのように思う。それに対し、NAMに至るような運動的な流れよりも、1980年前後の理論的仕事が再評価されることもある(大澤信亮氏、東浩紀氏)。僕もまた、学生時代に「内省と遡行」シリーズから柄谷に夢中になり、そこから批評や文芸評論を学びはじめた人間だから、そういう感覚はよくわかるつもりである。 ●けれども僕は、それと同時に、2000年頃のNAMの前後に、柄谷行人の中のかつての可能性の再燃があり、復活があったのではないか、とその後も考えてきた(たとえそれが不十分なものであり、運動は無残に失敗し、ありえたポテンシャルは水子化してしまったとし
以前facebookに書いた文章を転載しておきます(加筆修正あり)。 *** 先日炎上した『シン・ゴジラ』批判についてはいつかまとまった評論を(おそらく庵野秀明論として)書こうと思います。それを応答というか、責任の取り方にできれば、と考えています。 しかしその前に、いちばん反省している「あらかじめ男性化された女性たち」云々という発言について。 僕には例えばカヨコはアスカを、ヒロミはレイを殆どそのまま実写に転化したものにみえました。防衛大臣の描き方もカリカチュアというか、アリバイ作りにみえました。そういう言い方をするならば、『シン・ゴジラ』では、薄っぺらでステロタイプな人間像しか「あえて」出していない、とも言えます。 もともと『エヴァ』のアスカやレイやミサトは、ある種のオタク男性たちにとって都合のいい女性イメージを強く投影したものだ、と僕は考えています。そして『エヴァ』にはそういう女性像を欲
かつてfacebook(2014年8月4日)に投稿した記事を以下に転載します(一部個人的な人間関係の話は削除しました)。 ***** 太田信吾監督『私たちに許された特別な時間の終わり』を昨日、試写で観た。 《2010年12月、かけ出しの映画監督の太田は、ひとりの友人を自殺で亡くした。彼の名は増田壮太(そうた)。かねてより壮太とバンド仲間の冨永蔵人(くらんど)を撮影していた太田にとって、そのショックは大きかった。10代のバンドコンテストで優勝するほど音楽の才能に恵まれ「ミュージシャンになる」という強い夢を持っていた壮太がなぜ———。一方、壮太に誘われバンドを組んでいたものの、何がやりたいのか自分でも分かっていなかった蔵人は、徐々に壮太と袂を分かち、就職することで自分の居場所を見つけはじめる…。 本作はそんな3人の若者たちをめぐるドキュメンタリー。監督は岡田利規が主催するチェルフィッチュに俳優
●湯川遥菜氏の経歴が切なかった。というか、もやもやするものがあった。この国の「男であること」のこじらせ方が切ないと思った(つまりLGBT的な文脈や彼の人格的な特殊性では片付かないと思った)。それは弱さゆえに虚勢を張り続ける安倍晋三氏の男権主義とも、どこか深いところで通底するものなのかもしれない。その戯画的な自己破壊性(そして周囲の人々を巻き込んでいくこと)において。そう思った。最初に湯川氏殺害のニュースが流れたとき、一瞬でも「後藤さんでなくて良かった」と感じた僕の中にも、根深い何かがあると思った。リベラルな良心や人間性の問題とは少し違う。もう少し根深いところで、とても嫌な気持ちがした。僕の言語感覚では「私はharunaだ」とは宣言することはもちろんできない。しかし……どうにももやもやするものが残った。そのもやもやした手触りを忘れないでいようと思った。 ●この国には自己責任論のみならず、不思
【再掲】将来の労働/生存/文化運動を削る試金石――舫いとしての浅尾大輔『ブルーシート』 (「国文学・解釈と鑑賞」、二〇一〇年四月号、学燈社、加筆修正あり) グローバリゼーションのもとの新しい多元的な貧困の形。国内でそれに与えられた名前は〈フリーター〉だった。現在の私たちは、年越し派遣村の報道/湯浅誠の国家戦略室内閣府参与への登用/民主党政権の誕生などによって、「すでに一定の決着をみた」というある種の弛緩した空気の中にある。そもそも、先進国での社会運動なんてものは自己実現や承認ゲームにすぎないのではないか、格差や貧困の問題は、財政出動/金融政策/情報技術などによってマクロ的に解決されるべきものだ、云々と。こうした「よき全体主義」の空気の中で、私たちが強いられているはずの様々な敵対性(対立)は不断に断片化され、飼い慣らされ、無化されていく。 だが、何も終わっていない。問いは、今もなお、古くて新
本年の最後となりますが、「宇多田ヒカルのパッション」の【ver.2】をアップします(最初のヴァージョンは二〇〇八年の『無能力批評』に収録されています)。感謝を込めて。来年もよろしくどうぞ。 ******* 宇多田ヒカルのパッション【ver.2】 JASRACより以下の削除申請があり、本記事をいったん凍結しました。(2015年1月7日) > From: cs@hatena.ne.jp > To: sssugita@hotmail.com > Subject: 【はてな】JASRACより歌詞に対する情報削除要請がありました > Date: Wed, 7 Jan 2015 11:25:12 +0900 こちらははてなサポート窓口です このたび、sugitasyunsuke 様のサービスご利用において、歌詞の無断転載が 行われており、著作権侵害に相当するとして、著作権管理団体であるJASRAC (
【再掲】レビュー――小熊英二『社会を変えるには』(「ゲンロンサマリーズ」vol. 053) 本書で小熊がいう「社会を変える」は、ラディカルな革命のことではない。漸近的に進む調整・改良(リフォーム)のことである。小熊は、「左」の社会運動の歴史を、穏当な日常の文脈にソフトランディングさせてみせる。本書の、穏当で良識的な語り口は、「左嫌い」の人々にも、気軽に手に取りやすいものであるはずだ。 強い倫理や革命を要求する「左翼」の存在意義は、すでに失われた。今、必要なのは、社会をリフォームし続けるという漸近性(世の中は少しずつしか変わらない)を受け入れ、しかもそこにポジティヴな「楽しさ」を見出していくような、しなやかで成熟した「左」ではないか。こうした意識は、おそらく、近年の社会運動の最前線では、デフォルトになりつつある。 本書は、そのまま、最近目立つ性急な革命への情熱(ポピュリズム、ネット革命、宗教
藤田直哉氏の『虚構内存在』の内容については、「すばる」に書評を書かせて頂いたので、また報告しますが、『虚構内存在』の193頁前後で(批判的に)言及されている「キャラクターリブ」に関して、参考資料として、関連する箇所を再掲しておきます。 【再掲】「社会運動2・0への想像力――批評・労働・キャラクターリブ」(『未来回路』2.0、2010年) 杉田 (略)僕が今ぼんやり考えているのは、キャラクター的なものの中に生命や他者性を実感するとは、どういうことか、っていうこと。ウーマンリブやアニマルリブの延長上にあるものとしての「キャラクターリブ」、と言いますか……。 杉田 ピーター・シンガーが『動物の解放』で、公民権運動や女性運動の延長上に、動物倫理の話を持ちだしますね。黒人や女性の権利を主張するだけでは、動物たちへの種差別は解消されない、と。しかしその先には、明らかに、非生命の話が出て来ている。「公民
【再掲】「歌」よ、鳴り止め――入江悠『サイタマノラッパー3 ロードサイドの逃亡者』映画評(『映画芸術』439号) 近年、「郊外」は、グローバリゼーションの中の「日本」を象徴するスポットとみなされている。一九九〇年代半ば以降の社会学などでは、犯罪の温床/均一性/殺伐さなどが強調され、二〇一〇年代は、ショッピングモール的/多幸的/消費者天国的な郊外イメージが強調されている。これらに対し、入江悠や富田克也らの映画が我々の網膜に焼き付けるのは、階級/世代/外国/地方などの、この国の様々な矛盾の凝縮点=ホットスポットとしての郊外である。だがその描き方は様々だ。 富田の『サウダーヂ』には、甲府全体を俯瞰するスケールの大きさがあるが、入江の『SR』のポイントは「半径1メートル」というその「狭さ」にある。だが入江は、その狭さと引き換えに、冨田の映画(『雲の上』も『国境20号線』も)が未だ捉えられない光景を
私は7年前(2005年)の『フリーターにとって「自由」とは何か』で、資本主義の暴力を、弱い者がより弱いものを叩くという矛盾(加害と被害の無限螺旋)として考えようとした。 今はこう思う。弱いものが弱いものを叩くその矛盾に苦しみ、失語することができること。孤独な痛みに自らの体と魂で向き合えること。それが私たちの「自由」の必要条件なのかもしれない、と。 労働の過酷さが私たちの感覚を私的所有/独語/被害者意識へと閉ざしていくなら、その矛盾そのものを他者の方へと開き直すこと――そして被害者意識でくっ付くのではなく、その自由によって新しい関係を結び直すこと――「ひとりで生きる」ことと「共に生きる」(協働する)ことの意味を、そこから、再び考えたいと思っている。 かつて「私たちは、もっと怒っていい」と書いた。しかし、肝心なのは、それがフリーターズフリーの結成・活動と同時進行だったということではないか。私た
現代アートをめぐって、下記のメンバーで座談会をしました。 テーマは、現代アート、地域系アートプロジェクト、ネットカルチャー、floating view、カオス*ラウンジ、拡張現実、AR詩、pixiv、東日本大震災と喪の問題、郊外論ブーム、アートと金銭問題、倫理と責任……。そして現代アートに込める希望・祈り・愛。 ぜひ、ごらんください。 【参加者】 藤田直哉:SF・文芸評論家。http://d.hatena.ne.jp/naoya_fujita/ ni_ka:詩人。モニタ詩やAR詩を発表。http://yaplog.jp/tipotipo/ 佐々木友輔:映像作家。企画展「floating view 」主催。http://www.geocities.jp/qspds996/ 杉田俊介:現在、主夫+パートケアワーカー+批評家。 ■ 地域系アートプロジェクトの現在 杉田俊介(以下杉田):本日は、現
思うところがあり、映画『ドラえもん のび太と鉄人兵団』(一九八六年の旧版)の感想を書きとめておきます。 漫画家の篠房六郎さんの『鉄人兵団』感想が素晴らしいので、まずはそちらの一読をお勧めします(http://togetter.com/li/110187)。 それから、こちら(http://d.hatena.ne.jp/DieSixx/20110103/p1)の、ドラえもん長編映画全作レビューがとても労作。 映画ドラえもん のび太と鉄人兵団【映画ドラえもん30周年記念・期間限定生産商品】 [DVD] 出版社/メーカー: 小学館発売日: 2010/09/03メディア: DVD購入: 2人 クリック: 94回この商品を含むブログ (18件) を見る大長編ドラえもん (Vol.7) のび太と鉄人兵団 (てんとう虫コミックス) 作者: 藤子・F・不二雄出版社/メーカー: 小学館発売日: 1987/0
●以下は、3月18日夜に友人に送ったメール(に加筆修正したもの)です。時間が経ち、すでに事実認識が違ってきているところもありますが、一つの記録として、残しておきます。 日増しに東北関東大震災(注・その後公式には「東日本大震災」となった)の死者数・行方不明者数が増え、被災地の状況も悪化していきますね。急激な円高と国内経済の悪化も、今後は、致命傷になりかねないそうです。震災を理由にした給与未払いや非正規労働者の切り捨てもはじまっているようです。何より、福島第一原発の状況が、底無しに(じわじわと、穴吊るし的に)悪くなっていく。●●さんや●●以外にも、●●さん、●●さんも関東圏から疎開しました。アパートの隣りの中国人親子も、間もなく、中国へ退避するそうです。淋しい。不穏です。疎開とか被曝とか、あたかも戦時中のような言葉が飛び交いますね。ただ、物書きとしての僕らの業界で言えば、まだまだ相対的な安全圏
藤田直哉氏のエントリー「システム改変的想像力の作品群」(http://d.hatena.ne.jp/naoya_fujita/20090804)が、最近ぼんやり考えていたことに近かったので、以下メモを。 宇野常寛は『ゼロ年代の想像力』で、「九〇年代のセカイ系(ひきこもり)から〇〇年代のサバイヴ系(決断主義)へ」というアウトラインを描いた。一九九〇年代の想像力は「ひきこもり系」「セカイ系」であり、『エヴァンゲリオン』『涼宮ハルヒ』等に代表される。これに対し、二〇〇〇年代の想像力は「サバイブ系」「決断主義」によって特徴付けられ、『DEATH NOTE』『コードギアス』等に代表される。《「引きこもっていたら殺されてしまうので、自分の力で生き残る」というある種の「決断主義」的な傾向を持つ「サバイブ感」は、ゼロ年代前半〜中盤の大きな流れになっていく》。 九〇年代の批評を牽引した批評家の東浩紀(とその
以下は、ちょっと前に『かざぐるま』(2009年4月号)という神奈川県の障害者福祉関係のニュースレターに掲載された書評です(字数の関係で削った部分を復元してあります)。 高岡健『やさしい発達障害論』書評 題名に反して、本書は「啓発」の本ではない。事実氏は言う。「本書は、多くの発達指南書とは、一線を画しています」。もちろん高岡氏は、精神医学の科学的知見や蓄積を放棄しない。しかし、氏が目指すのは逆に「分断線を消し去る」ことである。発達障害と知的障害、発達障害のある人とない人の間の分断を、また軽度発達障害などの新しい細分化を、氏は繰り返し批判する。本書の一見平易な言葉の底にあるのは、「発達障害」という言葉の周囲で加速度的に生じる強迫的な分断への違和であり、それに加担して稼ぐ専門家や支援者への違和である。 大切なのは、高岡氏が一貫して、障害をめぐる分断を、工業化/高度産業主義化/複雑化という社会−経
白崎朝子さん*1の『介護労働を生きる――公務員ヘルパーから派遣ヘルパーの22年』が現代書館から4月3日に刊行されます。杉田も帯に推薦文を書かせて頂いた。 介護現場の暴力の渦中に飛びこむ白崎さんの絶句とサバイブ自体が、この国のすべての介護労働者たちへのエールになるだろう。希望はあなたたちの中にある、と。 http://www.gendaishokan.co.jp/new01.htm 介護労働を生きる 公務員ヘルパーから派遣ヘルパーの22年 4月上旬発売予定 白崎朝子 著 四六判上製 208頁 定価1600円+税 「愛」なき国の介護現場から紡ぎ出された魂の結晶。学者には書けない「生きた思想」がここにある! ヘルパー不足のなか派遣切りされた人を介護にシフトする案が出ているが、介護労働はそんなに単純なものではない。自身と7人の介護労働者の経験から、混沌の介護現場を支える介護労働者の未来を展望する。
長らくお待たせしましたが『フリーターズフリー』02、ついに発売です。責任編集・栗田隆子、メインは「女性の労働と生活」。HPも更新しました。*1予約注文可能です。一般の書店には12月1日頃、出回る予定です。1300円+税。初版3500部。結果として、1960年代後半〜2000年代の様々な女性運動の歴史をコネクトし、過去の「なかったことにされてきた」活動や声を手探りで掘り起こし、「現在の必要」を見つめることで「明日の希望」を切り開く――そういう一冊となりました。そして読者の皆さんとの出遇いと交わりと通して、未曾有の地平を未来にひらくポテンシャルを懐胎していると思います。何より、楽しい。かわいい。ぜひお手に取ってみて下さい。売り方(届け方)もいくつかのアイディアを工夫していきます。 フリーターズフリー Vol.2 ■ 巻頭セッション 労働と家族を問う 国澤静子×白崎朝子×村上潔×生田武志×大澤信
『1995年――未了の問題圏』(大月書店)という本に参加しています。まもなく刊行の予定です。 http://www.otsukishoten.co.jp/cgi-bin/otsukishotenhon/siteup.cgi?&category=1&page=1&view=&detail=on&no=226 戦後史の結節点としての〈1995年〉から照射される現在 大震災とオウム事件、就職氷河期と「新時代の日本的経営」、戦後50年と「ゴーマニズム宣言」 …私たちはまだ〈1995年〉の問題圏の内にある。サブカルチャーから政治・経済まで、多面的な社会分析を行ってきた哲人・中西新太郎と、各方面で活躍する気鋭の論客5人が、世代・分野を超えた対話を通じて迫る〈1995年〉のリアル。 【目次】 はじめに――ようこそ!「バブル崩壊後の焼け野原」へ 雨宮処凛 序論 1995年から始まる 中西新太郎 対論1―生
サバイバー・フェミニズム 作者: 高橋りりす出版社/メーカー: インパクト出版会発売日: 2001/04メディア: 単行本購入: 4人 クリック: 121回この商品を含むブログ (10件) を見る 高橋りりすさんの中では「アメリカの大学でセクハラを受けたことのトラウマ」と「日本でフェミニズム系の支援団体から受けた傷のトラウマ」という二重のトラウマが絡みあっている。 この本を(単なる第三者の読者のぼくが)どう受け止めるかは、それなりに難しい。 実際に被害者に関わる場合、「中立」は無い。たとえばその人の事件の記憶や証言が事実か虚偽か、ということ「だけ」ではなく、そもそもその人の痛みを(記憶の混乱や虚偽をふくめて)信じるか信じないか。それがまず大事になる。 しかし、ある種の場合は、早急にサバイバーの「味方」を標榜することの危うさも、ありそうに思う。たとえばamazonの評価「フェミニズムの落とし
赤木智弘さんや白井勝美さんなどの経済弱者系の当事者本を読んでいると、女性に対する物の見方にぎょっとさせられることがある。バックラッシュというのですらないような、不気味なほどの保守的な女性観。労働運動や反貧困運動をしている人からも、あまり表立っては批判されないようだ。ぼくにとっては、経済的な貧困の話と性の話は、切り離せないものなので、素朴に不思議に思う。もっとも新左翼にせよ青い芝にせよ、男性の左翼運動の歴史は性暴力の歴史なのかもしれないが……(この辺は『フリーター論争2.0』の4章などでかなりソリッドな議論がされています)。女性の権利運動・リブ・フェミの歴史の蓄積があり、一般の男性には広まらなかったとは言えメンズリブや男性学、あるいはクィアなどの歴史もあるのに。そういう問題を考える余裕がないから経済弱者なのだ、動物的生=性を送らざるをえないのだ、ということなのかもしれないけど、いくらなんでも
mojimojiさんの以下の問いかけは、一見極端に見えるけれども、とても重要に思われた。 《【1】僕は、死刑に賛成する人には、その人自身が執行人になるということまで含めて賛成してもらいたいと思うと同時に、【2】死刑のみならず終身刑をはじめとして死刑以下のさまざまな刑罰についても反対し、つまりは被告人を再び社会の中で自由に行動させるところまで含めて認めたい人には、その人自身が被告人の隣人となるということまで含めて賛成してもらいたいと思う。【3】もちろん、自分ひとりについてなら、この問いに簡単にイエスと答える人はいるだろう。だから、上記の問いにイエスと答えられた人は、それを自分以外のすべての人に要求することまで含めてイエスというのだ、というところまでハッキリと明言してもらいたい。》(「死刑と終身刑についての追記」、http://d.hatena.ne.jp/mojimoji/20080425/
上山さんの周辺がずいぶん陰惨なことになっている。 http://d.hatena.ne.jp/gojopost/20080520 http://d.hatena.ne.jp/ueyamakzk/20080522 ぼくはここにある個人的なデジャヴを覚える。 その上で、font-daさんの「当事者」論を、ある痛さと共に読んだ。 http://d.hatena.ne.jp/font-da/20080519 《当事者は「自分の身に起きた不幸」を晒す。その不幸は、本当に不幸である。だからこそ、不幸がパワーになる。逆に、幸福になることは、パワーを手放すことになる。つまり不幸を手放すことは、せっかく当事者として生きていく道を掴んだのに、それを捨てることである。 上山さんの指摘する、ひきこもり当事者の長いキャリアが持つインパクトの、相反する2側面と重なる問題である。上山さんの長いひきこもりは不幸である。し
【後記】データの貼り付けを間違えて、一部、言葉遣いが目茶目茶だったので、直しました。すんません。 下記のような本を読んでいた。以下、単なるメモとして。 http://d.hatena.ne.jp/sugitasyunsuke/20080216/p1で書いたような「男性のセクシュアリティ」「男の性」について考えていくなら、その先で、いつか「被害者」と「加害者」という論点にぶつかるのを避けられないと思っていた。またhttp://www.allneetnippon.jp/2007/08/3_10.htmlで書いたようなことをもっと明晰化したい、ということもあった。死刑制度や児童ポルノのことも頭の隅にあった。 そもそも「被害者」と言っても、犯罪/災害/事故/児童虐待/DV/性暴力などでずいぶん違いがある。また「加害者」と「被害者」は必ずしもワンセットで捉えるべきではなく、独立的に捉えた方がいい場合
ロスジェネのウェブサイト。 http://losgene.org/index.html 下記のイベントに参加することになりました。 http://losgene.org/event.html 超左翼マガジン『ロスジェネ』刊行イベント開催! 第40回紀伊国屋サザンセミナー★言論空間に挑む新雑誌 次々と世に出る「思想地図」(NHK出版)、「VOL」(以文社)、「フリーターズフリー」(人文書院)、そして「ロスジェネ」(かもがわ出版)。編集者たちは何をめざすのか。徹底討論の場を設定した。 とき 6月27日(金)19:00開演(18:30開場) ところ 東京・紀伊国屋新宿南店サザンシアター(紀伊國屋書店 新宿南店7階) 料金 1,000円(税込/全席自由) 〈第1部〉 出演者・浅尾大輔 作家、「ロスジェネ」編集長 ・雨宮処凛 作家 ・増山麗奈 画家、「ロスジェネ」編集委員 〈第2部〉 出演者・赤
介助者は時に自分の身体をあんまり大事にしない傾向があるように思う。腰痛とか感染症予防のことではなく。もう少し手前にあること、基本的なこと。たとえばガイドヘルプ中に頭を殴られ爪を立てられても「相手から殴られても当たり前、自分の介助技術が足りないから仕方ない」と、まず反省してしまうとか。もちろん、身体的暴力をすべて「それは暴力だ」と否定していたらきりがないし、介助者の配慮不足もたくさんあるので、境界線はあるのだけれど。 最首悟は、ケアはいやなもの、汚いものだと言っている。立岩真也も、介護には「負担であり逃れたい側面のあること」「世話すること、介助することは、肯定されるべきもの、肯定的なものである一方で、それは負担であり、否定的なもの、いやなことである」と言っている。堀田義太郎さんも「せずに済めばよい」ものと言っている。 最首さんはさらにすごいことをさらっと言っていて、ケア労働は歴史的に卑賤とさ
山口県光市の母子殺害事件の広島高裁の差し戻し控訴審判決に関わるニュースを見ていた。この間、森達也さんの『死刑』を2回、ゆっくり読んでいた。死刑制度の是非については、ぼくにはあいかわらず何とも言えない。ろくに知らないことについて何かを言えば、何を言っても、必ず間違える。だから多くの事柄でぼくは沈黙を選んできたし、これからもそうする(それでも十分、無知なる饒舌を繰り返してきたし、これからも繰り返すだろう)。ぼくの日常の中で、死刑に直接関わる人はいない。誰も。影すら見えない。ただ、この事件について、また死刑制度の現状について、現時点での考えを、いくつか書きとめておきたい、とすごく思った。ので、書く。 死刑 人は人を殺せる。でも人は、人を救いたいとも思う 作者: 森達也出版社/メーカー: 朝日出版社発売日: 2008/01/10メディア: 単行本購入: 12人 クリック: 399回この商品を含むブ
◆堀田義太郎[200803]「ケアと市場」、→『現代思想』2008年3月号、青土社 を読みました。 『生の技法』以降の社会学+障害学の介助システム論の達成を踏まえ、かつ、介護労働市場をめぐる実証経済的分析をも取り入れようとし、一段階ギアチェンジした総合的な介助システム論の構築を目指している感じ。 とても学ぶものが多かった。 経済学方面からの批判は様々にあるだろうし、まだ荒削りな部分も多いけど、実際に介助をやっている堀田さんならではのデリケートな諸論点を随所に取り込み、これから全面的に展開されるだろう多様なポテンシャルが濃縮されている。 そしてただの「よくお勉強しましたね」という程度の「研究」でないことは、次の結語からもわかる。「放棄すべき「恩恵」とは、分担できるのに《せずに済んでいる》ことそれ自体である」「その条件は、まずは自らがそれを担うことである」「そして、これらの問いはその性質上、各
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